神が創造された聖書に記されている週一度の神の記念日 シャバットは第七日目だけである事実 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日週の第七日目、神が創造されたオリジナルの記念日、

シャバットを世界中で祝っています。主にユダヤ人、そして

異邦人の中にもシャバットの意味に気がついて祝う人達がいます。そして、世界中で同じ聖書の箇所を朗読し学んでいるのです。イエシュアが会堂に入りイザヤ書を読む記述がありますが

週で決められた箇所を読んだのです。

創世記から満遍なく全てを読み、学び続ける世界がユダヤ人の中には継承されています。

 

週一度の神の記念日は第七日目の今日なのです。神の言葉と

神の言葉で語られる神の記念日=モアデイム<神の記念日>を

司るために造られた天体も昇天以降変化していない、神の言葉も神の記念日も永遠に変化しないと神の口から語られた言葉が

聖書には書いてあるのです。それが神の言葉の永遠の事実です。

 

金曜日の日没は、世界中の家庭で、シャバットの祝宴がされて

それはそれは楽しいひと時なのです。シャバットを迎える。

神が造られた祝宴日を神と人と共に喜び祝う。

イスラエルに居ると、金曜日には、シャバットを迎える雰囲気が日中から町中に溢れます。主の日、記念日を迎えるシャバットが来る!と言う現実を体感します。とても良い雰囲気です。

金曜日はお休みの人も多く、用事を済ませたり、シャバットを

祝うため買い物をして3時には、スーパーなども閉まるのです。

 

週の他の日は準備しなくて来ます。シャバットは週の中、

シャバットを待ち望み、6日の間で様々な仕事用事をし、

シャバットへ向けて準備する、それが神が創造された人間の生き方である事が聖書には書かれているのです。それを人が認めようとも認めざるとも、神が創造された人間のデザインは週の第一日目から6日目まで働いて、第七日目に止まる!これが人間の生き方ですと書かれているのです。神が同じ様に、第一日目から

第六日目まで創造の業をされ、七日目に止まったのです。

WWJD 神がされた通りを人も生きて、神と共に週の最後の日を

祝う様に神が神のオリジナル記念日を造られた事が聖書には

書かれています。そしてシャバット=第七日目を聖なる日と神が

指定し、人もその日を神の聖なる日として生きる様に

伝えたのです。

 

ヘブライの世界=聖書の世界は、全て”行動”生きる世界です。

シャバットを覚えて聖なる日とせよとあるのは、思い出して

それで終わり!ではなく、実際に神が言われた通りにその日を

生きる事=それが覚えると言うヘブライ語の意味なのです。

聖書の世界は思想、哲学の世界ではなく実際に全て”生きる”

世界が語られているのです。人が指定した日ではなく、

神が指定した聖別された日を実際に神が言われた通りを

生きるのがイスラエルの神の子らの本来の姿なのです。

 

聖書に書いてある神のオリジナル創造の本物の記念日は聖書に

書いてある通りのものであり、神のオリジナル記念日の全ては

レビ記23章に書かれているものです。

福音書〜黙示録の中にも同じレビ記23章の神の記念日しか

かかれておらず、1世紀の使徒、パウロ、イエシュア 信者、

ユダヤ人達は全て同じレビ記23章に書かれた記念日を祝って

いたと言うのが聖書の事実なのです。嘘でしょう?と考えるならぜひ聖書だけからその答えを見つける事をお勧めいたします。

人が作ったローマ帝国の日を祝っていた人達は聖書の中には

書かれていません。

それはずっとずっと後になってから、1世紀後半からユダヤ人とは一線を引き、決裂し、ヘブライ色ある全てと決別した異邦人たちが編み出して行った教えです。それが4世紀にはローマ帝国で時の新宗教=ヘブライの書=トラーを捨てた教え=独自の新しい教えの宗教が出来た後の話です。1世紀当時、パウロがいた時代とは違う教えを編み出し、異邦人がユダヤ人から離れて独自の

教えと方向に進んで行った結果の伝統で引き継がれた教え、

記念日を神が昇天以降変えたのだと完全に誤解しているだけなのです。聖書だけに戻り確認すれば、事実が見えて来ます。

 

現在日曜礼拝を祝うのは、日曜日が昇天された日だからその日を記念していると解説しますが、昇天されたのがいつの日であるかは定かではないし、たとえ昇天された日が日曜日=土曜日の日没であってもシャバットは日曜日に変更などされていないのです。

神は昇天を記念して、昇天以降はシャバットを第一日目に祝いなさいといつ言ったのかそんな事聖書に書かれていますか?

使徒2章で祝っていたのは、シャバットを祝い続ける事と繋がる”シャヴオート”=ペンテコステ=神の婚姻契約書=トラーを

受け取った事を記念し祝う祭りなのです。

 

神が語る事実だけに立たないと、人はどこまでも勝手な解説や

教え編み出し続けて行くのです。どこからどこまでが聖書の事実か人が編み出した伝統の教えや記念日なのか聖書に戻らない限り

見分けなど付かない事になるのです。

 

神の言葉は永遠と言われ、神の言葉は神に著作権があるのです。

そして人間が勝手に神の言葉のどの部分にも手を付けてはなら

ないと神が言われた事を全く無視しているだけなのです。

自分がどう感じるか、自分がどう神を崇め礼拝したいかなど

全く神には関係ない事なのです。

神ご自身が、神への近づき方=礼拝、記念日を人に伝えているのです。神が言われた通りに、神が言われた日に聖なる集会をして神の前に神の子らは出て来なさい、世界へ神の記念日を通して、イスラエルの神の性質を伝えてと聖書には書かれているのです。

 

聖書の事実を曲げ続けて行けば、神の言葉の真実は覆い隠されて

本物の羊飼いと偽物の羊飼いの声の聞き分けが出来ないままに

なってしまいます。

 

聖書に書いてある神の創造された週一度の記念日は、第六日目が

終わる金曜日の日没から、第七日目土曜日の日没までなのです。

聖書からだけ事実を掴まない限り、人が変えた教え=伝統の教えが聖書=神の言葉だと信じてしまっているのです。

それは、聖書=神の言葉を最初から曲げている存在があるからです。エデンの園にいたあの神に敵対するものは、今も健在で

同じ手口を使っています。人が神の言葉に注意を向けないように、事実に気がつかせない様にうまくやっていますが、神の言葉の事実だけに戻る場合は、何が神の言葉か、何が神の言葉を薄めて変えた教えなのかはっきり見分けが出来るのです。

 

神の記念日、シャバットをユダヤ人達は”オラム ハバ”と言います。来たるべき世界=The World to come.

シャバットは神の中に住まう=住まう様に造られた事実に

全てが戻る事を表しているものでもあるのです。

それを実際に地上でずっと繰り返しリハーサルし続けています。

今を生きる!シャバットの性質=神の与えた本来の安息=

ナファーシュ状態=神の言葉の中に留まり生きる事をずっと

する。週の他の6日間も、神のナファーシュに留まり生きる事を続けて行く。

 

神ご自身が第七日目のシャバットを司さどっているのです。

神がシャバットの創造者であり招待者なのです。

 

シャバットは神と共に祝う神が創造された記念日なのです。

神ご自身が最初のシャバットを開始し、人にシャバットを祝い

生きる様に教えたのです。

シャバット=神の中に安息して生きる秘訣!神の言われた通りを

信じて行動し生きる事です。

第6日目に神が全ての業を終えて止まられた、その止まった事を

止まると言う事で神と人、創造物全てが神の前でシャバットを

初めて祝ったのです。

 

聖書には最初の数行で全ての詳細は語られていません。

しかし創世記の最初の3章の中に、全てが凝縮されて書かれています。神が全てを創造され、そして人は神の造られた通りを

神から聞いて生きる様に造られていた。でも人は神の言葉とは

違うものに耳を傾けエデン=喜び=ナファーシュ=神の中にある状態から飛びだ出てしまった。そして神は元に戻る秘訣をちゃんと教えているのです。イエシュアが最初から語られている。

人は神の言われた通りを聞いて生きる様に造られたのに、

神の言葉を薄めて別の教えに耳を傾けたら本来の状態からずれて

エデン=神の内側から外へ飛び出してしまった。

 

エデン=神ご自身の中に人は住まう様に造られているのです。

人は神が言われた通り=神の口から出る1つ1つの言葉=教えに

より生きる様に造られているのです。

これが安息の秘訣である事が聖書全体で書かれているのです。

神が提示する事以外の状態に飛び出せば、人は神が創造した

安息=ナファーシュから飛び出してしまいます。

 

神の言葉ではない声を聞いたら途端不安になるのでも

分かると思います。

ヘブル4章にある”安息”とは、”ノア”の語源でもある

ナファーシュと言う言葉が使われています。

 

エデンの園に神が人を最初に置かれた時に使われている言葉と

同じです。人が神の中に造られて、神の中に生きている状態が、

本物の安息状態である、それが人間の生きている本来の状態で

あることはヘブライ語ではそのまま伝わって来ます。

 

創世記2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。

 

וַיַּנִּחֵ֣הוּ そして神が置かれたと言う本来の意味は翻訳では
見えないものです。ノア=ヌアフ置くと言う言葉は、
ヌアフの語源と同じです。
この言葉で、お母さんが大事な子供をそ〜とベッドに置く、
寝る前にまだ落ち着かずにバタバタ暴れている子供を優しく
静める、和らげる、トントンと背中を撫でて寝かしつける様な
そんな優しさ溢れる慈愛に満ちた動作の言葉で表現されています。
置くと言う翻訳の言葉だと全くその意味合いが現れ出て来ませんが、大事に大事に神はノアを最大限素晴らしい場所=エデン=喜び=ご自身の中に置かれた様子がヘブライ語では
伝わってくるのです。

安息と書かれている言葉は、人が神の中にぴったり意図通り
エデン=喜びの中に住まう状態に留まる事を表している言葉です。


シャバットは永遠から永遠に変わらず第七日目です。
この日、神と人とがこの永遠の安息に入って関係を持つ、
神のデザインした通り人が心地良く生きるその元の状態に
戻っている事実を確認し、祝い、神と人と共に喜び=エデンの
中に戻る事なのです。

昨日も友人達と素晴らしいシャバットの晩餐の楽しいひと時を
過ごしました。神は見えないけれど神が言う通りを生きる中に
必ず現れ出てくださり、教えて下さいます。
シャバットの中心は主です。全てイエシュアに私たちは意識を引き寄せられて行く様に神がデザインされているのが神の記念日なのです。神の記念日は喜び、楽しみ、五感を通して体感する楽しみ、そして子供達にとっても大変楽しいもの、体験になるものなのです。
 

 

 

続く