神の民が神の言葉の真実に目覚める時  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヘブル4:11の熱心にと言う意味は、たくさんの聖書箇所の

同じ意味と繋がるものです。

み言葉、父の教え、知恵、さとり、仰せ、おきてetc それらは

全てトラー=モーセの五書に書かれた内容を指して語っているのです。

 

申命記6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。

6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。

<唯一=エハッド=神の教えも時代ごと、人種ごとに2種類別のものは存在などしない!>

 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、

あなたの神、主を愛さなければならない。

6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、

6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。

6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、

6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

 

2コリント10:5、

神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、

 

コロサイ 3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。

そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

 3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、

地上のものに心を引かれてはならない。

 

ヤコブ1:22ー23

 そして、御言<トラー>を行う人になりなさい。

おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

<救われれた人は神のトラーを生きる必要はない!と言う教えは聖書とは全く違う教えであることは明白です。

その様な教えをする人は欺きの教え=聞くだけで良い、

生きる必要はないと言う教えここに書いてある忠告に値すべき

非聖書的教えです。使徒の書簡は100%全てトラー=モーセの五書を指して語っている事実だけがあるのです。>

おおよそ御言=トラー=モーセの五書を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。

 

神の言葉から離れるな!

箴言3:18 知恵は、これを捕える者には命の木である、

これをしっかり捕える人はさいわいである。

3:19 主は知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。

 

安息に入る、安息とは、神が止まられた第七日目のシャバットの安息の話をしているのです。

 

人は、神がされた通り、神が止まれたから第七日目に止まる。

神の教え、仰せを無視して人は働きバチのごとく永遠に追い

たてまくられて働き続け、虚しいレンガを積み上げる作業をし続け、まことの命を生きる事が分からないまま擦り切れて

行ってしまうのです。

 

神がデザインした通り人は生きる様に造られたのです。

神がこの世界の時、暦を創造されたのです。

人は神の暦を変更することなど出来ないのです。

人がたとえ神の教えや記念日を変えてもそれは神の前には、

神の創造したものとは異なる神の記念日=福音を表す意味の

ものではないものなのです。

 

神の意図通りの状態から飛び出した=エデン=喜び=安息状態シャバット、神が言われた通りに生きて、神が言われた通りの時を生き神が言われた通りの日、第七日目のシャバットで止まる事をやめてしまって、エデン=喜び=安息=神の内側の外側神との隔たりの中に入り込んでしまったのです。

 

だから、神の意図からずれたその状態から抜け出すには、

神の言う通り、神の教え神の言葉通りに生きる状態に軌道修正する以外に無いのです。

でもそれって異邦人の世界が語るほど、そんなに難しいことでも何でもないのです。子供でも理解して生きられる!

神の教えは至極シンプル!何もむずかしいものではない。

難しいと思うのは、神の言葉を書いてある意味通りに学ばず

いや聖書など最初から丁寧に読まず、理解していないから、

そう勘違いしている!それだけの事なのです。

いや大きな問題は、ヘブライ聖書を正しく解説する教師が

周りに居ないから=正しい導き手がなくてどうして真実を知ることが出来ましょう?と言う事が本当の難題問題なのです。

この歴史の中で起きた問題は別の記事に書いてみます。

どうしてパウロの様な教師を歴史の中で、1世紀後半から既に失ったのか、一目瞭然に理解出来る背景、出来事があったからです。

 

そして、神は人が生きられない厳しい律法を与えたと言う

まやかしの人間の教えを信じていては、神の言葉の真実など

見えないからです。

 

あれと同じだと思います。大人が子供にあのドアを開けると

お化けが出るからあのドアは決して開けてはいけないよ〜と

大人が嘘を言うのと同じです。嘘なのに本当だと子供は信じる。神の言葉が廃れたと言う教えは、この場合、神の言葉は

厳しい呪いの律法で人が生きられない教えをユダヤ人に与えて

見せしめしたと言う教えを作った人達がいるのです。

そしてそれを聞いた人達が本気でそれが神の教えであると

純粋に人の作った非聖書的教えを伝統的に継承して信じ込み続け、後世の人にも非聖書的な教えを語り続けて現在に至って

いるだけのことなのです。今の世の中見たら分かるはずです。

 

嘘が平気でメインストリームで意図的に語られて、その偽情報を信じる人たちは騙されて行く。危険な目に合わされていても全く気がつかない。全く眠った状態で真実に目覚めない。

何が起きているのか、分かっていない。この世界のカラクリを理解しない、自分で調べようともしないままだからです。

偽情報を放り込まれ鵜呑みにして信じて行くからです。

神の言葉に対しても同じ事が歴史の中で繰り返し行われて

進化論と同じく、非聖書的教えを根強く信じる人の中に非聖書的教えが堂々と座りこんでいる。それを覆すのは大変な努力がいるのです。非聖書的先入観とは本当に不要なものです。

目の前に書いてあっても書いてある通りに読み取れなく

なるからです。試しに永遠不変!神の言葉は完全!と書いてある言葉の意味をずっと考え続ければ、矛盾してはいないか?と

気がつくはずです。シャバットが日曜日に昇天以降変更されたと一体そんな記述聖書のどこに書いてありますか?

誤解して読み込みしている、非聖書的解説だけを聞いて

それが神の言葉や記念日が変更になった根拠であると信じているだけなのです。使徒たち、1世紀信者の聖書の記録に

トラーを否定した教えや、シャバットを日曜日に祝い、

クリスマス、イースターを祝い、過越や新月、仮庵を祝うことを中止したなど書かれておらず、シャバットや祭りを継続して

祝っている事実しか書かれていないのです。

 

でもすぐに別の声が囁きます。

”いや、神は呪いの縛りの律法から解放するために救い主を送られて恵の自由を与えた!”と言う非聖書的教えが頭脳を駆け巡るのです。

人はエデンから飛び出したので、神の意図通り、神の中=

神の教える通りを生きる事から飛び出ているから、努力して

熱心に、頭脳を切り替える=神の言葉で、今まで学習してきた

偽物を切り替える事をして、安息=止まる=無意味な努力、

偽の教えを生きる事をやめて、神の本物の安息=ぴったり

フィット状態の生き方に戻りなさいと書いていあるのです。

 

神の言われた通りに生きることを始めれば良いのです。

そして生きることで、神の教えを学習し、実際に自分のものとして所有して行くプロセスが成長と言うこの地上での道のりなのです。

 

神の言われる事とは違う事をして生きる事は、神のデザインした安息=ぴったりフィットする生き方とはずれる事です。

 

神の創造の代表、神が全てを用意してこの世界が稼働した事実

その事実は、シャバットで表されているのです。

 

シャバットを聖別した、聖別と言う言葉が聖書の中で最初に

使われたのは、神の創造された時=第七日目を指して使われているのです。この事実は永遠に変わらないのです。

神の創造された安息の状態を生きることに人が戻ること!

それが聖書の一貫して同じテーマなのです。

人は宗教の教えや、行事や、活動を生きるために召されたのではないのです。人が神に造られた人間本来の生き方に戻る!

至極シンプルな内容、事実に戻るだけなのです。

 

神の造られた世界は全てシャバットを中心に生きる様に造られています。

神が造られた全ての中で、神の創造されたデザイン、性質通りを人は生きる。そして神の創造された創造物を神の意図通りに治める。神の意図通り、デザイン通りにこの世界を治める。

これが神のオリジナルのデザイン、意図なのです。

最後はイエシュアが再び戻られた暁には、イエシュアが世界を

エルサレムから治め、全ての人は神のトラーを生きて、

シャバット 、過越、仮庵の祭りを全世界が祝うと預言されて

います。どうして今の時代だけ神の教えや記念日を生きる事、それが停止状態だと言うのでしょうか?

それはローマ帝国の教えに習った異邦人達が神の教えや

記念日を祝うことを中止してそれが伝統として異邦人の世界で

継承されているから!それが本当の事実です。

聖書を調べれば分かります。

宗教歴史、普通の歴史を調べても分かります。

神が神の教えや祭りをやめたのではない、人がやめた!

やめさせた!シンプルな事実なのです。

神が永遠不変と言っているのに、終わり!と言う教えは

神の語る言葉の真実を見ていない教えです。

私の羊は私の声を聞き分けるとは、神のトラー=モーセの五書

を本当に知って生きていた残りの民を指してイエシュアは

話している事実があるのです。

神の言葉を知らない異邦人には何が神の言葉、教えで何が人の作った教えか見分けがつかないから、神の言葉が終了したと

非聖書的な教えを本気で信じているのです。

 

人は、神の教え、シンプル極まりない全てを逆流し、人の教えに塗り替え、別の神々の教えを混ぜる、別の神々=悪霊に仕えながら生きる状態に陥ってしまったのです。

 

表向きには麗しい別の神々、でもそれらは全て悪霊です。

それに混ざってはダメ!と言われる意味は悪霊と言う言葉で

表す時にはっきり気がつくとことが出来ると思います。

悪霊と交わるとは、神のものでは無いものを混ぜる事でもあるのです。

イスラエルが陥った過ちは、神の教え=トラーを捨てて、神の中に生きる状態を失い、別方向へ外れて行った事なのです。

異邦人も全く同じなのです。イスラエルが代表として与えられた神の教えは同様に異邦人にも同じなのです。

アヴラハムに与えられた約束は、全世界の民族への同じ約束だからです。アヴラハムは元々異邦人なのです。

 

 

Shabbat Shalom