シャバット  神の創造された安息とは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創造を6日間で終えて、第七日目に神が創造を終えて感きわまる感動で表された言葉”トーヴ メオード”非常に良いと訳されていますが、この言葉は神の感情が深〜く込められている言葉です。
ご自身の創作された世界に対して大絶賛、自画自賛、神の意図通りがそっくりそのままぴったりに物理的に創造物として
地上に全て揃って現れ出て来た。
その事実に神が感動している様子を表している言葉です。
全ての創造物が揃った!シャローム状態になったからです。

それまでの6日の間、トーヴ=良いと言う言葉が神が創造されたものに対して使われていて、そしてその言葉もある創造の
部分が丸ごと1つずつ完成した状態が出現した後に
”トーヴ”良かったと書かれています。

最後に人が造られた状態〜トーヴメオード!非常に良い。
神の意図通りマックスに完成!!!完了!この神の創造物の中には欠けたものが無い。その中にはイエシュアの完了の業も
含まれている。それは永遠の中から在る!
だから、歴史の途中で神の救いや助けや恵みが小出しにされる
神の教えや言葉が変化すると言うデイスペンセーション神学の様な異邦人思想はヘブライ聖書の中には全く無い異物=異邦人異教徒思想の教えである事がオリジナルヘブライ言語に戻るとはっきり見えるのです。
神のヘブライ思想の思考と、異教徒思想の思考回路が
全く違うからです。

イスラエルの神像を捻じ曲げた思想や神学は、神がオリジナル
聖書で紹介するイスラエルの神像とは全く違うものです。
だからオリジナル聖書に何が本当は書かれているのか、確認することが必要なのです。翻訳と、人の思想で語られる聖書解説
では、神の言葉が伝えている真実が覆い隠されていて見えないからです。


神が全ての業を終えたと言う意味は、人が生きるのに必要な
全てが完了して出現したと言う意味です。
足りないものが
無い状態で完成したと言う意味です。

神の創造物には何も後から付け足すものが無い状態になった事を表しています。人の教えでは、神が後から教えを小出しに
後出ししたり、別の救済策を考え出したりと言う仮説を唱えていますが、
神の創造の初めにはっきりと全ての業を終えて止まられた事実で人の教えとは異なる、違う、シャローム=完全で完成形が存在していた事実が聖書にははっきりと書いてあるのです。

ヘブル4:11にこう書いてあります。

” したがって、わたしたちは、この安息にはいるように

努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の

悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。

 

ここで神が神の民に提供している安息は、創造の最初で神が

創造を終えて入られた”安息”=休みと同等のものである

事をパウロが話しているのです。

神が入られた安息とは、全ての業を完了して終わり止まった

事実に入っている事。人は神が提供した全ての中に留まり

生きる状態が本物の”安息”である事実が書かれています。

 

人の努力の付け足し不可能!!!人が神の完了した業を変えられない。その中には救いも贖いも全て必要なものが全て入って揃っている状態なのです。でも人の神学はアダムとエバと同じ疑い=完全ではない、足りない、何かを付け足さなくては

ならないと言う教えをし続けています。

だから、神が提供した事以外の教えを作り出して行くのです。

 

聖書に代表例として古代のイスラエルが”神の安息”に入る事に

失敗したのは、”頑なな心”=頑なな頭脳=神の語る言葉=

教えに対して、肉の目=善悪の知識の木の実から食べた状態を

脱却しないまま、同じ肉の人で考え生き続けたことである事が

書かれています。全ての問題の中心は、神の目から見る通りでは無い事を学習した事、知識の木の実、善悪の木から食べた事

人間が食べるべきでは無いアプローチ、食べ方をした事から

発生している事、神の言われた通りとは違う事をしたことから

来ている事を常に思い出して、神の言葉から意識がずれない様にする事が必要なのです。

 

神の言葉を否定し、退ける事=それこそが頑なな頭脳を生み出す一番大きな原因なのです。

エデンの園から今までずっと変わらない問題なのです。

神の言葉をどの言葉でも、一言でも人間が否定するならば、

預言書も諸書も信ぴょう性に全く値しないものとなって

しまうのです。

神の言葉を否定するならば、その瞬間にそれは聖書=

神の言葉では無くなってしまうからです。

神の言葉が人の教えが混ざった異物、宗教と変化する。

 

人の判断基準で神の言葉を判定する事が正しい事、恵の時代の

生き方だと勘違いしているからです。神がいつどこでどの様に

神の言葉は終了し、時代ごとに神の義の基準や契約内容が

変わり、神の記念日、シャバットや祭りの日にち、内容が

変更されたと神が言っていますか?

実際そんな事聖書の中のどこにも書いてないのです。

エデンの園の問題=神の言葉を否定する、薄める、

価値を下げ、別物の教えとすり替える事と全く同じ問題です。

 

ヘブル4:11に”努力して”と訳されている言葉は、

英語では”熱心に”と訳されていて、その裏にあるギリシャ語は

<σπουδάζω, spoudazō>急いでやる、真剣に熱心に

真面目に誠実にやる、一生懸命やるなどの意味がある

ギリシャ語です。

 

古代イスラエルは、楽な方法を取ろうと決めて、過酷な戦いを避けようとし、それゆえに正当に彼らのものである”安息”を

剥奪されていたのです。

 

ヘブル書の著者は、このコミュニテイの中でも古代イスラエルと同じ無関心、恐れ、疲労、そしてイエシュアが彼の民のために既に獲得している勝利を見失わせる考え方、同じ罠にかかることを恐れて書いています。

 

緩やかに甘んじる事なく、信仰のチャレンジ精神を持って

意識的に努力して”安息”の真実を保持し続ける事を

忠告しています。

 

安息に入ると言う言葉が表す意味、実態を聖書から見るときに

どう言う事を話しているのか理解しなければ、何に一生懸命に

ならないとならないのか?を話しているのが見えなくなります。

 

全ては、”エデンの園”創世記の最初の三章に繋がっています。

聖書の全ては、創世記3章に書かれたテーマを解説している

からです。

神が世界の全てを創造し、物理的な世界を創造物通して

この世界に生み出されて、そして神の意図通りそのものが

現れ出て神はその全てが揃った時に”トーヴ メオード”と

言われました。非常に良い。

神の意図通りでの最大限が現れ出たと言う意味の言葉です。

 

エデンの園は神ご自身の中に造られたのです。

人は神の中に生きる、神の創造されたものの中で生きる、

神の創造されたデザイン通りに沿って生きる、それがトーヴ

神の意図通りの状態であるとヘブライ語では書かれているのが

見えるのです。

 

でもどうなりましたか?エデンの園で神に口頭で教えられた

神の言葉=トラー=教え、インストラクションを人が破り

無視しました。

神の言われたことでは無いことをしたらどうなりましたか?

 

神が人を造られてエデンの園の中に置かれた時、このヘブル4:11で書かれている安息と同じ意味の言葉で表現されて

いる”ぴったりフィット、心地良い状態” 神が人をぴったり

フィッツとする場所に置かれた、その状態から人は神の言葉を

無視して違う事をした途端飛び出してしまったのです。

 

神の内側の外側に飛び出して、神との隔たりの中に入って

しまった。その状態は、”安息”では無い状態です。

 

人が神の言葉=教え=神が造られた人間のデザインから外れて

生きる事は、すなわち安息から飛び出して生きている状態です。この世の様々な代替えで、それに気が付かなくても、

人は神に造られた本来のデザインから外れたらもれなく安息を

失う状態になるのです。

 

神の声=言葉=教えとは別物の教えを聞き続け、頭の中で

温め続け、咀嚼し続け、それが自分の体の一部になり、

神が教えることとは違う事を脳回路にインプットし続けて行くこれがエデン=喜び=神の中から外側に出て生きている状態

なのです。

 

神の言葉=教えのどの箇所でも捨てよと言う教えを食べ続けるなら、自分の命、安全を保護する鎧兜=神の言葉というシールド、

盾、防御服を脱ぎ捨てて生きる状態になっているのです。

 

続く