モーセの五書が廃れたと言う根拠にされている点は何か? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント 16:2 一週の初めの日ごとに、あなたがたは

それぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、
わたしが着いた時になって初めて集めることのないように
しなさい。
 
この様な箇所を読んで、週の記念日、シャバット=止まる=
第七日目が昇天以降は日曜日に変更された根拠であるとし、
この聖句を引用して殆どのクリスチャンの教えでは、シャバットは変更!と解説されていますが、この箇所はシャバットが変更になった事実が書かれているのとは全く違うのです。
 
カトリックやキリスト教の伝統の慣わし、礼拝、クリスチャンの世界で継承する教えや礼拝などでこの箇所を想像して読んだら
見えないものがあります
 
まず、クリスチャンの世界で想像しているのは、以前の私も含めてですが、福音書以降に書いてある内容を現代の宗教世界の教えやしきたりで読んでいる事に全く気が付いていない事があります。
福音書以降に書かれている内容を考えてみて下さい。
福音書以降に書かれている安息日とは、100%第七日目であり
この記録は、福音書以降少なくとも56回、シャバットに関して書かれています。
イエシュアがシャバットに会堂に入られて教えた記録が
福音書にあり、パウロもシャバットで会堂でトラーを教えた事が記されています。
 
イエシュアがシャバット=第七日目にユダヤ人の会堂に入った、
これは街囲みの中にあるユダヤ人の会堂の事です。
その街=コミュニテイの中にある寄り合い場所=会堂=その中で
シャバットにトラー、預言書などが朗読されたのです。
現代も同じです。個人個人が手書きのトラーの巻など自宅に所有していない時代なので、街の中にある会堂で毎週トラーが読み
上げられたのです。読み上げられる場所は一年に渡り
<三年のサイクルのプランの場合もありますが>
ちゃんと計画されていて決められています。
これは現在も同じです。世界中でシャバットの時に、同じ箇所が朗読され続けています。その週ずっとその箇所を学びます。
満遍なく飛ばさずに1年かけてトラーを読み学ぶのです。
イエシュアがユダヤ人会堂に入り、預言書を読み上げた下りが
書かれていますが、モーセの五書とその箇所に付随する、
預言書、諸書も読み上げる計画がちゃんとされているのです。
偶然にイエシュアがその時のシャバットでイザヤ書の救い主に
関する箇所をランダムに適当に読んだのではないのです。
その週の朗読箇所を読んだのです。前もって予定されていた
預言書の箇所がイエシュアご自身を語る内容だったのです。
 
ルカ4:16には、”いつもの様にシャバットに会堂に入り
トラーを朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、
その書を開いて、こう書いてある所を出された、
 
イエシュアがシャバットを祝い、神の言葉=トラーを読んでいる事実が書いてあり、イザヤ書を読み21節で「この聖句は、
あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と言われました。
 
使徒行伝以降も、安息日に会堂でトラーを読み上げ、パウロは
安息日にトラーを教えていた記録しか書いてありません。
使徒 1:12、13:14、13:27、13:42、
13:44、15:21、16:13、17:2、18:4、
コロサイ2:16、ヘブル4:9
 
使徒行伝以降も、レビ記23章の記念日を祝っていたのです。
使徒行伝以降に、日曜日礼拝、クリスマス、イースターを
祝っている記録など1つもありませんし、話題にも上らない。
その様な教えは使徒たちがこの地上から去った後に出てきた
異邦人達が作り出した教えや記念日だからです。
 
注目して考えないとならない事実があります。
探偵になったつもりで、神が語る聖書の真実の点と点だけを
繋げて考え続けて行けば必ず真実は、はっきりと見えてきます。
 
クリスチャンの世界では、この様に安息日にユダヤ人の会堂で
トラーを学んでいた記事が書いてあっても、キリストが
キリスト教会と言う新しいものを作り、異邦人信者=
クリスチャンの新しい別の新グループが作られていたと
考えていると思います。
 
でも聖書に書いてある事実は異なります。
使徒15章を読んでも分かる通り、1世紀当時、聖書が書かれている時代に居た初代の信者達の殆どがユダヤ人です。
異邦人信者は極少数です。そして、イエシュアを信じたユダヤ人も異邦人も皆もれなく、ユダヤ人の会堂=シナゴーグでトラーを
聞いていたのです。異邦人もユダヤ人のグループに混じっていた
現代の様な西洋カトリックやプロテスタントの教えのクリスチャン教会というものは存在さえもしていない時代なのです。
トラーの巻を家に個人所有する異邦人なんて居ない。
 
何度も書きますが教会という造語は聖書に書いてある事実を
全く反映しない言葉で真実を理解する妨害になっています。
教会という別グループは存在しないのです。
 
教会と言うと、昇天以降新しい別のグループ、別の教え、
別の契約が与えられ、異邦人が代表の時代になったと考えてしまうと思いますが、神が造られた家族=全ての信者は、太古=最初からある同じカハール=エクレシア=呼び出された人々の群れ=神の一大家族、継続している同じ1つの家族、人が加え続けられているその1つの家族しか存在していないのです。
造語のおかげで、別物が出現したと信じさせるには持って来いの
人造造語なのです。
 
スポーツに反則と言うのがありますが、翻訳の中にも反則が
たくさんあります。ある人の思想を反映させるための造語や
聖書にそぐわない別の思想の解説を注解している事、
それは反則です。おなじ元の言語=カハール、エクレシア=
集会と言う翻訳用語を福音書以降では別の造語=教会という言葉で意図的に置き換えて訳している。翻訳の性質自体、元の言葉をうまく反映する事が難しいのに、元の言葉の意味とは全く違う、意味を表さない別の造語や別の言葉や聖書に存在しない文書を
人が勝手に挿入したら、それこそ書いてある元の意味など
知る術を奪われてしまっているのです。
 
もっと深掘りしてみると見えます。1世紀の異邦人信者は
100%もれなく、ユダヤ人のグループに参加していたのです。
ユダヤ人の集う会堂で、モーセの五書、預言書、諸書を聞いて
いたのです。モーセの五書=預言書、諸書以外の聖書など1世紀には存在しないからです。聖書と聖書に書いてあったらそれは
トラー、預言書、諸書を指して話しているのです。
ユダヤ人会堂以外の場所で異邦人がトラーを聞いたりなど
出来ないのです。
15章のエルサレム会議の対象は、異邦人をどう受け入れるのか
が議題であり、その異邦人達はトラーを理解していない事が
書かれています。しかも異邦人信者達がシャバットごとに会堂で
トラーを聞いて教えられて行けば、神の教えがやがて理解できるだろうから、取りあえず、異邦人が汚れた行動をユダヤ人達の
グループの中に持ち込まないようにと議論されたのが
エルサレム会議の主旨なのです。
 
日本人に聖書が浸透しない状況と全く同じ状態があり、1世紀の異邦人の世界も聖書を知らない状態だったのです。日本人で先祖代々ヘブライ語の聖書に精通し、熟知し、教え続け、トラーを
生きている親や先祖を持つ人なんて居ないでしょう。
牧師や教師でも居ないと思います。それと同じです。
ユダヤ人の世界はその点が全く違います。
世界のどこに住んでもヘブライ語聖書の教育を小さい時から
受けている。聖書を教える人は本当に深く学んでいる。
 
そして、1世紀後半、神殿が崩壊された後に、110万人の
ユダヤ人は殺害され、ユダヤ人への宗教待遇もローマ帝国から
撤廃され、異邦人もユダヤ人も両方、モーセの五書に書かれた
生き方、レビ記11章の食生活、男の子が生まれたら割礼をする事を禁じ、シャバットや祭りを祝う事を、重税と処刑を持って
禁じられたのです
ユダヤ人はエルサレムから追放され、異邦人は残りました。
異邦人はユダヤ人の様に神の言葉を何が何でも死守しようなどと
言う意識がありません今も同じです。だから神の言葉は破棄
されたとか、廃れて終わりなどと言う非聖書的教えを平気で信じてしまうのです。さてそれからが問題なのです。
 
色々な要素が重なり、異邦人がユダヤ人と完全に決裂し、
独自の教えを作り出す西洋教父に付いて行った足跡があります。
異邦人は元々神の教え=トラー=モーセの五書に根付かない
異教徒思想、異教徒文化の生まれ育ちです。
日本人も同じです。だから理解出来る内容だと思います。
神の言葉に対する畏敬の念が異邦人には無い。神の教えが
何であるかを知らない、トラーを知らないからです。
 
1世紀後半には、既にモーセの五書=婚姻契約=父の言葉=
トラー=イエシュアの教えを否定する、違う教えを作り出す
西洋教父達が現れ出ました。その中の代表、時の異端者として
見なされていたマルキオン、この人の思想で、聖書は読む必要など無い、パウロの書簡いくつかとルカだけ読めば良いと言う
思想が語れてこの思想は19世紀のダービー=デイスペンセー
ション神学を編み出した人の思想と全く同じなのです。
ダービーは山上の垂訓、イエスの教えも生きなくて良い!と
教えたのです。それって神の言葉?聖書が語ることでしょうか?
マルキオンが旧約新約聖書と言う概念を編み出したのです。
怒りの神、恵の神、怒りの時代、恵の時代。その様な思想は
神の性質でも神の語る真実でも無いのです。人の思想。
聖書は1つであり、神の言葉は1つなのに。
この様な神の言葉を否定する教えを編み出し始めた西洋教父達の
産物が中世西洋カトリックの腐敗と聖書では無い教えを作り出し、生きていた問題に繋がるのです。
 
そして、2世紀最初の異邦人信者はどうしたと思いますか?
ある人達は、地下=カタコンベに潜り込み、密かに仲間と
集っていたのです。ローマに見つかれば処刑されるからです。
そして、パウロや使徒達の弟子に当たるユダヤ人教師達からも
異邦人達は完全に切り離されて、教師が無い状態になったのです。そうすれば、どうしたのか?これが問題の根、決裂の始まり
違う教えを編み出して行く路線に走った経緯なのです。
 
トラーを知らない異邦人達は、リーダーを異邦人の有識者の中に求めました。ギリシャの教育を受けた、詩人や、哲学者、
ジムナジウム、ヘレニズム思想の大学で学んだ有識者に
その知識を求めたのです。トラーを知らない異邦人を教師としてしまった。数学者、哲学者、天文学etc どおりで1世紀後半の
西洋教父達は”Greek Father"ギリシャの父と呼ばれる人達であり、後にはラテンの父と呼ばれる、ヘブライの聖書の教育など
全く土台に無い人達の聖書とは違う思想を通して聖書の教えを
聞いてしまうことになって行ったのです。
オリジナルの神の言葉から遠く遠く離れた教えが次々と編み出される幕開けとなった。パウロが忠告した別の福音、それを見分けることが出来ないのは、オリジナルの聖書を知る人、教える人が
異邦人の中から消えたからです。
 
続く