ガラテヤ5ー6章 生まれながらの罪人である異邦人とは当時のユダヤ人の世界の言い回し | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉を否定する人の教え=人造神学を通し、神の言葉を

どこまでも曲げ、誤解をして聖書を読んでいる事実は、

オリジナル=聖書に書かれている真実だけに戻る時に

人の解説と聖書の中身の違いに気が付く事が出来ます。

 

ガラテヤの中にあった問題は、様々な層が重なっています。

1 ユダヤ人達は異邦人信者達を、改宗儀式をするまで、

同じ神の国の一員と認めないでいました。改宗儀式をしなければ神が認めないと言う事にしていたのは、伝統の教えによるものであるのです。その理由は、異邦人は生まれつきの罪人で汚れて

いるからと考えていたからです。そしてユダヤ人しか神の国に

入る権利がないと考えていたユダヤ人達が居たからです。

 

この言葉は2:15にある言葉ですが、これはパウロが言っているのではなく、当時のユダヤ人達の言い回しなのです。

ユダヤ人は、イザヤ60章にある通り、生まれながらに神の国の

一員とされているのだ!と言う特権があると誤解している人がいたからです。パウロがガラテヤ3章で説明していたのは、

使用人とその家の子供はある時まで同等の立場であると言う

当時のローマの家の格式しきたりを通して解説している意味と

同じです。神の国の性質を生きる代表として選ばれた人=

たとえユダヤ人として生まれても個人的に信仰により受け取る=上から生まれる=新生体験をしないなら、家の使用人と同じ立場でい続ける=本物の相続人にはなっていませんよと言う事なのです。パウロは修辞的方法、比喩やその他を用いて物事の本質を

分かりやすく解説しているのです。

 

ガラテヤ2:15 わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、

異邦人なる罪人ではないが、

 

2:16 人の義とされるのはトラー<そして口頭トラー>の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。

それは、トラーの行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、トラーの行いに

よっては、だれひとり義とされることがないからである。

 

再び繰り返しますが、この様な箇所をクリスチャンの世界では

救われた人は神の教え=モーセの五書を生きる必要は無いと

書いてある内容を全く逸脱し、理解しないまま、飛躍した

誤解を解説し続けています。

パウロが話しているのは、世界中、歴史の中の誰一人自分の手柄で、贖い、救いを獲得出来る人はいませんと言っているのです。

それは、たとえ神の言葉を生きたとしても、それにより義、救いなどを獲得する、神の国の一員になるためにしているならば、

その目的はずれていますと言う意味なのです。

救われた人=神の民にされた人は、モーセの五書を生きると言う

大前提は聖書の最初から最後までクリアーに貫かれている事実に盲目のまま聖書を読めば、どんな教えでも編み出し続けられるのです。

 

試しに預言書全てを読んでみても分かると思います。

未來預言の内容も全世界の全ての人がモーセの五書=神の創造された人間のオリジナルの生き方に戻るとはっきり書いてあるのにどうしてその事実が書いてある通りに見えないのか、聖書に書いてある通りに読めば100%明らかに書いてあるので普通に

理解出来るものです。小学生低学年でも理解出来ます。

人の解説で神の言葉を曲げ続けるから、何が真実なのか見えなくなっているのです。

 

ガラテヤの中に在った問題は、異邦人イエシュア 信者達が、

同等にユダヤ人コミュニテイの中に入り続けるならば、生まれつきの異邦人のままである状態はユダヤ人には受け入れがたい堪え難い事なのです。これは感覚的に異邦人には分からない事です。

 

当時のユダヤ人の立場で、人間的に考えると分かります。

どうして、彼らユダヤ人は異邦人が汚れたものであると考えるのか、生まれつきの罪人と呼んでいるのか、それは異邦人は

イエシュアを信じていながら神が汚れであるとするものが何か

トラーを知らないので分からず、日常生活でそれらを実際に

やっていた今もやっているからです。

彼らユダヤ人に取り、偶像礼拝、神のシャバットや記念日を無視し汚し、当時ではシャバットにしない事を異邦人がしたり、

異教の神々の神殿で汚れた動物を捧げたり、食したりする事、

神が禁じている事を平気でする人達、神の教えを知らない人達、これらは神が禁じている事だから、神の教えを認識していない

異邦人=生まれつきのトラー無しの罪人達などユダヤ人の交わりに足を踏み入れて欲しく無いと考えるのはある意味当然なのです。ポットラック<持ち寄り晩餐会>しましょうと言って

汚れた食品=汚れた動物など持ち込まれたら食卓が汚されると

トラーを知る人なら当然に考えるからです。

神が禁じている事はどの時代も変化ないのです。その理解は今も

異邦人の世界ではない、なぜなら神の教えを捨てているから

2世紀以降で言えば、神を愛しますと言いながら同時になぜ神の言う事を否定し無視し捨てよと教えるのか全く意味不明な思考

信条を平気で語り続けるからです。

何を神に教えられているのかその意味を理解していないからです。食べ物、飲み物、シャバット、新月、祭りなどは、

聖別の中心=イエシュア を語っているエッセンスなのです。

その事実を考える事もないほど、神の教えから遠く離れている

エペソ2章にある状態が異邦人の世界の生き方なのです。

 

異邦人クリスチャンの間では、モーセの五書が廃れたと言う

人の教えを大前提として聖書の全てを読み、聖書に書かれている

本当の意味に戻り、真実を探らないまま、勝手に神の言葉を否定する事、それこそがキリストがされた大きな業であるがごとくに

語る世界しか教えられない迷路にハマっているのです。

その事実に気が付き目覚めた人は聖書に書いてある通りに

戻る軌道修正をするものなのです。

だから、聖書とは逸脱したまるで異教神の別宗教と同じ思想

ニューエイジ思想と全く同じ性質の教えなどが蔓延しているのです。

救われた人達は、今の時代の異邦人は神の教えは生きる必要は

ないと言う教えは、神の言葉以外の教え=自分判断<霊に導かれていると確信するけど実は真実の証拠裏付け=神の言葉に根付かない教えを生きる、もしくは人、この世が定義する教えを生きる>のどちらかになるのでしょう。

 

預言書の全ては、神のトラー=モーセの五書に書かれた本来の人間の生き方、神の似姿を生きる事に戻れ!と言う警告であり、

未来全ての人が神のトラーを生きると預言書にはっきりと預言

されている事実があるのです。どうして今の時代だけ意味がない

教えなのか?神はヨナを異邦人の世界に送り神のトラーに戻れ!

と警告された事を考えても分かります。異邦人とユダヤ人と

そして時代ごとにべつの教えや別の福音はない。

どの時代の人もイエシュアを通して上から生まれる以外、

神との本当の関係に入る道はない!と言うシンプルな事実だけが

書かれているのです。

 

神の言葉のどの部分にも敵対する思想=呪い、縛り、律法、

終了、破棄されたと言うのは異邦人独特の思想なのです。

ユダヤ人信者達は神の教え=愛の証拠として考える、蜜の様に甘いと聖書に書かれている通りに捉えているのです。

これを誰にも奪われたく無い!と考えるのです。

神は神の言葉の性質を初めから人に教えています。

人の命を保護するものだからです。永遠の約束、神の人に対する

永遠の愛=契約の愛の生き方、姿、神ご自身のもっとも深い思い

を人に伝えているのです。それを呪い?廃れた?縛り?生きられない教え?怒りの神?そんな風に曲がって歪んだ色眼鏡でイスラエルの神を眺め続け、語り続ける事、それは神のみ旨だと

本気で信じているのでしょうか?

 

ガラテヤに蔓延していた教えの背景をはっきり理解して次を

読みます。ユダヤ人は生まれつきの罪人と呼ぶ異邦人は、汚れたものに交わり続けるので付き合いは一切しない、だから異邦人達を自分たちの会堂に入れるには、ユダヤ人になる改宗儀式=割礼と名付けた儀式=男女共にさせてユダヤ人になれば、彼らユダヤ人の世界の伝統の口頭トラーに反しないので、イエシュアを信じないユダヤ人信者から、メシアを信じるユダヤ人信者も圧力や

反感を買わないから良いだろうと言う事で、異邦人達に改宗儀式を迫っていたと言う事情を知って次を読めば理解出来ます。

 

ガラテヤ6:12 いったい、肉において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする。

 6:13 事実、割礼のあるもの自身がトラーを守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼を受けさせようとしているのである。

 

キリストの故に=詰まり異邦人イエシュア信者のおかげで

他のユダヤ人から迫害を受けたくないばかりに、”割礼”=人の教えの改宗儀式をさせて神の福音の本質=信仰により義とされている、神の国に受け入れられたと言う事を曲げている!とパウロは

言っているのです。

 

6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、

わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

 

誇り=自分の手柄や勲章、どのグループでどんな改宗儀式をしたとかそんな事は無意味と言う事です。

 

6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

 

パウロがここで話しているのは、ユダヤ人になる改宗儀式をしているか、していないかは問題ではない、新しく生まれる=上から

生まれる聖霊を内側に受けて、聖霊=神の言葉に書かれた神の似姿である本来の性質を生きる事が重要!と言う意味なのです。

 

それを、割礼=モーセの五書に書かれた割礼は無意味!などと

読み込みしてはならないのです。パウロは100%モーセの五書を

支持し、教え、生きている!と言う事実だけに立てば、神の言葉教え=永遠の印=婚姻契約の中に加えられている印である割礼を

捨てよ!と言う教えは、イエシュアのされた事イエシュアの実態を捨てよ!と言う教えなのです。何が聖書に書かれているのか

真実だけを捉えないと、神の語る永遠の事実は見えなくなるのです。

 

続く