シャバットとハヌカ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

明日11月28日の日没から8日間のハヌカの祭りが始まります。

これはレビ記23章に書かれた”モアデイム”とは異なる性質の

記念日ですが、神が実際に神の残りの民に勝利をもたらした

歴史の史実を祝う祭りでもあります。

唯一ハヌカの内容をしる手がかりは、マカバイ記1、2と

そして歴史家ヨセフスが残した歴史の記録だけです。

聖書で唯一、ハヌカ=宮きよめの祭りが語られているのは、

イエシュアがハヌカの祭りでエルサレムの神殿におられた記録が

書かれているたった一箇所ですが、ハヌカの祭りを実際に

イエシュアが祝っていた記録がヨハネ10章にあり、WWJDを

同じ様にしたいのです。

 

ユダヤ人ではなくても神の契約の中に加えられている同じ神の民はユダヤ人と同等の神の国の共同相続人と書いてあるのです。

エペソ2章。イエシュアがされていた事をしたい。

人の伝統の教えではなく、神のオリジナルの教えを生きる事が

神の性質に造られた人間の本来の生き方=イエシュアが生きられた通りを生きる事であると信じているからです。

 

ハヌカの祭りの裏にあった背景、事件はマラキ書が書かれた後

から、イエシュアが誕生する前の160BC 年代に、セレウコス朝シリア王国の支配下にあったイスラエルギリシャ帝国に宣戦布告をしたと言う背景です。

 

初めは、イスラエルがギリシャ帝国に対して反逆した事ではなく

シリア王アンテイオコス4世エピファネスがユダヤ人に対する

ヘレニズム化政策を強化した事で、多くのユダヤ人達は自分達の

アイデンテイテイを捨てギリシャ帝国=異教の神々の教えの前に

迎合して行った事なのです。

 

どう言う事かと言うと、聖書=トラーに書かれた神の子らの生き方、天に属する人の生き方を捨てた事です。

これは1世紀後半、エルサレムの神殿崩壊の後ローマ帝国による迫害=トラーを生きる事、祭り、割礼、食べ物、その他諸々トラーに書かれたローマ帝国に取り異物な教えを生きてはならぬ!と言う勅令を出されたことと同じです。ホロコーストは何度も繰り返されているのです。

 

現在のクリスチャンがオリジナルの聖書のトラーのルーツから

遠く離れた理由は、1世紀後半から始まった事なのです。

トラー=モーセの五書に書かれていることを生きたらローマ帝国に殺されるので、ユダヤ人とは決別し、自分たちの宗教=ローマ帝国に取り、余り差し障りのない、抵抗の無い教えを作り出し

妥協したからです。

そして、ユダヤ人であるパウロの様な教師から離れて、ヘブライ

の書トラーを教える教師ではなく、ヘレニズム思想=人間本位思想の目から考える聖書を曲げる教えをする教師に指示して行った

事が本当の原因なのです。トーヴな教師を持たない弊害は普通の

世界でも体験しているから理解出来る内容だと思います。

 

 

とにかく、異邦人信者はユダヤ人とは決別しローマに対して

差し障りない教えやローマ帝国と同じ記念日=日曜日を礼拝日と変更し、それに便乗して聖書とは異なる様々な教えを異邦人が編み出して別の教えの路線に乗ったので、今は1世紀の信者や使徒イエシュア、パウロとは異なる教え=トラーを否定した教えが

正当であると疑いもなく信じているのです。

 

この事実は、聖書を否定する教えを信じる場合には、見えてこない内容ですが、これはこれから近い将来再び起きる事でもあるのです。いやもう実際には起きているのです。

歴史は繰り返され、そう預言されているからです。

イスラエルの神に属する人は、同じ神の契約に加えられた事実は

人間がどう否定しようと、どう神の言葉を曲げようとも絶対に

変わらない事実なのです。

異邦人たりとも、イエシュア=ユダヤ人の神であるイエシュアを

信じるならイエシュアが語られた同じトラー=婚姻契約に加えられているのです。その事実に気が付かないのは、神の言葉を否定した教え=伝統の教えを聴き続けているからです。

 

ハヌカとは”捧げると言う”意味のヘブライ語です。

民数記7:84に書かれている言葉と同じです。この箇所は

祭壇がモーセにより神に捧げられる事が書かれている下りです。

 

160BCに起きた出来事は、ギリシャ帝国がユダヤ人を支配するためには、彼らの神、アヴラハム、イサク、ヤコブの神を表す神殿を占拠し、汚し、冒涜する事だったのです。

エルサレムの神殿にゼウス神の偶像を持ち運び、神の聖なる祭壇で汚れた動物である”豚”を捧げ、その血をかけ、そしてそこで

豚を丸焼きにし食べる様にユダヤ人に強要したのです。

 

どうしてそれを神の子らはしてはいけないのか?神の定義する

聖別された者の生き方の全てはモーセの五書にクリアーに

書かれているからです。

神が聖別した神の記念日、神に聖別された人の食べ物、

飲み物、生き方の詳細全てがモーセの五書に書かれているのです。

福音書以降は聖別の定義の詳細は繰り返し再度書かれてなど

いないのです。トラーの抜粋しか書かれていないからです。

トラーを知っている事を前提に書かれているからです。

だからモーセの五書を捨てれば、何が神の定義する聖別の生き方

姿なのか、義、愛、許し、恵、祝福etc etc etc は詳しくは

分からないのです。

 

物理的霊的は一体です。私たちは神の宮であると言うなら

神の宮を汚す行為は同時に神の宮である自分の体を汚す行為

聖別を破壊する事なのです。

食べ物、飲み物、神の記念日は聖別を現すものであり、

食べるのでも飲むのでも何をするにも神の栄光を表しないさい

いや神の性質を生きることは、栄光をそのまま現すことであると

聖書には書かれているのです。とても大事な、でもシンプルな事。エデンの園で何を食べて、何を食べてはいけないのか?

それと同じ事!なのです。重要!シンプルすぎるから無視して

良い?いやそれはあなたの命に匹敵しますと神は教えているのです。愚かしい教え?神の教えを生きない人には神の言葉は愚かしく聞こえるけれど救いを受ける人には神の言葉、教えは力であると聖書には書いてあるのです。

 

だから、神のデザインされた人の生き方以外を選択するなら、

神の前に汚れた姿=神の宮を汚す行為をする事である事に

気が付けば、何が人の本来の生き方なのか見えて来ます。

神の教えは道徳的なものだけ生きれば良いと言う教えは

人の教えです。なぜなら神の言葉は色々な側面が重なって

繋がっているからです。どうして神のシャバットを汚し、

冒涜する事が死に値する事と神が言われているのでしょうか?

道徳的な事とは違いますよね?意味不明でしょう?神の道徳と

人間の道徳モラルは違うからです。

 

シンプルに、神の語る教えは、神が造られた人間の性質、

生き方を教えているのです。

それがモーセの五書に詳しく書かれているのです。

神の似姿性質に造られた人は、神が教える衣食住、祭り、

記念日生活の全てを網羅する内容を”神ご自身”が人に教えていて

歴史の途中でそれは変化などしないのに、人間が神の言葉を曲げ続けて別物の教えに変化させていることをハヌカの事件の背景、

1世紀後半のローマ帝国の迫害、ギリシャ帝国と同じく

神のトラーを生きる人達を抹殺する計画、これは中世を経て

第二次世界大戦のホロコーストに至るまでずっと同じなのです。

 

まず最初に危機を感じたユダヤ人達、マタテアスの5人の息子達が立ち上がって最初にユダヤ人同胞に向かって報復したのです。

神殿の聖なる場所に入り、異教の神殿娼婦と交わり汚れた行為をしていた現場で彼ら男女をピネハスが突き刺した下りが民数記に書かれています。民数記25章。これと同じ事を同胞に対して

したのです。モディンと言うエルサレムから西へ30キロの街に

ゼウスの神の偶像を建て、ユダヤ人達にこの像に向かって拝む

事をアンテイオコス エピファネスが命じたのです。そして汚れた動物=豚を食する様にも強要し、シャバット、新月、過越、シャブオート=ペンテコステ、仮庵の祭り、割礼やその他トラーに書かれている神の永遠なる教えを生きる事を処刑を持って禁じたのです。神ではなくいつの時代にも人間が神のトラーを生きることを禁じた!と言う事実だけに立って聖書を読んでみて下さい。

 

よくよく考えて行くと見えます。神の言葉を生きるのを禁じ続けるのは、いつの時代でも、神の言葉=トラーに敵対する人間なのです。神が神の言葉を変えたと言う教えに変えられて伝統で語り継いで、それを信じているだけなのですが、それは神の言葉の

真実ではないのです。

ユダヤ人の残りの民は、同胞が異教の神々の前にひれ伏し、

神に禁じられている汚れた動物を食し、自分のアイデンティティーを否定し、神の契約に加えられた代表として世界に同じ福音、生き方を伝える役割のユダヤ人が筆頭になりこの様な汚れた行為をする事に、少数のユダヤ人は危機を感じてこの暴動を起こしたのがハヌカの祭りの背景なのです。

 

ギリシャ帝国の軍隊は最強、兵器も揃い訓練を受けた人達ですが

ユダヤ人はその様な最強の軍隊も無く、武力、武器もないまま

戦い始めたのです。そしてそのマカビー達に賛同する勇敢な

ユダヤ人達も参加して、その小さな小さなイスラエルの軍隊に

神が勝利をもたらし、異教の神々の汚れから神殿を取り返した事、そして、汚れた動物の血で汚された神殿を再び造り直し、

神の前に神の神殿の祭壇を再奉献した事を祝うのがハヌカの

祭りの裏にあるマカバイ戦争の内容なのです。

ここで、考えるべき点がいくつかあります。

この世に生きて、しかも神の教え=トラーを生きてはいない、

異教の神々の教え、この世の価値観を強いられる世界、

異教の神々の文化は、神の教えを生きません。

 

唯一神のトラーを生きます!と神に応答したのはイスラエルで

ありごく少数の異邦人であった事実を考えてみれば見えます。

エジプトから出る前、同じ様にイスラエルの神と異教の神の間での戦いを10ヶ月くらいの長い間エジプト人も、異邦人も、

そしてユダヤ人も体験したのです。

その中で、神の声に応答して出て来た人達が神の婚姻契約を

受け取り、神の家族としての生き方をしますと神に宣言したのです。他の全ての国々の民族は神の教えに対してノー!!!と

言っているのです。

問題は、異教の文化の中に生きるイエシュア信者は、どこまで

その文化に溶け込むのか、どの部分は受け入れてはダメなのか?

その定義はモーセの五書に書かれているのです。

でもモーセの五書に書かれた内容は終わり!と言う人間の教えを

信じる場合、知らない間に神の定義する聖別=神の宮でありながらマカバイ戦争の背景にあったと同様、異教の神々の世界の教え

に迎合、同化、一体となって行っても気が付かないのです。

 

続く