ガラテヤ4:2 太古も現在もユダヤ人も異邦人も救い贖いの内容条件は同じ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ4:1 わたしの言う意味は、こうである。

相続人子供である間は、全財産の持ち主でありながら、

となんの差別もなく、

 

ここでパウロは3章から語っているパウロの論点をフルに

明らかにして語っています。

異邦人信者もユダヤ人同様、純粋にアブラハムに与えられた契約の相続人であり、その様に相続人として神の祝福とそして

契約の中にある者としての責任を負いながら同じ契約に参加している事を話しています。

その事を説明するために、ローマの法律を例になぞらえて

話しています。

相続人=ユダヤ人、 僕=異邦人。

契約の相続人=ユダヤ人=全財産を受ける代表であるのに

僕と同じ=その条件は、相続人も父が認可するまで、

相続を受ける状態にない。詰まり全ての人は人種にかかわらず

上から生まれる=イエシュアに繋がる事がない限り、

肉的生まれで自動的に相続人として父から認められている訳ではない事を話しているのです。

 

ユダヤ人に比べて異邦人は格下げされた神の民ではなく、

共に約束の相続をフルに受け継いだ神の同等の民であると

パウロははっきりさせているのです。

 

これは”肉の生まれ”によって自動的に神の国の相続人になるのではないからです。アブラハムの相続人は、”信仰”により参加する

人が相続人になると言う大前提条件があるからです。

神により選ばれたアブラハムの肉的子孫と選ばれたユダヤ人と

又はアダプト=同じ家族に子として加えられた異邦人、

神の絶対的主権により全世界の国民の中から選び出された国民=ユダヤ人と同様に神の子らとされた異邦人、どちらも神の前に

共に同等の神の子らであるのです。

 

全ての優れた教師の様に、パウロは読者に類似点、共通点を

ローマの法律の例を通して示しているのです。

パウロはガラテヤに住む”ヘレニズム思想文化”の読者に

馴染みのある類似比較で話しているのです。

 

ここで思い出す必要がある点があります。

パウロが何をずっと話しているのか、その論点を忘れては

ならないのです。

ガラテヤ人の中に蔓延していた別の福音とは何でしたか?

パウロは、神が伝えてもいない教え、救いを得る条件、

特にガラテヤで蔓延していた問題の教え=別の福音とは、

異邦人=セカンドクラス=2等クラスの人種は、神の国の一員に加えられるために、ユダヤ人となるための改宗儀式をしなくてはなりませんと言う、それが別の福音の教えであった事を絶対に

忘れないでパウロが書いている内容を読み続けて下さい。

”律法の行い”とパウロが書いている意味は、当時のユダヤ教の派

の中にそれぞれが持っていた独自の彼らの解釈で編み出した

たくさんの決まりごと、教え=口頭トラーと呼ばれるもの

モーセの五書の事ではない事実を知らないとならないのです。

人間が編み出した複雑で厳しい教えに沿った生き方を日々しなくてはならない、それがイエシュアも言われた通り”伝統の教え=負えないくびき”と言われているものなのです。神の言葉は負えないくびきなどである訳がなく、”わたしのくびきは負い易い”と

イエシュアが言われたのは申命記30にある通り、

”それは難しいものでは無い”と書いてある意味なのです。

 

申命記30:10 これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、このトラーの書にしるされた戒めと定めとを守り、

心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。

30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、

むずかしいものではなく、また遠いものでもない。

30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、

われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『

だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれの

ところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。

 30:14 この言葉=神の教え=トラーはあなたに、はなはだ近く

<只中=腹の中,DNA=あなたの性質そのもの>にあってあなたの口にあり、またあなたの心=頭脳にあるから、

あなたはこれを行うことができる。

 

神学の教えは、神は人が生きる事の出来ない=負うことが出来ない教えを最初に与えたと解説していますが、神の言葉に対する

トンデモない誤解を持った人達が作った教えなのです。

神がそんな事する?怒りの神だから?全く別宗教の教えです。

神は愛の神であり、永遠から永遠に変わりなく、許し、助け、

憐れみ、救い、祝福に富と最初から伝えているではないですか?

どうして、神の言葉を曲げて人の肉の目から見た思想を信じるのか聖書だけに戻らない限り、空想で考えるイスラエルの偽の神像を信じ続けて世界に2000年近く異邦人は語り続けてしまって

いるのです。トラーを知るユダヤ人はそんな発想などしない、

神は愛の神で不変であり、神の言葉=教えは蜜の様に人の全存在に甘くと神が説明している通りを理解しているのです。

 

契約の民=同じ神の家族と加えられた人は、同じ神の婚姻契約=神の教え、インストラクション、モーセの五書に書かれたものを生きるのは、イエシュアに繋がれた人の当然の生き方である

その事実から目を逸らせたら、パウロが語る内容を誤解します。

パウロは救われた後はモーセの五書に書かれた神の教えを生きる

事が別の福音などと語る訳がない事実をまず知って下さい。

人の教えで語られるイエシュアに出会った後は、神の言葉=

教え、インストラクション=古い聖書の箇所は無効だから捨てて生きよと言う様な教えは聖書の教えでも、パウロの語っている事でもないのです。

 

神の国の一員になる条件はただ一つ、ユダヤ人も異邦人も同じ

条件です。肉的生まれでは無い。イエシュアにより贖われた事実を内側に気がつき、神が一方的にされた業=用意してくださった保証=義とされている事実を信仰により受け取る!それだけ。

そして義とされ新しくされた人は、神の教え=神が造られた本来の人間=第二のアダム=イエシュアが示された通り、トラー=

神の性質そのものを生きる!至極シンプルな事実なのです。

 

救われた事実を受け取ることは信仰により神の業を受け取る

事だけです。そして救いを得る事は、行いで獲得するのではない、でも救われた人=神の家にめとられてユダヤ人も異邦人も同じ家族の一員として生きるには必要不可欠条件があるのです。

 

それに参加したくない!その場合もありです。その場合は、

疎遠な関係=神の臨在、自分の実態から遠く離れた状態を生きる

事を選択する事なのです。

救われる条件と、救われた後の生き方は別の事を話していると

言う識別、区別して理解しなくてはならないのです。

 

救われた人はその後一体どんな事実を生きると神は教えていますか?福音書〜黙示録に書かれた事を生きる?それであれば、

それらは100%トラー、預言書の短い解説なのです。

神の教え、インストラクション=契約の民の姿を生きる詳細は

福音書以降には細かく書き記されていません。

なぜなら、トラー預言書を知っている前提で全て話しており、

トラーには全てが書かれており、モーセの五書以降の聖書は

全てトラーの解説だからです。書いてあるものを全部重複して

書いてない、トラー、預言書、諸書の抜粋だけが書かれているのが福音書以降です。

 

ある一部だけ取る話し方、冒頭を言ってその箇所の内容を全て

理解している前提で話しているからです。1曲の歌の最初の

1、2小節を奏でれば、その曲丸ごとを思い出す事が出来る前提でイエシュアやパウロは話しているからです。

”ラメズ”と言う話し方なのです。

日本人で言えば、”かちかち山”と言うタイトルを言えば、

その話の中身、登場人物、ストーリー全ての流れ話の結末が思い出せるそれを理解している人たちに対して話しているからです。

 

福音書〜黙示録だけを読んでみても、神の家族が神の意図通り

生きる姿の片鱗は見えても全貌は見えないのです。

大きなマスクで顔の半分以上を覆えば、その人の本当の顔や

表情が見えないのと同じです。聖書の最初の70%を捨てたら

神の語る真実は見えてきません。

霊に導かれる?神の教え=トラーを知らないなら、照らし合わせる基準を持っていないことになり、自分の感や別の霊に導かれたら、神から出たものなのかそれとも自分で勝手に考えているのか判断基準が曖昧なので照らし合わせる神のトラー=教えが抜けていれば、区別、見分け、識別する事が出来なくなります。

ここで再びパウロが語っている内容に戻ります。

 

前章の3章でもユダヤ人と異邦人信者の比較をしています。

3章 - ペデゴーゴ<養育係>

息子がペデゴーゴのお世話のもと、無事に教師へとたどり着く

4章 息子は相続を表明するまで保護者  管理人の元に安全に

保護される。

 

3章 トラーがペデゴーゴの役割をしている。

4章 トラーが保護者、管理人の役割をしている

 

3章  信仰の現れるまで=個人的にイエシュアに出会い信仰を持つまで、ペデゴーゴがその仕事の役割=神に出会う役割を

果たしている。

4章 イエシュアが地上に来られた事で選ばれた子らが

相続人として確証されている。

 

3章 訓練された生徒<卒業した>は、ペデゴーゴにより

教師の元に連れていかれる必要がなくなった。

4章 息子は、契約を引き継ぐ子となってその事実を

受け入れた。

 

3章 訓練された<卒業した>生徒は新しい立場=約束による

相続人としての特権と責任の立場を与えられる。

4章  息子は奴隷としての法的立場ではなく、

真実な相続人としての全ての特権と責任を楽しむ事が出来る。

 

パウロが話している内容は、ガラテヤの人達が理解出来る事を

通して説明しています。

当時のローマの法律にのっとれば、家族の長である者が

家族のメンバーに対してそして全ての財産についての権限と権威を持っている事になぞらえて話しています。

 

多くのクリスチャンのコメンテーターは、トラー=モーセの五書は神の選びの民に取って、神の永遠の義の基準である事が

神の言葉ではっきり伝えられている事実を見逃しているのです。

しかも福音書〜黙示録には別の教えが書かれていると完全に誤解しているのです。福音書以降の全ては100%トラーを指してしか語っていない事実を知る必要があるのです。それにはトラーを知らなければ理解出来ない、いつもこのループに戻るのです。

 

 

続く