ガラテヤ書の4章の続きから再び書きますが、その中に書かれていることも、”割礼”=アヴラハムの割礼=律法=廃れた=モーセの五書は破棄された教えをパウロがしていると一般に誤解されている内容です。
パウロが語っているのは、人間が作った”律法の行い”口頭トラーと呼ばれる伝統で語り継がれている人の言い伝え=人の教えを
生きる事を別の福音と話していて、モーセの五書に反対している教えなどパウロは一度もしていないのです。ガラテヤで蔓延していた別の福音とは、異邦人は神の義を得ることをユダヤ人に
改宗する改宗儀式で得ると言う別の福音=律法の行いと
話しているのです。
キリスト教の教えの世界に例えてみれば、見えると思います。
例えばクリスチャンの世界で新生体験=イエシュアに個人的に
出会い、信仰により義とされている事実を受け取っている事が
よく分からない、余りはっきりと自覚や確信無く、定かでは無い理解していない人に、”洗礼”受ければ救われるよと教えるのも
別の福音だと分かるでしょう。
水に潜れば救われると言う事を教えるなら、このグループの会員になれば、救われている証拠になりますとかそんな事を言うなら
それってメンバー登録すれば、儀式をすれば救われる、義とされ許されている事実を受け取る事になると言う、行いで救いを獲得すると言う事を教えてしまっているものになります。
1世紀の”ユダヤ人になる改宗儀式”と同じ性質の考えです。
そんな事したとしても、聖霊を内側に得る確信は得る事は
出来ない事は、救いを体験した人なら理解出来る内容です。
神の前に義とされている事は、信仰により受け取るだけしか
出来ないものなのに、それを人の行動や行いで獲得すると言う
意識、教えは別の福音=ずれた意識でトラーに書かれている
神の言葉を理解していない!とパウロが諭しているのです。
パウロの論点をはっきり明確に掴んで書いてある内容を読む。
パウロがアヴラハムを通して神が与えた永遠の印=割礼を否定などする訳がないのです。でもガラテヤに書かれている問題=
別の福音とは、異邦人がユダヤ人になる改宗儀式の話なのですが、その中にが肉に付ける”割礼”も含まれているのです。
でも肉の割礼は女性の場合には適用出来ないものですが、
改宗儀式は、女性がやる場合も”割礼”と言う名の儀式なのです。
意味が分からないまま、例えアヴラハムの割礼を肉に付けても
それでは意味がないでしょう。クリスチャンの世界でも、
水に潜れば救われると考えている、信仰で救いを得る自覚が無い理解していない人が水に潜る儀式をやっても何も意味が無いからです。
だから、初歩的なトラーの教え、真髄を理解しない人が
神の国の上級国民になるために改宗儀式などしてはならない!
それは別の福音と言う意味が分からないとならないのです。
意味が分からないまま、例えアヴラハムの割礼をしても、
意味が無いからです。
理解が無いまま、儀式だけしても無駄、無意味だからです。
意味が分かるなら別ですが、分からないままやる事、
義を得るためにやるならそれはズレているからやめて!と言う
事です。クリスチャンの世界の洗礼の儀式でも同じでしょう。
意味を本当に内側で自覚し、理解するまで待ったをかけるでしょう。洗礼などそれまでさせる事はしない。それです。
パウロはアヴラハムに与えられた永遠の約束、義とされている事を信仰により受け取る印=イエシュア=死んだ人と義とされた人の境界線を引かれている印を否定などする訳などあり得ないと
理解すればパウロの論点が見えて来ると思います。
この違いが理解出来ればとパウロが語っている論点、
真意が見えてきます。
割礼とはイエシュアがされた業を表しているものであり、
代々神がその事実を与えている目に見える印としても
与えられているのです。
でも同時に肉の生まれ=ユダヤ人だから自動的に与えられているのでは無い事実もあるのです。
肉の割礼は男の子の親が決めて子に与えるものです。
赤ちゃんが8日目にその印を与えるのですが、子供は知らない
間に肉に印を付けられているのです。成長してから気が付く。
神から一方的に与えられている”義”とされている事は、無償で
与えられている印であり、代々継承されて行く約束なのです。
でも義とされた事実は、本人が信仰により気が付くまで受け取れ
無いものでもあるのです。
神から聖別=分かたれている、この世と境界線が敷かれている。
以前の死んだ自分と義とされて新しく生まれたイエシュアの命が
宿る人との境界線を表しているものでもあるのです。
でも”義”とされている事実は、個人個人がアヴラハムと同じ様に
神の前に直接信仰により受け取ると言う事実があって有効に
なるのです。
ガラテヤの4章にパウロが書いている様に、信仰により義とされた事を受け取るまで、ユダヤ人と言う生まれにかかわらず、
神の前に天の相続人として認められないと言う事を、監督人、
管理人の下に置かれて、父の定めた時が来るまで子でありながら、家の中で働く、使用人と同じ立場であるとパウロが当時の
ローマの家庭の習わしを例えて書いているのです。
そして、トラーの下に閉じ込められていると言う表現は、
ユダヤ人なら、いや異邦人でも、もし周りがトラーを生きる安全な家族や、コミュニテイであったなら、トラーを自分が知らなくても、トラーを生きる事をする人たちにより、自分がイエシュアに出会うまで安全に教育され、守られて行くと言う意味なのです。自分の周りが悪人で性悪な行いをする人達に囲まれて生きたら、危険、悲惨、悪影響を与えられて成長してしまうでしょう。
ガラテヤも他の書同様に、モーセの五書を否定した事をパウロが語っていると勘違いされている箇所は、実は全て100%モーセの五書を支持して語っている内容だけが書かれているのです。
1つ1つの誤解を紐解けば見えてきます。
1つ1つの意味をじっくりゆっくり考え続ければ永遠の神の言葉の真実が見えてきます。
だからユダヤ人に生まれた、イコール肉の生まれで無条件に
義とされているのでは無いと神は教えているのです。
異邦人も同じです。人種にかかわらず、信仰により神のされた業を受け取るなら誰でも神の家族に加えられるのです。
そして神の家族に加えられた人は、今度は”シナイ山”で与えられた婚姻契約の実態を生きる事に加えられ、招かれたと言う
事実をはっきり知らないとならないのです。
神の家の一員になった人はなんでも自由に生きるのだと神の言葉を完全に誤解して異邦人の世界では解説されてしまっていますが、自由とはなんでもして良い自由ではなく、罪の法則=律法=トラーに書かれた罪の数々、その束縛の下に生きる事から解放
された事、神の義を生きる事を選択する自由を生きる事を与えられたと言う意味で聖書には書かれているのです。
考えてみたら分かると思います。罪の定義が消え、
なんでも許されると考えている事自体が変な意識です。
罪の詳細の定義は永遠に同じなのです。神がなんでもして良い
無法地帯を与えたと言うなら、それこそソドムとゴモラです。
罪を罪としないなんて教え自体が聖書では無いのです。
罪を犯しても良いことが恵の生き方、恵の神などと考えることが非常識な教えなのです。モーセの五書にはそんな酷い厳しい人間が生きられない教えが書かれていると誤解しているのは、
書かれている中身を知らないから言っているだけだと思います。
トラーには動物、鳥にさえ神が気を配り愛している内容が
書かれています。動物を苦しめて殺す事を禁じています。
だから、屠殺するにはふさわしく無い”きよく無い動物”は人間は屠ってはならないのです。動物を苦しめ、そして人が食するのに、神の祭壇に捧げるのにフィットしない動物だからです。
自分の住む街が無法地帯だったら安心して暮らせますか?
神の教え=罪の定義が消えた!と考えているならば、
それと同じことを信じているのです。罪の定義が書かれているのは、人が神のデザインされたエッセンス=実態生きる絶対基準を教え、そこからずれたら傷つく、破壊されると神が人に教えて
いるのです。
罪の詳細はモーセの五書に書かれています。
福音書には、罪の定義の詳細など書いてありません。
モーセの五書に書かれた完全版のほんの抜粋しか書かれて
いません。
道徳、市民、儀式とクリスチャンの世界では神の教えを区別して教えていますが神の教えは1体で切り離せるものでは無いのです。体が1つである様に、血管、臓器、筋肉 etc1つとして
繋がっている様に神の言葉も1つとして全て繋がっているのです。それを切り離したり分解したり、捨てたりする行為は危険。
なぜ、シャバットを汚す事が聖別を汚す事であり、それが死に
値すると神が言われるのでしょうか?クリスチャンの世界では
神の記念日の定義が変わったと教えるので、聖別の本当の意味が
分からない、見えないのです。
聖別が聖書で初めに教えられたのは、”シャバット”に関してで
ある事を聖書を読めば理解出来ると思います。
第七日目=シャバットを神が聖別したとあります。
人も同様にシャバットを聖別せよとずっと聖書には書かれています。そして、神のトラーを捨てた人達へ”はじめの愛”から離れてしまったと書いてある通りです。神との関係に入った印が
シャバットで表されているのです。異邦人ははじめの愛を教えられる前から既に、はじめの愛=トラーから離れた教えを1世紀
後半から既に異邦人西洋教父達から教えられてしまったのです。
その意味が理解出来ないから、神の教えが終わりと唱えているのです。どうして、ネズミや豚の肉を食うものは呪われる、
汚れる、絶たれると言う未来預言が預言書に書いてあるのか?
それらは神の定義する永遠不変の聖別を汚す行動だからです。
コロサイにある通りに、食べる事、飲む事、シャバット、新月
祭りはイエシュアを表すものであり、神の礼拝は神の祭壇の周りで行われるものであり、そこには”きよい動物”義とされた人を
表す聖別された事実を表す動物しかBBQ出来ないのです。
聖なる生き方とは神が教える全て、生活の全て、それは何をしていても神の前には聖なる行動なのです。
人として道徳的な基本的な事、明らかなことはトラーを読まなくても腹に書かれた善悪の分別の意識があるので普通の人なら
理解出来ます。盗み、殺人、嘘、詐欺、搾取、無礼、非礼,不正
無視、無関心、冷淡、非礼、違反etc etcは誰でもしてはならないと理解しています。他者に対する迷惑行為や失礼、いじめ、
やってはならない事を理解しない人も多いですが。
でも、”聖別”に関して、神の前に神の子らである事を汚す行為は
モーセの五書に書かれた詳細の意味、聖別されている意味、
真意を本当に学ばない限り、理解出来ない領域なのです。
これは異教の神々の地に代々生まれ育った民族である場合は
神の言葉をじっくり学ばなければ、理解に至らない内容なのです。簡単だけど生まれ育ち上、理解出来ない、感じない、
ピンと来ない内容だからです。
続く