聖書の事実だけに忠実にぴったりと向き合い、聖書に書かれた
事実だけに戻り考え続ける場合は、必ず神が語る永遠の真実は
不変!である事だけが聖書に書いてある事実である事に気が付き
発見出来ます。
神の言葉のどの箇所でも否定し、神の言葉は破棄された、終わりだと言う人の教えを信じる場合は、その教えは神の言葉は永遠不変で変わらないと神が語られた事実では無い、神から出たものでは無い、神に造られたただの人間が作った混ぜ物の教えの中に
埋没し、神の伝える永遠不変の真実が理解出来なくなってしまう
状態に留まります。
世界の神学校で、又は聖書を教える教師達が聖書は100%
神の言葉であると信じない人達がいる<又は神の言葉は大部分
破棄されたと言う教え>原因は、トラーを捨てた事によるのです。シンプルな事実。エデンの園の事件の性質と同じ性質の問題なのです。
神の言葉を疑い、薄め、価値下げし、神の言葉通りを
受け取れなくなって神の語る真実からズレた。
それと同じ同質の問題なのです。
神の言葉のどの箇所でも人間が否定するなら、その様な思想を
次々に編み出し続けるのは当然の結末だからです。
例えば誰かの書いた書や曲を、作者では無い別の人が手を加えて
ある部分を削除、付け足し、又は別のものにアレンジし続け、
ここはこのほうが良い、ある人はここはこう言う解釈であるべきでは無いとやる事と同じ事を神の言葉に対して人がしているのです。
神の言葉=トラー=神の教え、インストラクションの著作権は
神だけが所有しているのであり、神だけが神の言葉が何かを
定義出来る唯一の存在であり、人が神の言葉に一言も異議申し
立てや、まして変更、終了、終わり、破棄されたなどと言う事
など出来ないのです。一体誰の権限、許可をもらいそんな事を
言っているのか?て事です。
神がいつ神の言葉は終了、途中で変化したなどと言いましたか?
聖書のどこにそんな事が書いてありますか?無いと言うのが
真実神の言葉は永遠不変、完全!と神が言っているその一言で
十分神の言葉の性質が証明され、定義されているのです。
聖書を神の言葉であると信じない異邦人教師達だけに異邦人は
教えられ続けてしまい、聖書に書いてある本当の事とは
違うことを聞かされて来てしまったのです。
それらの教えのある部分は真実でも、ある部分は聖書の真実では無い、人の教えがあたかも神が語っている真実であるがごとに
語られ続けて来てしまっただけなのです。
キリストがあなたの罪の贖いをして下さったと言う事実を
語るならば、贖われたと言う意味、その全貌がトラーの中に
書かれていて、トラーはメシア中心に語られていて、
人は神の似姿を生きる事に修復されていると言う事実に
繋がって、実際に生きる事に繋がらないと何も意味がなくなって
しまうのです。画餅と言うもの。
西洋思想は、すべて哲学、思想の世界が中心です。
だから、神の言葉は今は生きる必要がない、神の言葉を生きる人は恵みを捨てた生き方である、律法主義などと言う神の言葉とは違う事を言われても、普通にそれが神の言う事なのだと信じて
しまうのです。聖書とは異なる別の福音。
ガラテヤ書でパウロが解説している中身をしっかり把握すれば
何が違うのか、見えると思います。
義を、神の賞賛を、神の前に特別待遇を、特別なメリット、
恵、祝福を、自分の行いで神の前に様々にアピールして頂く事、
もらう事を自分の行動で得ると言うずれた動機と意識、
それが聖書にある律法主義の根、定義です。
これは偶像礼拝のアピールとぴったり重なるものなのです。
神の前に自分に取り最高の一番大事なもの、犠牲を払ったささげもの<古代は自分の子供を生贄に捧げる様な事をイスラエルもしていた>、ご馳走を供えたら、神が匂いを嗅ぎに来て、自分の
願いに耳を傾けてくれるかも。自分が神を動かす意識は、祈りの中にもあるでしょう。願いが叶うまで祈る!だから自分が神を
動かす為に一生懸命懇願する。祈りとも言いますが、自分の願いを執拗にプッシュ、アピール、ごねる事それが祈りだと思う。
又は断食して神に自分の思いがどれくらい熱いのかアピールする色々な形があると思いますが、偶像の神に対する礼拝の性質と
同じです。神との関係ではなく、実はその根は、自分が神を
コントロールしたい!自分の人生を自分が主導権を
握りコントロールしたい、自分の願い通りにして欲しい。
自分の目標やスローガンや願望を叶えたい。
その為に、神を動かす為に一生懸命にやる。
神の似姿に造られた人は神の似姿=トラーに書かれた生き方が
本来の性質、生き方でぴったりなのでそれを生きる!
至極シンプルな事実なのに、神の言葉が律法で廃れた!と言う
人の教えに邪魔されて、神の言葉=人間の本来の性質を生きる事
を知らない、妨害されているのです。
なになにを信じてます!と口で言いますが、その信じてますの
内容を生きる事が無いならば意味は無いと神が言われました。
生きる事はキリスト=生きる事=イエシュアを信じる=WWJD
とはイエシュアが生きた内容を生きる事です。
イエシュアが生きて教えたのは父の言葉=モーセの五書です。
しかも人類歴史でただ一人、初めて神の意図通りに神に造られた
神の似姿の人を生きて地上で見せて下さったお方です。
私たちは失敗します。こけます。その救済策も既に最初から
神が用意し、トラーにはこけたらどの様に修復するかの全ても
書かれているのです。人間の生きる全てが書かれているからです。神の言葉を誤解しているのです。完璧に生きなくちゃ!
神に叱られる!?いや、人は人の性質通りを生きる、こけたら
神が言う通りの修復をする。でも神の性質を生きる事をし続ける人、成人はあまりこけなくなるのです。
それが日々の訓練、新しい人を生きる成長の過程なのです。
ヨチヨチ歩きの赤ちゃんはこけてよく転び足を擦り剥きますが。
ヘブライの聖書の世界はすべて”生きる事!”が書かれているのです。だから注意して読めば気が付くと思います。
人は神の口から出る一つ一つの言葉により生きる!
イエシュアの母、兄弟、家族とは、神の御心=トラーを生きる人の事です!
ヤコブ2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、
それだけでは死んだものである。
2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には
行いがある」と言う者があろう。
それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。
そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。
それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
2:20 ああ、愚かな人よ。
行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
そして、1世紀後半から現在まで異邦人の世界では、
2000年近くその様な教えが伝統で伝えられて、1世紀の人達の信仰の土台=モーセの五書をほぼ捨てて、神の言葉から
遠く遠く離れて人の教えに根付いてしまったのです。
2000年近く語り継がれた教えだから正しいとは言えないのです。多くの人に支持されている教えだから正しいのでも無い。
正しい情報=神の言葉の真実を知る根拠は神の言葉だけが証拠
になるのです。大衆に支持されているから、それなら他宗教は
神がサポート、支援していると言うことになるのでしょうか?
資金潤沢、立派な神社仏閣、著名な人が集うから真実?
進化論と同じく、大多数が信じていても不真実は不真実でしか
無い、シンプルな事実なのです。それならサンタクロースが来る
と多くの子供たちが信じてますが、それって本当?と言うのと
同じなのです。皆が信じるから真実では無いのです。
問題は伝統で語り継がれた教えなので根強く人の中に浸透して
しまい、真実と不真実の見分けを聖書から出来なくてなって
しまっているだけなのです。
神の言葉のある部分の真実は認識し知っていても、神の言葉を
否定する教えとは、大事な防御服、鎧兜、安全な盾、そして
大きな宝を捨てている事なのです。なぜなら、神の言葉の中に
その宝を得る秘訣が書いてあるからです。
しかも、神=言葉=イエシュアなのに、神の言葉を否定するとは
イエシュアを信じますと言いながら、知らないまま同時に
イエシュアを否定している事だと気がついていないのです。
神に出会うとは神の言葉の中にその出会い方がはっきり書かれています。神とどう関係を持つのか、神の前にどう近くのか、
礼拝とはどう言う意味で書いてあるのか?神の定義する聖別とはどんな状態、どんな事を生きる事なのか?人との関係、隣人と
揉め事があった場合、損害を与えた場合、どの様に賠償し、
謝罪し、仲直りするのか、結婚して良い間がらはどんなものか、どんな関係を結んではダメなのか、コミュニテイとしての生き方、家の建て方、国としての生き方、戦争に行く時の事、
軍隊の形成、政治、法律、裁判 etc etc
人間の生きる事の全ての領域が書かれているのがモーセの五書
なのです。神の国の憲法でもあるのです。
そして神が伝える本物の自己像、神が造られた人間の生き方の
全てが書かれている神の言葉の殆どを捨てたら自己流の生き方、自己流の礼拝、自己流の聖別を生きてしまうのは避けられないのです。
人が神の真実に出会う、創造の事実に気がつくのは、
神が伝える言葉を通してである事実があるのです。
この世界がイスラエルの神により言葉で造られ事実はトラーを
読んだから、又はトラーに書かれた事を誰かに教えてもらった
からではないでしょうか?それとも耳元で神が常に囁き続けているとでも言うのでしょうか?神の言葉を通して、それを聞く人は常に細く静かな神の声=教えをしっかりキャッチして生きる事が
出来るのです。神=言葉であり、神は人にご自身の一番親しい、内側の真理の全て、神が造られた人とは、この世界をどう治めるのか、神がどんなお方であるのか神の言葉で伝えるために文字で書かれた聖書が与えられているのです。
ラブレターをもらって最後の数行だけ読んで前の部分は全て
破り捨てる人はいないと思います。最初から最後まで何が書いてあるのか何度も何度も繰り返し、ワクワクしながら読むのでは
ないでしょうか?どんな事が書いてあるのだろう?大事な相手が語る事をもれなく知りたい!しろやぎさんと黒ヤギさんのお手紙交換の歌みたいに、読まずに食べていれば中身に何が書いてあるのか分からず、”さっきの手紙の御用は何?”と相手に聞き続けても、そのご用の内容が書いてある言葉を捨てて無視したら
分からないままになります。
だから金よりもどんな宝よりも望ましいと書いてあるのです。
それを見つけたら全てを売り払っても手に入れると書いてある
通りだからです。
イエシュアが再び来られる時も、ローマの神ではなく、
イスラエルの神、神=言葉と書かれた実態通りの神として、
この世界に戻られるのです。
続く