モーセの五書が破棄されたと言う根拠にされている箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人はエデンの園を飛び出した状態、神の言うことを神が言う通りには聞きたくなどない。

自分の理にかなった通りで神の言葉を考えたい!その状態が

ずっと続いているのです。

 

聖書の中で、福音書以降、神の教えが変化したと言う箇所は

ほぼ使徒以降の教えを指して、誤解された解説がされ続けて

います。

 

神の言葉を神が否定する教えは聖書の中にはどこにも存在など

していない事実があるのです。聖書が旧約新約と言う二つ別物の教えであるなどと言う教えも無い!旧約新約そのタイトルも

無い!神は神の言葉を分断するタイトルを神の言葉に対して

付けてなどいない!人間が勝手に付けただけ!一貫して同じ福音を語る1つの神の言葉だけが聖書には書かれているのです。

 

そして1世紀の信者達の中に、現代の様なモーセの五書を

否定する教えなど微塵にも存在しない、そんな事語る場合は、

即座に異端!と追放される世界がヘブライの世界なのです。

 

どうして神の言葉を否定する教えが出現してしまったのか、

その詳細は折々書いて行きます。

全ては異邦人が勝手に編み出した教え!それが由来です。

 

福音書の中では、イエシュアが当時のラビ達との議論で、

あたかもモーセの五書を否定する教えや、シャバットを

ないがしろに生きていると誤解されている箇所がありますが、

イエシュアの発言は100%モーセの五書から語られているので

イエシュアが神のトラー=父の言葉=婚姻契約を変形し

破棄したとは完全には言いづらいので、パウロが新しい教えを

しているとしている解説が異邦人の世界には多いです。

もしイエシュアが父の言葉=トラー=モーセの五書を否定する

教えをするならば、それはまゆつば物、偽の救い主です。

100%父の言葉=シナイ山で文字で書かれた神の教え、

インストラクションを神が意図する通りに語り、生きたそれが

イエシュアの実態だからです。

 

常に念頭に置く必要があることは、長年語り継がれた教えが

真実であるのでは無いのです。進化論と全く同じなのです。

長年主流に伝統で語られている、イコール真実であると言う図式は神の言葉に関しても通用しないものなのです。

世界は嘘で塗り固められている事実を知れば容易に理解出来る

でしょう。真実を知らせたくない勢力=悪霊がいるのです。

 

イエシュアがマタイ5:17で語られた、トラーを破棄するためではなく、成就すると言う言葉を成就=終わり!と言う解釈を

解説されていますが、それって全く書いてある意味を捉えない

別物の教えを作り出している典型的な例なのです。

トラーを破棄するためではないとはっきりとイエシュアが

言っているでしょう。破棄=神の意図と違う解釈、生き方と言う意味です。その言葉を無視して、読み込みしているのです。

それだけでもイエシュアが語っている意味を読み取らないとならないのです。

 

異邦人の世界には、先祖代々トラー=神の教えを聞いて来た歴史

が全く無いのです。だから、簡単に神の言葉を否定することに

対してなんの罪の意識も湧かないのです。背景、育ちに神の言葉に対する根が全く無いからです。

 

神の言葉を人間が否定する教えなんてその様なそら恐ろしい冒涜は神の子らは決して出来ない、してはならない、そう言う基本的な思考が無いのが異邦人の解説の世界、思考の世界なのです。

 

福音書以降、使徒行伝以降の書簡、パウロの書簡などの中で

モーセの五書の教えが変更したと誤解されて解説されている箇所は次の様な箇所です。

 

使徒10章でペテロが見た幻で、神が”汚れた動物”を食せと

神がレビ記11章を否定して語っていると誤解している箇所です。レビ記11章の食規定が廃止されたと言う解説。

 

ここでペテロが神に幻を見せられた意味は、汚れた動物も

食べて良いことになったなどと言う意味は全く無いのです。

色々な動物が天から降りて来て、屠って食べよとペテロは言われました。屠るとは、神殿の神の祭壇で祭壇に捧げられるきよい

動物を屠ると言う言葉と同じです。

神の祭壇で汚れた動物など屠りません!

 

では、ペテロが躊躇していた事は何なのでしょう?

神殿で動物を捧げる時には、汚れた動物と一緒くたになった

動物など捧げません。

正当なルートで買い求めた認められた動物だけを神殿の祭壇で

捧げたのです。

ペテロはどこから来たのか分からない、汚れた動物とくっついて

交わった動物など、そんなものを屠るなんてあり得ない!と

考えているのです。

この思考回路の裏には、これからコネリウス=異邦人の家に神から遣わされて行くために、異邦人=汚れたものに平気で交わる

汚れた人たちと言う意識に対する偏見を取り除かないとならないからです。

 

使徒15章でも分かる様に当時の異邦人イエシュア信者は

少数派です。しかも異邦人イコール汚れた事をする人達と

言う意識は拭い去れないのです。

ユダヤ人には、異邦人は”犬”と言う意識があるのです。

汚れたものに平気で交わる、神の教えを全く知らない異物!

 

使徒15章で、イエシュア信者でありながら、汚れた動物を

食ししかも異教の神々の神殿で汚れた動物を捧げ、血を食べ、

そして神殿娼婦と交わる様な事を異邦人信者は、イエシュアを

信じた後もしていた!と言う事が書かれています。

だから、ユダヤ人の仲間に加わるなら、改宗儀式=ユダヤ人に

なる儀式をしなくても良いから、必要最低限4つだけは取り敢えず絶対しないで!と言う提案をしたのが使徒15章に書かれて

いるエルサレム会議の決議内容なのです。

何も分からない異邦人も、毎週シャバット=第七日目にユダヤ人の会堂でトラーを聞いて学んで行けば、神の教えが何であるのか

次第に気がついて学ぶから、取り敢えずはこれだけは知って

置いて下さい!と言う提案なのです。

 

これらを読んで、異邦人の世界の解説は、異邦人はこの4つだけ生きれば、モーセの五書の教えなど生きなくて良いのだと言う

大変ずれた早合点をしてしまっているのです。

書いてある内容をちゃんと読んで理解する!と言うことを

していないのです。

 

マルコ7:1−7の箇所も同じです。”言い伝え”=”律法の行い”

人が作った教え、伝統で言い伝えられている口頭トラーの中には

トラーとは逸脱した教え、解釈、又はトラーにも書かれていない教えを一部のラビ達はやる様に強要していました。

クリスチャンの世界にもたくさんある事です。

 

神の教えでは無い事を生きる様に指導し、半強制的にやらせる

それらは、神の教えでは無い事ということにまず気がつく事が

必要なのです。それぞれの人間が作ったルールを生きさせる事、それが”言い伝え”=伝統の教え=律法の行いと呼ばれるもので

あり、トラー=モーセの五書に書かれた内容をイエシュアが

否定などする訳などあり得ないと言う大前提で聖書を読まないと

ならないのです。神がトラーの著者であり、その中に書かれた

教えは永遠不変と人に伝えているのに、どうして歴史の途中で

神の教えが変わるのか?と言う矛盾に気が付けば良いのです。

 

マルコ7章を読めば、”手洗いの儀式”をしないイエシュアの

信者達をラビ達が非難していますね。

それが議論のポイントです。人の教えを生きなくて良い!

人の教え=人を縛る教えなど生きる必要など全くない!

手を洗わない、イコール汚れたものを触って、その手で食べ物に

触れたら、その食べ物自体も汚れるので、あなたは汚れている!と考える思考回路です。

そして、最後に人の体に入るものは人を汚さないけれど、

イエシュアはこう言われました。

 

「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。」

 

ここでちょっと書き足す必要がある内容があります。

 

トラー=モーセの五書、預言書、諸書の手書き写本はまるごとの

形で、中身も殆ど同じ文字数、言葉で書き記されて残されて

いますが、福音書以降は、まるごとの形で残されたものは

全く見つからないのです。

どうしたのか?と言う事です。欠けらを継ぎ合わせて、

他の写本のかけらと合わせて、どれが信憑性があるのかと言う

繋ぎ合わせをし続けたのが福音書以降の記録なのです。

 

だから、福音書以降のある写本には無いごっそり数章が抜けた

ものや、ある写本には無い挿入文章があったりするのです。

しかも、ユダヤ人の様に、写本を正確に書き写す訓練を受けた

詰り、トラー、預言書、諸書を学び、そして正確に書き記す

学校など異邦人の世界にはありませんでした。

 

だから、ユダヤ人の手から異邦人は離れた後、忠実にその写本を書き残す事に意識の無い場合は、辻褄が合わない箇所は合う様に

勝手に言葉を挿入したりしてしまっているのです。

だから、カギ括弧や、ある翻訳では無いもの、あるものには

あると言うそう言うものになっているのです。

 

続く