神の定義する聖別を汚す行為を強要する異教神の文化の圧力 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今の世界は急激に変化し、この世を支配するパワーで世界は1つに統合される方向へ一気に走り、神が語る善を悪、悪を善とした基準、神の創造のデザインを破壊するライフスタイル、神が定義する人の生き方の基準、価値観さえも変えさせられ、この世が

語る価値へ皆が同化迎合、この世を牛耳る力の支配で、自分の

願わない生き方を強要させられているのです。体に取り込む汚れ

危険を拒絶するなら普通には生きられない世界がやって来たのです。

なんでもoKと考える場合には、見えない世界ですが、神の宮で

ある人の体を、聖なるものとして造られた体を破壊し、汚す行為をこの世は強要し続けているのです。

神の永遠の記念日であるシャバットもそうです。どうして聖書に書いてある通りに考えて生きていないのだろう?イエシュアが

生きていたシャバットをどうして別の日に変えているのだろう?

その意味も変えているのだろう?と不思議に思ったのが最初の

疑問でした。聖書を読みながら、神の言葉が変わり、神の記念日が変わり1つ家族が人種により別々の教え、別々の記念日を生きると書かれていない矛盾を、聖書のではない人の伝統の教え=

西洋教父達が作った伝統の教えを生きている矛盾に気が付かないその不思議に気が付かないとならないのです。

聖書をそんな読み方をし続けるなら何が真実で何が人の作った

伝統の教えなのか目の前に書かれているのに区別が付かないで

いるのです。どうして7が1と読めるのでしょう?イエシュアを信じたら書かれている意味が変換してしまうのでしょうか?

文盲になるのでしょうか?

伝統の教えに眠り埋没すれば、もう書かれている通りを曲げても

何の違和感も感じないほど鈍くなってしまっているのです。

 

人の教えと神の教えの見分け、識別は、聖書=神の言葉に

照らし合わせて初めて見えるものなのです。

聖書に書いてもない教えを信じる、又は聖書に書いてある事を

曲げて違う教えにする、それらは聖書の事実ではないのです。

聖書に書いてある通りに信じないならば、それは別宗教を作り出す行為なのです。単純でシンプルな事実なのです。

 

ハヌカの祭りの裏にあった事件は、160年代BCのホロコーストです。エステル記にもあった事と同じです。

神のトラーと神のトラーを生きる人を抹殺する事!エデンの園の地を這う動物の作戦は最初から今現在も健在なのです。

 

神のトラーに書かれた天の国の生き方をする人達、

衣食住全てを網羅する独特な生き方=異教の神々の世界に生きる

人とは区別されている生き方、シャバットや祭りを祝い、

割礼を男の子に施し、何を食べ、どんな服装をし、どんな関係の

間柄で婚姻関係が結べるのか、隣近所との関係、社会形成

裁判や戦争、人が生きる上での全てのインストラクション、

教えを神が人に与えているのです。それは人の命が安全に守られ

神の教えの中は全て100%イエシュアを指して、イエシュアの

性質を生きる事が書かれているのです。

神の言葉を捨てる=イエシュアの生き方を捨てる事なのです。

神の教え、インストラクション=トラーを継承し生きる人達

残りの民を抹殺する計画があるのです。そしてそれは今これから

も起こる事が聖書には預言されているのです。

 

ギリシャ帝国の迫害、1世紀後半のローマ帝国の迫害、

中世のローマカトリックによる迫害、十字軍、ヨーロッパの

ユダヤ人への迫害、第二次世界大戦当時のホロコースト、

全て内容は同じです。

神のオリジナルのトラー=天の国に属する人の生き方を禁止!

排除!抹殺する事、そして、この世、異教の神々の教えや生き方、汚れたもの汚れた教え、この世の教えに迎合し、同化し、

ワンワールドのリーダーの指針に皆が賛同し生きる事を強要される事なのです。

 

ハヌカのテーマは、”同化”を拒絶し神の生き方をガードする事に神が勝利をもたらした事なのです。イスラエルの神の教えでは

ない生き方に同化して行く事、それは神に属する人達には危険な行為、天の国の人の性質を失って生きて行ってしまうからです。

異邦人にはピンと来ない内容です。なぜなら異邦人の世界では

モーセの五書は廃れたと教えられ、神の言葉の中身、生きる全てを網羅する神の教え=聖別の意味を全く教えられず、なんでも

取り入れ、受け入れ、神の聖別された神の記念日を捨て、

神が定義する汚れを取り入れ同化する事が2000年以降の恵みの生き方だなどと教えられ続けそれが正義=神の定義する新しい義の生き方、恵みの生き方だなどと教え込まれ続けているからです。

単純に考えてどの時代にも、神の創造は変わらないのです。

神が聖別を定義、創造の中で神の性質に属するもの属さないもの、属さないもの、人は神の似姿に作られているから、神の定義する聖別に属さないものを取り入れながら生きる事は、それは神の子としての性質を汚しアイデンティティーを失う事なのです。この世のライフスタイル生活スタイルに同化する事を神は断固として禁じていてもそれは何とも感じないし問題にも感じないのです。それらを律法主義的生き方であるとさえ異邦人は言います。

なぜなら、異教神の文化の中で生きているから何とも感じない。

 

汚れを取り込む事、エルサレムの神の家、地上で天の現実=

神ご自身が造られた人の生きる生き方の全てを教えるための

天の神の家実態をそっくりそのまま映し出す影=地上で神が

選ばれた神の場所=エルサレムの神の家=神の聖なる茶の間=

祭壇に汚れた動物=豚を捧げ、豚の血を振りかけて、そしてその豚を食べる様に強要された、神の目には破廉恥、汚れた行為=

異邦人には理解出来ない内容である汚れを神は甘んじる事は出来ないのです。豚=汚れた動物=清掃動物として造られた動物は

人が食したり、神の祭壇に捧げる動物として神が創造していない

から、それらを捧げたり食する事は出来ないのです。神の宮で

ある人の体の中に取り入れるべきではない動物はレビ記23章に

書かれているのです。人がどう信じるか信じないかで、神の定義する聖別や人の生き方、教えは変わらないのです。

 

食べるとは基本中の基本です。人の命を繋ぐ行為、自分の中に

取り込み血肉として一体となる行為です。最初の最初、エデンの園での行為=食べる事!に関して神は重大な事を教えているのです。

人の命を繋ぐ生き方は、神が指定した通りを生きる!!!

これを命の木と、善悪の知識の木を通して、食べる事を通して

はっきり教えています。馬鹿馬鹿しいでしょうか。どうでも良い

と考える場合、こんなちっぽけな行為どうでも良いと考える。

現実にアダムとエバは単純な教えをないがしろにし死を全人類にもたらしたのです。この重大な過失を考えないと見えないのです。

食べる=その行為は聖別を教えているものであり神が言われた

通りを生きる人間の基本中の基本を神が人に伝えているのです。これを無視するなら、死に繋がると神が教えているのです。

食規定は神の側では今日も同じなのです。神は神の言葉を否定しないし、変えない。神は神自身に敵対しない、矛盾したことは1つも言わない、今日真実が明日嘘になるなどと言う教えは

神の中に1つも無いからです。人がどう考えようと、神の考え

教えは変わらないし、神の創造の性質も変わらない。

それとも進化論を信じ、人間の体は2000年前とは違うものに作り変えられたのだと言いますか?もう作り話続く〜よ〜ど〜

こまでも〜の世界です。

こんなシンプルな事実を否定するなら人はどこまでも神の教えを

曲げられるのだ!と言う事を表しているものでもあるのです。

 

恵みの意味を全く取り違えて、神が教える危険!を無視する行為は愚かなのです。神の言葉を否定する事は何の得もないどころか破壊に向かいます。セーターの網目を破ったらどこまでほころび

続けるのと同じだからです。神の言葉を破壊する場合は、どこまでも人の思想の教えを編み出し続けて行くのです。

人は神に造られ、神が動物植物を人のために造られたのです。

神が教える通りを聞くと言う素直な基本が無いなら、もうそれは好き勝手な方向=危険な行為を危険とも気が付けないまま、

神の言葉が邪魔、余計なお世話、縛りの呪いの律法と考えるのは当然の事なのです。

 

現在と同じく、汚れた行為を強要するギリシャ帝国に対して

断固として拒絶した勇敢なユダヤ人に神が勝利を与えてご自身の聖なる神殿=神の家と神の祭壇を取り戻し、浄め、再奉献した事がハヌカの祭りの意味であり、これから再び同じ事件が起こる事が預言されています。

 

第二次世界大戦が始まる前のヨーロッパでのユダヤ人の同化は

ドイツに居たユダヤ人が最も酷かったのです。

汚れた動物を食し、シャバットや祭りを捨て、ドイツ人と同じ様に生きていたのです。一方ポーランドに居たユダヤ人は神の教え

トラーをガードし生きて居たのです。

ドイツのユダヤ人とポーランドのユダヤ人は同じ強制収容所で

出会う事になるのですが。神の教えを捨てる事の弊害と刈り取る

結末は大きなものなのです。特にユダヤ人は神の契約を代表として受け取り世界へ伝える地の塩、世の光としてのリーダーとしての役割を与えられたのに、神の国の民としての生き方を捨てる

場合には、異邦人よりももっと過酷な試練を与えられるのです。それが大家族の兄として負わされた責任でもあるからです。

弟妹は理解せずこけても兄ほど厳しい訓練を与えられないから

です。でも一家の長がこけたら世界がこける、これは大きな責任

なのです。

 

この160年代BCイエシュアが来られる前に起きたイスラエルの神に対するギリシャ帝国の挑戦、冒涜は、イエシュアが昇天

された以降の1世紀後半にも再び起きたのです。ローマ帝国によるエルサレム神殿崩壊と同時に神の教え=トラーに書かれた事を

生きることを禁じたのです。

ここで注目するポイントがあります。今神殿が無い、レビ族の

神殿に仕える祭司も勿論居ない。でも神殿崩壊までは、

使徒、パウロ、1世紀イエシュア信者、一般のユダヤ人も

神殿の中で変わらずにシャバット、祭り、日々の捧げ物や

動物の捧げ物をしていたのです。

今は神殿が無いから、それらが一時停止になっているだけなのです。

未来預言はイエシュアが到来された後は、神殿が戻り世界が

エルサレムに神の祭りの時に上って来ると書かれています。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル、預言書の中には、

異邦人もユダヤ人と同様にトラーを生きる事に戻り、

神の記念日を皆が生きることをすることが書かれているのです。

これをどう無視しても、神の言葉は永遠に真実なのです。

 

異邦人クリスチャンは神が神の言葉や教え変え、神の記念日を

変えたのだと疑いもなく信じているのです。未来は神のトラーを

生きて、レビ記23章に書かれた記念日を世界中が生きるとある

事実を聖書から読み取ってはいないのだと思います。

聖書に無い、聖書と辻褄が合わない教えでも信じ続けるのです。伝統で語り継がれた西洋教父の教えの方が聖書より真実だと考えるからです。

それは聖書の教えではなく、西洋人教父達が編み出した教えを

聖書だと疑いもなく信じ込み、神の言葉、記念日をガードし

生きることを捨てた教えを聖書だと信じて伝統的に実践し続けているだけなのです。

 

 

続く