マルコ7章に、イエシュアは全ての食べ物はきよいと
言われた”と言う下りは原本に本来無いものです。
ある翻訳ではこの箇所は足されて、ある翻訳にはその文章は
無いのです。
神のトラー=モーセの五書は終わりと言う思想を信じる人
その様な翻訳者の手にかかれば、神の言葉を否定する教えを
挿入されてしまうからです。だから忠実に、神の言葉は決して
変化しない!と言う神が伝える事実だけに基づき聖書を読み続けて神の言葉が否定されている様な書かれ方をされている臭い箇所は何か改ざんや誤解があると気がついて読むべきです。
たとえイエシュアが全ての食べ物はきよいと言ったとしても
全ての食べ物とは、神の前にはレビ記11章の人間が食せる中の
全ての食べ物という意味で、それ以外の動物=汚れた動物は
人間の食べ物として造られてないと言う大前提で考えないと
ならないのです。
普通の人でも異教の地でも、普通に食さない物を人間の食べ物などと考えないでしょう。あなたのペット、犬、猫などを人間の
食べ物と認識しないのは、普通はそんなものが食べ物であると
言う考えをしないからです。それと同じなのです。神の教えを
知る人には神が教えているきよい動物=人間が食するのに適した食べ物、汚れた動物=人間が食するのに適さない掃除機動物で
ある事をちゃんと理解しているのです。神の教えを知らない
異邦人には神が創造された動物、きよい、汚れている=その区別が全然初めから無いのです。
文化、慣わしの中で食べ物かどうかを認識しているだけです。
汚れた動物は、最初から神は地上、陸の掃除機として造られた
動物であり、人間が食するのに相応しくない、フィットしない
人間の食べ物では無い!エデンの園の知識の木の実と同じ!
人間が食する様には造られてはいない” 神殿の祭壇に捧げるのに
ふさわしく無い動物。屠殺したら苦しむ様な構造に造られている動物!と神が教えている事を敢えて逆らい、食べると言う行為は、エデンの園のアダムとエバと同じ行為で、神の言うことを
無視しても良いと考えるズレた思考回路を生み出すものです。
神が禁じるものを敢えて食べたいと願うのは、神に造られた性質に反していると気が付けば良いだけなのです。
異邦人にはハードルが高いかもしれないですけれど。
でもそんな汚れた毒を理解すれば、敢えて体に取り込みたくなどないでしょう。
特に異邦人の世界は、異教の神々が背景の育ちであるから
神の前に汚れとか、聖別の意味が感覚として全く無い、
通じないのです。
しかも、聖別=神の目的通りに分かたれている事実は、
食べ物、飲み物、神の記念日で表されているのです。
だから、コロサイ2:16にある様に、食べること、飲むこと
シャバット、新月、祭りを誰にも批判されるなかれ!と
あるのは、それらは100%イエシュア=聖別された人の
生き方を表す中心でもあるからです。
神の教えはシンプルです。
そして西洋思想の様に物理的霊的と分けるヘレニズム思考回路では見えない世界があります。肉体と霊的実態は1体であるのに
肉体の世界は劣ると考えるのはヘレニズム思想です。
神が造られた世界は物理的世界で、それらを”良い”=トーヴ=
神の意図通りと言われたのは神です。
だから、汚れた食べ物を自分の体の内側に取り入れる行為は神の前にもっとも忌み嫌うわれる行為であることが書かれていても
感じないので、気が付けない。感じない=それが異邦人の
日常の生き方だから何も違和感がないのです。
でも神は人々に何を警告していますか?
以下に書かれた内容は未来預言です。
イザヤ56:06また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、
主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
56:07わたしは彼らを聖なるわたしの山に導きわたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物と
いけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
56:08追い散らされたイスラエルを集める方主なる神は言われる
あなたたちを追い払った者が言う主が栄光を現されるように
お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。
イザヤ65:1 わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
65:2 よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
イザヤ66:16主は必ず火をもって裁きに臨まれ剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。
66:17園に入るために身を清め、自分を聖別しその中にある
一つのものに付き従い豚や忌まわしい獣やねずみの肉を食らう者はことごとく絶たれる、と主は言われる。
福音書以降に書かれている内容は、モーセの五書を帳消しにする様な教えが書かれていると言う誤解された大前提ばかりで聖書を解説されてしまっていて、聖書に書かれている内容を正しく
語っていない解説ばかりが異邦人の世界で聞かされてしまって
いるのです。
イエシュアがご自身である言葉=神の言葉を否定しに、
帳消しにし、神の教えから人々を解放するために来られたと言う
聖書とは何の関係も無い教えが聞かされて来ました。
でもトラーを知るユダヤ人はその様な誤解などしながら
聖書を読まないのです。神のトラーを帳消しにするとは、
罪の基準が消える無法地帯になる!と言う事実に着目して
考え直せば見えます。
負えないくびきとは トラーのことではないのです。
人が作り出した口頭トラー=人間の教え=神の語る教えを
逸脱した解釈をして編み出した日々の中で生きる細かい制約
教えのことを”負えないくびき”と話しているのです。
次にシャバットが日曜日に変更されたと信じられ語られている
箇所ですが、とんでも無い誤解をしていることは書かれている
内容、シャバットや祭りの意味を知れば理解出来ることなのです。これは何度か書いている内容なのでざっと書きます。
使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから
出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、
そこに七日間滞在した。
この6節に書かれている”除酵祭”と言う言葉だけで、その意味を知り祝う人達には理解出来る情報があるのです。
除酵祭とは、何の祭りですか?春の過越の祭りから始まる7日間
種無しパン=除酵されたパン、イースト菌が入らないパンを食べる週を祝う事です。イエシュアが過越で種無しパンをさいて、
そして贖いの杯を取って”過越の祭りを祝うたびにわたしのした
事を思い出し、記念してこの過越の晩餐の儀式”の中で祝いなさい、種無しパンと贖いの杯の意味を思い出してやりなさいと
言われました。
ローマ教はこれを、月一度の聖餐式=種ありパンとぶどう酒
と言うものに変形して、過越の祭りを祝わずに聖餐式と言う変えられた儀式を祝う様にしてしまいました。過越、除酵祭の一連を
祝う事をやめて、イースターという異教の女神の名を付けた
復活祭と言う祭りに変えてしまいました。
種無しパンを祝うとは、過越の祭りを祝い、3日目に来る
復活の命を表す”初穂”を祝い、そして過越の日は曜日に関わらず
シャバット=止まる日として祝い、種無しパンの7日の間には
必ず第七日目のシャバットが来るので、第七日目のシャバットを祝い、そして、種無しパンの祭り=除酵祭りの最後は、曜日に
関わらずシャバットとして祭りを閉じると言う神が指定した
祝い方をするからです。
そうすると、この箇所を、日曜日礼拝に変更された記事が書かれていると考えるのは、もともと聖書に書かれている内容、意味を理解していない人が解説していることは明らかなのです。
そして、7節にある週の初めの日と言う箇所は、日と言う言葉は
原典には無い言葉です。週の初めとは、過越から始まる次の祭り
シャヴオート=週=Weeks 7週後に来る祭りまでの期間、
ペンテコステとギリシャ語で訳されている”トラー=婚姻契約”を
受けた祝いをする祭りまでの7週を”オメルを数える週”穂を数えてシャヴオートを祝う事を準備する期間の最初の週と言う意味で
書いてあるのです。1つ1つ聖書の事実だけ読み取れば、
どれだけ聖書を誤解して逸脱した解説をされてしまっているのか
明らかになるのです。
もし仮にそれがシャバットが終わる土曜日の夕方であるとするならば、次の日は日曜日であり、パウロはその日は移動して出発する日と書いてあるのです。
シャバットには旅で移動したり、仕事、労働をしない、止まる日だからです。日曜日は労働、活動の週の第一日目だから出かける予定でいるのです。
20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、
しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。
パンをさく=シャバットを閉じる儀式をする時、シャバットには
種ありパンをさいて食べる伝統の習慣があります。
そして、次の日の旅の話をしていると言うことは、シャバットでは無いので、活動や仕事の話をしているのです。
シャバットには仕事、活動、勉学、その様な話は一切しないからです。
20:8 わたしたちが集まっていた屋上の間には、あかりがたくさんともしてあった。
20:9 ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとう
ぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。
抱き起してみたら、もう死んでいた。
ここでも分かることがあります。異教の地では、第七日目は
労働日です。この日が土曜日の夕暮れだったとしたら、
シャバットで昼間働いている人もいるのです。
ユテコもそうであったのでしょう。その様な人もシャバットを
閉じる=グレゴリオ暦では土曜日の夕方、晩に集まる時に来て
昼間の労働で疲れて眠気がさして屋上から落ちたと言う事件が
あったのでしょう。
続く