キリストに出会った後は、神の教え=古い箇所=モーセの五書=
は無用と言う教えは一体誰が決めた事なのでしょう?
神がそう言ったのでしょうか?神はそんな事一度も言った事が
ない、そんなこと聖書のどこにも書いてありません。
しかも、福音書〜黙示録は、使徒が書いたトラー預言書、諸書に
関する短いコメンタリーに過ぎないのです。
だから聖書全体の30%しか占めていないのです。
福音書〜黙示録は、契約書=新しい契約書ではないのです。
契約書のスタイルでも書かれていない、別の教えも書かれていない、使徒たちが書いたトラー、預言書に書かれた肉体を取って
来られたイエシュアの記録と、トラーが世界へ運ばれて行く
記録、そして諸外国の群れに送ったトラーの適用例を書いた
パウロの書簡と、最後はエデンに戻る黙示録=外典なのです。
新しい別種の契約が出現したと勘違いするのは、意味不明な
そのタイトル=人が作ったタイトル=旧約聖書、新約聖書と言う神が言ってもないタイトルを聖書の中に挿入してしまっているから、2つ別物の教えなのだとそう考えているだけなのです。
古い箇所は全部無用とは言わないまでも、古い=質が悪い、
時代遅れ、今は要らないと言う意識を持たせる言葉です。
そしてモーセの五書に対してアンチ=否定的、ネガテイブ思想を
教えられ続けて来たので、神の言葉に対するネガテイブな思想を多くの人は根強く持っているのです。
私もそう教えられてそれが聖書の教えだと疑いなく信じ続けて
来ました。
詩篇や、箴言を読んでもそれが100%トラーの中に書かれている
知恵の生き方を語っているなどとも考えもつかないかったのです。詩篇や箴言は律法と考えていますか?
もしトラーが律法なら、同等に詩篇も箴言も預言書も全て律法で
今は無効という事になるのです。人間の作った教えに基づけば。
なぜなら、詩篇も箴言も100%トラーの中に書かれている
知恵、生活の中で実際にトラーを生きる知恵が書かれているからです。詩篇と箴言の著者の教科書はモーセの五書のみなのです。
霊に導かれるから神の言葉は要らないと言う教えがありますが、霊に導かれるとは一体どう言う事でしょう?
神の言葉と霊とは一体なのです。もし神の言葉を捨てればそれは
部分的にしか神の語る内容が見えなくなると言う事なのです。
今多くの人はマスクをしていますね。マスクをしていると
その人の顔や表情など分からないのです。それと全く同じです。
神の言葉、神がご自身を伝え表している70%を覆い隠せば、
神の語る真相は見えなくなります。
霊に導かれるから神の言葉や教えは不要と言うなら、それは
何の霊に導かれているのか、自分の感やインスピレーションなのか、全く区別が付かなくなって行きます。
この世と同じ生き方に染まって行きます。
内なる確信とか、ひらめきとか、そう言う事は必ずあります。
誰にでもある事です。
人の内側に神のトラーが書かれているからです。
でも、霊に導かれるから神の言葉など読む必要がないと教えて
いる、その大元の思想は、マルキオンの様な聖書はパウロの書簡
少し読む程度で事足りると唱えた2世紀最初の異端者の教えから
発展して現代に至るのです。
霊に導かれれば神の言葉を知る、学ぶ必要がないと言う教えは
霊に導かれれば何でも分かるから、何も学ばなくて良いと
考えるのと同じ大変非常識な教えです。人は神から教えられた事神の言葉を学び続け、神の言葉で教えらている内容を繰り返し
繰り返し生きて学習する様に神がデザインされているのです。
どの分野でも達人、熟練者、その道の成人は、その分野を
たゆまず学び続け追求しそして学習した事を生涯繰り返し練習を
続けるのです。普通に考えれば分かる事です。
霊に導かれるから、地図がなくても知らない場所を正確に歩けると考えますか?物差しなくても正確に長さを測れると考えるのと同じです。制限速度表示を路上に確認しなくても、霊が教えて
くれるから、ここの道路はこの速度で走るのだと感で分かるなどと考えるのでしょうか。全く変な思想です。
ヘブライ聖書を学ばなくても、いきなり読んで聖霊に導かれ
ヘブライ言語で書かれた言葉の意味を理解出来るとでも言うの
でしょうか?知らない外国語をその場でいきなりマスターする?
そんな訳ないのです。非常識な教えが常識になってしまう、
宗教の教えの発想とは、神の真実から遠くに逸脱してしまう、
異教の神々の世界の信仰と同じになってしまいます。
神は人に言葉と言う伝達方法を与えているのです。
頭脳を与えているのです。神は人の体をそう造られたのです。
世界の全ては神の言葉で出来ている事実を考え続ける。
言葉=神=全ての源、命が現れる実態です。
神の言葉を寝ても覚めてもずっと考え続け思い巡らし、
神の言葉=鏡に照らし合わせて生きよ!と教えています。
鏡の前=神の言葉の前を離れる人は、自分が誰かをすぐ忘れる
神の子らの生き方を忘れ注意散漫で生きると言っています。
パウロのために弁明したいと思います。パウロは神の使徒なのです。神の使徒はモーセの五書を否定したり、神の言葉=教えを
塗り替える様な真似などしない、別の教えなど決して出来ない、いや、しない人が使徒として選ばれているのです。
神の使徒が神の言葉を塗り替え否定するならば、それは神の使徒ではなくなるのです。別の霊から出たものになります。
パウロの書簡を読んで、パウロが別の教えを編み出していると
誤解している箇所は、全部読み手の側の問題なのです。
読者がパウロの書いている内容を完全に誤解して解説している
だけの事なのです。特に異邦人の読者はパウロの書簡をモーセの
五書を否定した教えである信じているのでそう読みます。
不適切な翻訳や非聖書的な神学の色眼鏡を通してパウロの書いている意味を完全に曲解しているからです。
パウロは100%トラーを支持して生きているとパウロ自身の口から宣言している事実だけに基づいて、パウロの書簡を
読み直さないとならないのです。
ガラテヤ 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある
信仰によって、神の子なのである。
<神の子とされた。イスラエルと全く同じ、イエシュアに
接ぎ木された、イスラエルと同じ羊の囲いに加えられた。
その人達は、契約を生きる民として生きる生き方に加えらた。
神の婚姻契約=神の家の一員として生きる事を無視する場合は
神から遠く離れた場所に自分を追いやることをしてしまうのです。神の子ら=神の国の一員は契約の命を生きる事を神から
伝えられているからです。神の子らの特徴的な生き方がトラーには書かれているのに、それを捨てて異教の神々の教えや文化、
生活習慣や神に繋がれている印である神の記念日を捨てて、
別の記念日を祝うなら、それは神の子らの聖別された特徴的な
生き方を全く表さないものになるのです。>
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、
皆キリストを着たのである。
バプテスマ=イエシュアと一体とされ、イエシュアと共に死に、
そしてイエシュアと共に蘇り、新しい命を与えられた事実を
パプテスマと表現しています。
この内容は別の記事に書くことにします。
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、
奴隷も自由人もなく、男も女もない。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
19世紀に編み出されたダービーの教え、デイスペンセーション神学とは全く異なる事、パウロは神の言葉だけに基づいた事を
信じ生きて、そして教えています。
デイスペンセーション神学は19世紀になるまで形として
現れていない教えです。その教えの根は1世紀後半、
マルキオンの様な神の言葉を軽く取り扱う思想から来ています。
神の言葉を否定する、軽く取り扱う、価値下げする、別の教えで薄める、その様な教えは純粋な神の言葉=聖書ですか?
完全に違います。
置換神学の思想も、聖書では無いです。人間の思想、神の言葉に対する異邦人発想の聖書観を語っているだけです。神の永遠不変の言葉とは全く無関係、神の言葉とはずれた思想哲学なのです。
神が言う通り1つの家族=1つ体=一体とパウロがトラーに
基づき言い続けている通り、ユダヤ人もギリシャ=異邦人も無く職業や身分の差別なく、性別も関係ない。
イエシュアに繋がる人は全てキリストに繋がり1つだからと
あります。聖書の記述、神の語る1体として造られた人間の性質を、別物にして発想するギリシャ ローマ=ヘレニズム思想の
西洋神学。聖書だけを土台にして考えると、人の教えが神の教えとマッチしていない事実をはっきりと認める事が出来ます。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
アブラハムの子孫、約束の相続人=信仰により義とされている
その事実は永遠に変わらない、同じ神の同じ約束を相続していると書いてあります。ユダヤ人、異邦人2種類別の教えは相続していないのです。そして1つ家族とされた人は、同じ家に住まい
同じ家=エルサレムの神殿で天にある神の国の家を表しているもの、同じ家に住まう家族は神の同じ教えを生きること、
同じ神のオリジナルの記念日を生きることを、地上の神殿の中で
教えているのです。
続く