ガラテヤ4:22 肉によるアプローチ 別の福音 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

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全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ4章の22節以降も、パウロが”モーセの五書”に敵対

する教えを書いていると誤解して読んでいる箇所だと思います。

1つ1つパウロが本当は何を意味して書いているのか、
事実に戻り読み直す必要がある箇所です。
 

ガラテヤ4:22 そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から

生れた。

4:23 女奴隷の子肉によって生れたのであり、自由の女の子約束によって生れたのであった。

 

パウロが22節で、”その記すところ” と書き出しているのは、

トラーの引用の典型的な紹介の仕方です。

 

でも、パウロが22節で語る内容は、トラーからの直接の引用ではなくても、トラーに基づいた真理を語っていますが、伝統的な形態で語っています。パウロが、ガラテヤの人達に影響を与えていたインフルエンサーが語る”別の福音”=口頭トラー、彼らの

教え=改宗儀式をしなければ天の国の一員では無いと言う

非聖書的な教えに反対して、パウロはガラテヤ人をトラーを

正しく理解して、神の教えとは違う改宗儀式=割礼と名付けられた儀式をする事で義とされる、天の住民票を正式頂くと言う

行為は神の意図、恵みに反する行為である事を諭しているのです。

 

パウロは、ミドラッシュ=パウロ的な聖書の解説を設定して

教えているのです。イエシュアのたとえ話を思い出して下さい。

それと同じ性質のものです。実際にあった話をしているのでは

ないけれど、その物語の中には神の言葉の真理を知るための

ポイントがストーリーの中で語られているものです。

 

アヴラハムには2人の息子が居ました。

エデンの園の最初から神は人に口頭で神のトラー=教え、

インストラクションを与えて教えていたのです。

 

トラー=神の言葉=教え、インストラクションが文字として

書かれて与えられた時も、人々はモーセを通してトラーが

読み上げられた神の教えを伝えられていたのです。

 

荒野で一人一人が手元に文字で印刷されたトラーを持っていたのではないからです。全て神の教えは口頭で伝えられたのです。

何度も何度も繰り返し神の言葉を読み上げ、語り、人々は

教えられたのです。

現代のユダヤ人の中にもトラーを丸暗記している人達は大勢

います。幼い頃から歌って踊って身体ごとトラーをそのまま

覚える。一年を通してトラーを繰り返し読み、生涯それを続けているのです。それが代々ずっと継承し行われているのがユダヤ人の世界の伝承なのです。

 

人々は耳で神の言葉を聞いて覚え理解していたのです。

一人一人が文字で神の言葉を読んだのではないのです。

 

イシュマエルとイサクそして彼らの母親達、ハガルとサラ。

サラは”自由の女”として言い表され、一方ハガルは女奴隷として

書かれています。

奴隷と自由と言う対比を追加して ハガルの息子は肉の努力に

より生まれた(アヴラハムの自分の努力で得た子供)

一方イサクは神からの約束を通して与えられた子供として

表されています。

創世記15:16 21:2

 

この話法で、肉とは”人の作った教え=律法の行い=ラビ達が

編み出した口頭トラー=改宗儀式で義を得る事に対比させて

います。人の努力や人の考えで義を得る方法です。

 

契約の関係の中に入る=神の国の一員になる事を人の手柄

努力、行い=改宗儀式で得るやり方と、イエシュアのされた業を

信じて受け取る方法で義とされている事実を得る事との意味、

アプローチの性質の違いを比べて説明しています。

 

ガラテヤに影響を与えた別の福音を語るインフルエンサーは

アヴラハムの解説を自分達の教えの根拠、証明としても同じ

様に語っていた事でしょう。

 

結局この解説の一番の論点は、アヴラハムの息子に関しての話であるのです。

誰が”約束の子”として、契約を築きあげるために神から約束を

与えられたのか?と言う事です。この時点で<創世記17章>

アヴラハムは、神にリクエストをした事は、自分の肉の作戦、

手柄により得たイシュマエルが特別な役割を成就する事ですが、神はイシュマエルを退けて、イサクに神の約束=契約を継承し

築き上げる役割、約束を与えたのです。

それが最初から神のオリジナルのプランだったからです。

 

その話を利用して、ガラテヤの人々に、イシュマエル<異邦人

約束の民ではない>ではなくあなたもイサク<約束の民=ユダヤ人>になりたくはないかと別の福音を語る人々、

インフルエンサー達は異邦人に迫ったのでしょう。

 

それは、肉の生まれだけで約束の民になれると言う別の福音を

語る教えです。

でも神の義、聖霊を受けるとは、人種、生まれにより与えられるのではないのです。イエシュアの実態を信仰により受け取る人は

誰でもどの時代でも、どの人種でも神の契約の中に加えられ、

神の国の大家族の一員となるその事実があるのです。

 

これは、後で書きますが、インフルエンサー=別の福音を語る

ユダヤ人達は、異邦人などが婚姻契約にそのまま加わるなどと

言う事実に耐えられない!と言う下地があるのです。

だから、トラーに書かれた救い=イエシュアの死と復活で見せられた様に、誰でも救い主を信仰により受け取れば神の前に義と

されている事実が許せない訳です。

これはもっと深く解説すれば、色々な事情、事実が見えるので

別枠で書きます。

 

パウロは、イシュマエルは、肉の努力でアヴラハムが得たものであり、イサクは人間的な方法ではなく神がアヴラハムに告げた

約束を通して与えられた約束の子である。

イシュマエルの例で表される意味は、神の契約の中に加わる実態を肉の方法で得ると言うやり方を代表する事として、パウロは

話しています。

 

一方、イサクは神の主権により神の約束によって与えられる事を、アヴラハムとサラは神の約束に信頼しなければならなかった事とを比べているのです。

インフルエンサーの教えは、イシュマエル=自分の肉の努力で

神の国に加えられている事実を獲得する意味であり、異邦人は

神の前に忠実な神の家族の一員であるならば、イサクが神の約束により与えられた様に、神の約束、神の業に沿って神のされた業に信頼し、別の方法で神の前に認められていると言う事実を獲得しようなどと言う行為をするべからず、ズレていますと

パウロは話しています。

 

異邦人をイシュマエルに例える、インフルエンサーは

契約の民に加わるなら改宗儀式=ユダヤ人にならなければ

認められないと主張し、異邦人もイサクの様になりたくありませんか?と迫ってくる、でもその教えは神の教えでは無いのです。

 

続く