1世紀の信者 トラーに生きていた人達の信仰と遠くかけ離れた理由 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュア昇天以降、現代の様なキリスト教会が突然出現したと言う事実は、1世紀には全くありません。

使徒たちがこの世界を去った2世紀以降には、ローマ帝国の弾圧で、異邦人達はユダヤ人と決別し、ユダヤ人教師=パウロの弟子達や使徒の弟子達の教師から離れて、初代西洋教父達、モーセの五書を知らないヘレニズム思想の教育を受けた異邦人有識者を

リーダー、師と仰ぎ、異邦人イエシュア信者の数が増え続けて

行ったのです。

 

異邦人達が独自に編み出した教えで、異邦人だけで形成する

グループに移行したのが顕著になったのは2世紀です。

キリストが昇天したから、異邦人別グループが神により誕生させられたのはなく、神が隔ての壁を打ちこわしに来たのに、

再び隔ての壁を作り、決裂して行く道筋を人が作り出して行ったと言うのが本当の事実なのです。

 

今の世界と同じです。ユダヤ人とは関わりが全く無い、

ヘブライ聖書をヘブライ語で書かれた通りを学ぶ機会が無い、

異邦人教師にだけ翻訳聖書を学ぶと言う、同じ土台が2世紀にはもう既に出来上がっていたのです。

ヘブライの書オリジナルの聖書を学ぶ事も無く、西洋哲学思想、ヘレニズム思想を土台背景とする西洋教父達が編み出した教えが作り続けられ、中世の腐敗した教えに発展して行った経緯があるのです。

 

2世紀以降異邦人とユダヤ人は、完全に決裂し、異邦人は独自の

グループを作って行って現在に至るのです。だから、西洋宗教であり、ヘブライとは異なるのです。1世紀のオリジナル、

ヘブライの聖書の教えとは異なる教えになって行ったのは、

人間が作り出したと言う経緯があったのです。

 

4世紀にローマ帝国が宗教弾圧をやめ、ローマ帝国自体が

新しい時の新興宗教を作り国の宗教と定めたのです。

そのことにより異邦人信者達の信仰を認めたのです。

それがローマカトリックの土台であるのです。

ニカイア会議に参加したのは100%ローマ皇帝に反する事を

決して言わない西洋教父=取り巻きの異邦人だけであり、

ユダヤ人の有識者=トラー学者は1人もその会議には参加など

していません。

なぜなら、モーセの五書を否定した教えに賛成票を投じる事など

ユダヤ人信者はしないからです。

だから、使徒信条の中には、イエシュアが生まれて、

処刑される迄の間の記録が無いのです。

”乙女より生まれ、ポンテオ ピラトの元で処刑され、復活し

と言う下りでも分かる通り、イエシュアが地上でトラー=

父の言葉=モーセの五書に書かれた事を生きて、人々に神が

造られた本来の人間の姿=神の性質に似た人の本来の姿を生きたと言う事実がすっぽり抜けた使徒信条になっているのです。

 

だから西洋宗教は4世紀に造られた当初から、モーセの五書は

廃れたと言う土台に作られた西洋宗教であり、聖書に書かれて

いるイエシュア、使徒、パウロや1世紀当時のイエシュア信者達の生きた内容とは異なる教えがローマ帝国により国の新宗教と

して作られてしまったのです。

 

その歴史の事実があるのに、あたかも神がイエシュア昇天以降

モーセの五書を破棄して別の教えを編み出したと言う教えを

伝統の言い伝えで語り継がれてしまっているのです。

聖書の事実だけに戻れば、人が神の言葉を改ざんしたのは明らかであり、その証拠が文献としても残っているのです。カトリックの質疑応答の書の中にも、神の安息日を変えたのはカトリックであると書かれた記録がちゃんと記されているのです。聖書には

神が神の教えは永遠不変で完全と人に紹介しているのです。

もし神の教えや義や救いの基準が時代ごとに変わると言うならばそれは神を嘘つきとしている教えなのです。

 

そして、神の教えを捨てて、様々に非聖書的な教えを編み出して腐敗したローマ教の教えがはびこり、それに対する中世16世紀のルターの宗教改革に至ったのです。

ルターの95の論題と当時のカトリックに蔓延していた非聖書的

教えに対して意義を申し立てたのですが、残念な事に100%

神の教えに戻ると言う軌道修正の事実は起きなかったのです。

 

聖書を元に考えれば分かりますが、西洋宗教と言う根=

イエシュアが教えていた、パウロが教えていたモーセの五書を

否定する教えは、宗教改革後も全く変わっていないのです。

 

キリスト教プロテスタントのクリスチャンはカトリックが

唱える教えを信じていないと思います。どうしてですか?

それらの教えが聖書では無いと聖書に基づき、

聖書とは異なる信条は信じていないからだと思います。

でもカトリックもイエスが救い主であり、人々の罪の贖いのために処刑され復活されたと信じています。

ある聖書の事実は捉えているでしょう。でもある事柄は聖書では無い事を信じている。それはプロテスタントも同じなのです。

 

ユダヤ教と言うものもイエシュアが来られる以前には存在していないものだったのです。ただただ神の言葉=トラーを生きるだけの世界が神の語る教えなのです。至極シンプルです。

人は神の口から出る1つ1つの言葉を生きる!

それだけなのです。神の教えは宗教では無いからです。

古代の残りの民も同様に同じイエシュア=救いを信じていたのです。モーセの五書、預言書に書かれた未だ地上に到来しない

同じ”イエシュア”を書かれた通りに認識し、受け取り、理解していた人たちは、同じイエシュアを信じていたのです。

どの時代も変わらないのです。

 

でもこんな風に考えていませんか?2000年前に初めて

隠されていた神の言葉の意味、奥義が明らかにされたと。

2000年前迄は劣る神の教えが与えられていて、聖霊は人の内に宿らなかったとか、特別な人の中にしか住まわなかったなどと信じています。これは日本だけでなく世界中で同じ事を聞かされますしクリスチャンのほとんどがそう信じていると思います。

我が家の隣人もそう言っているのを最近聞きました。

そしてトラーは、福音書以降に書かれている教えとは違うと

本気で信じているのも、世界的に同じ傾向なのです。

それは聖書をちゃんと書いてある通りに読んでいないから

書かれている事実が見えていない事が原因なのです。

 

イエシュア ハ マシアは昨日も今日も永遠に変わらないと

聖書に書いてあったら、書いてあると通りに変わらないと

信じないから、途中で変化すると言う人の教えを信じて

しまうのです。

ガラテヤの中に蔓延していた別の福音に引っ張られて聖書では

無い教えを信じる性質と全く同質の問題なのです。

1世紀当時の問題は、”伝統の言い伝え” ラビ達が作り出した

口頭トラーの中に、神の教え=モーセの五書では無い教えが

たくさんあったからです。現代も同じなのです。

人の作り出した教え=伝統の言い伝えの教え=律法の行いと

ガラテヤで書かれているものは全て人が作り出した教えであり

神の教えでは無い教えの事です。

 

宗教改革をしたルターの頭の中には、モーセの五書を否定する

思想がそのまま残っていて、最後は、”ユダヤ人と嘘”と言う

反イスラエル、反モーセの五書を書いたのです。

ユダヤ人がこの地上から消える事は神のみ旨であると主張したの

です。

ルターがした事は、神の教え=トラーを理解していない事によるのは明らかです。中世当時のカトリックの教えが聖書では無い!と気がつきながら、モーセの五書が永遠不変の神の教えとは

全く気がついていない。ある事柄に目が開かれても、神の言葉が

100%どの時代も有効であると言う事実には盲目だったからでしょう。

ルターがもしモーセの五書に書かれた教え神の教えを生きる事が神のみ旨であり、どの人種もどの時代も同じである事を理解していたら、ユダヤ人達に、神の教え=トラーに書かれた教えを捨てて生きる様な事は絶対に強要などしなかったでしょうし、

ルター自身も本物の軌道修正=神の教えを生きる事に戻った

はずです。

 

聖別が何で表されているのか気がつかないのは、トラーに書かれた教えが道徳的なもの以外今は無効と信じているからです。

シャバットを捨て、神の記念日を捨て、汚れた動物を食し

神の教えでは無い要素、混ぜ物の教えを生きたり、異教の神々の要素が混じったものを祝ったりする事、それらは全て神の前に

聖別を汚す行動なのです。それをトラーを知る神の教えを知る

ユダヤ人にしろ!と強要するとは、神の前に罪である事に

気がつかないとならないのです。

 

見えていない点は、現代で語られる教えと同じです。

イエシュアが教えていた事、パウロが教えていた事、

1世紀の使徒や信者が生きていた内容は100%モーセの五書であると言う事実が全く見えていない点なのです。

 

福音書以降に記されている内容は聖書の30%でしかないです。

それらは使徒が書いた書簡であり、新しい契約書ではないのです。

福音書〜黙示録は100%トラーを指して語っている、

トラーに記された内容の解説でしかないのです。

福音書=トラー、預言書に書かれたイエシュアが地上で

トラーを生きて、書かれた内容を現実に表した記録

使徒=トラーがエルサレムから世界へ伝えられた記録

パウロの書簡=諸外国に居た信者達から寄せられた諸問題に

対するトラー=モーセの五書からの知恵、対応を返答した書簡

黙示録=エデンから出てエデンに戻る、全ては神の教え、

本来の人間の生き方に戻る記録。

 

聖書のどの箇所もモーセの五書に反する教えなど全く記されて

などいないのに、神の言葉同士が敵対していると信じ込んでいる

だけなのです。それは書いてある中身を書いてある意味通りに

学んでいない、現代版別の福音を聞いている!と言う事によるのです。

プロテスタントの世界ではルターはヒーローとして讃えられて

いますが、ヒットラーにユダヤ人全殺戮をするゴーサインを与えてしまった書を書いたのはルターです。

神の前に大きな罪を犯してしまった事は否めない事実なのです。

この様な書を書くとは、神の言葉、教えの基本的な事が見えて

いなかったと言う証拠でもあるのです。

 

ユダヤ人が拒否したのは、神の教えを捨てる行為なのです。

それをルターは全く理解していなかったのです。

神が永遠不変の教え、記念日と伝えている事を捨てて、

別物を生きよ!などと言うならば、それは本物のイエシュアを

伝えている事にはならないからです。

 

イエシュアが地上で生きられた記録を読んでも、トラーを捨てた教えをするわけない、していない。100%トラーを神の意図

通りマックスに生きて、神の記念日を祝い、処刑される前の晩には、過越の祭りの晩餐を使徒たちと共に祝って、代々過越の祭りをするたびにイエシュアを記念するために、晩餐の中でマッツアを食べ、贖いの杯を祝うたびにイエシュアのされた業を思い出してと遺言されている記録まで書かれているのですどうして

その様な神の教えや記念日を捨てることが新しい恵の時代の神の教えだなどと信じられるのかは、それは伝統の教え=人の言い

伝えを信じて、神の言葉をないがしろにし、捨てていると

イエシュアが言われた通りの事が起きたからです。

 

 

続く