パウロが100%モーセの五書を支持し否定などする訳など無いパウロの証言 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トラーを否定する教え、 割礼を禁じていると言うパウロに

対する町の噂、疑惑を晴らすために神殿でナジル人の誓願を

している。

なぜ神殿で動物の捧げ物をしてナジル人の誓願をしているのか?

昇天以降になぜ神殿で生贄が捧げられ続けているの?

疑問に思って考えないとならない点でもあるのです。

 

動物の血は罪を拭わない、許しにはならない!

 

神殿の中で行われている事、教えられている内容は100%

イエシュアがされた業のシャドーコピー=影だからです。

神の子らの本物のID、神の前に真っ白できよい存在にされている神の子らの生き方、神と、又は人との修復の仕方、神の前に

どの様に出てるのか?礼拝の意味、真髄、神と顔と顔を合わせて元どおりの意識に修復するのか?仲違い、又は傷つけた、付けられた場合にお互いにどの様に和解するのか?

その全てが動物とその他の捧げ物、神の祭壇、神の家の一番親しい場所、茶の間のテーブルに於いて教えられているからです。

 

神の神殿の中で体験する事の実態は100%イエシュアがされた業を地上で五感を通して体験して学習するための神の造られた

学習ツールであるからです。神の子らの生き方のモデル、

お手本、デザインを教えているものだからです。

 

使徒21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、

あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、

子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、

モーセにそむくことを教えている、ということである。

 

<ガラテヤの中にあった問題=割礼=改宗儀式にも繋がるものです。モーセの割礼などは聖書の中にはなく、聖書にあるのは

アヴラハムの割礼です。

人の改宗儀式=割礼とは異なるものです。

改宗儀式=割礼と言う名のラビ達の儀式をして、ユダヤ人に

改宗する、それをパウロが否定していたのを、パウロがトラーを否定し、人々にアヴラハムの割礼をする事を禁じていると言う

誤解にも重なったのでしょう。

割礼をパウロが100%否定していない、しない理由を、

別枠で書きます。>

 

21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、

彼らもきっと聞き込むに違いない。

 

21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。

 

21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、

また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラーを守って、正しい生活をしていることが、

みんなにわかるであろう。

 

パウロが使徒21章でナジル人の誓願を果たして、モーセの五書に違反していると言う噂をパウロ自身が払拭したのに、どうしてクリスチャンの世界では、パウロの行動、証言とは裏腹にパウロがトラーを否定して終わらせた別の教えをしていると言い続けているのでしょう?その理由は別の記事に書きます。

 

議会でのパウロが100%モーセの五書を支持している証言集。

 

使徒22:3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、

ガマリエルのひざもとで先祖伝来のトラーについて、きびしい

薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。

翻訳では〜熱心な者であったと言う過去形ですが、

これはある!と言う今現在証言中もパウロはトラー=

モーセの五書を信じ生きる事に熱心なものである!と言う

現在形で書かれているのがギリシャ語の元の原語です。

 

以前はトラーを信じていたけど、イエシュアに出会った今は

モーセの五書とは違うことを信じているなどとパウロが言った

様な印象を与える不適切な訳は全て元の言語に戻して正しい

翻訳がされなくてはなりません。

パウロが問われていた問題は、”復活の命”イエシュアが救い主であること!それを世界へ証言していたので、イエシュアを救い主と見えない人達から非難されていた!その一点なのです。

 

使徒 23:5 パウロは言った、「兄弟たちよ、彼が大祭司だとは

知らなかった。聖書=トラー『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった」。

<出エジプト22:28 士師記1:8−9に繋がる引用を

パウロはしています。トラーを否定する教えをする人がどうして

トラーを引用しするのでしょうか?

 

23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、

一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、

裁判を受けているのである」。

 

パウロはパリサイの中のパリサイと言う言葉で、100%

モーセの五書を支持して生きている!と宣言しているのです。

どこが違うのか?トラー、預言書に書かれた救い主、そして

救い主が死者から復活すると言う、トラー、預言に書かれた事実が地上でイエシュアを通して成就した!その事を主張する事で

裁判にかけられているのだ!と訴えているのです。

処刑されたイエシュアが、トラー、預言書に書かれた救い主=

イエシュアである事実に目が開かれていない人達の前でパウロが証言し、パウロは100%トラーを支持し、トラーを否定した

教えなどしていません!と言っているのです。

 

使徒24:14ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、

彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、トラー=モーセの五書の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、

24:15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。

この希望は、彼ら自身も持っているのです。

 

使徒25:19 ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に

関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない。

25:24 そこで、フェストが言った、「アグリッパ王、ならびに

ご臨席の諸君。ごらんになっているこの人物は、ユダヤ人たちがこぞって、エルサレムにおいても、また、この地においても、

これ以上、生かしておくべきでないと叫んで、わたしに訴え出ている者である。

 25:25 しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、

わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。

25:26 ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが

何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき

材料を得ようと思う。

25:10 パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。

パウロは、議会の前に立ち、ユダヤ人に悪いことをしていない

トラー=モーセの五書に反する教えや、行動などしていない!!とパウロはハッキリと証言しています。>

 

25:27 囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思えるからである」。

 

26:6 今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。

26:7 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、

その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。

 26:8 神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。

 

 

パウロが100%モーセの五書を支持し、否定した教えや

行動などしていないとハッキリと書いてあるのに、

どうして異邦人はパウロの証言を否定し、無視した解説を

するのか?それは聖書に書いてある内容を曲げた教えを信じて

脈略や書いてある内容を無視したり、飛ばしたり、曲解して

読み続けている教えや解説だけしか聞いてないからであることは

明らかだと思います。