ガラテヤ3:21〜 パウロの書簡を正しく読み直す 書いてある意味通りを知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ 3:21 

では、ノモス=トラーは神の約束と相いれないものか。

断じてそうではない。もし人を生かす力のあるノモス=トラーが与えられていたとすれば、義はたしかにノモス=トラーによって実現されたであろう。

 

<パウロは21節でパウロの主張するポイントをクリアーに

述べています。パウロのトラーに対しての教えは、トラーと

約束=アブラハムに与えられた義は、両方相反する奇妙なもの

として受け取るものではないと言っているのです。

アヴラハムに与えられた契約は、モーセの契約と一貫しており

シナイ山での婚姻契約はアヴラハムの契約を包括、統合しているものでもあるのです。>

 

次の箇所は多大の誤解されて解説されているものです。

 

まず、人間の一般の常識で考えてみても分かります。

モーセの五書=律法が消えた!廃れた!罪の下に居ない!??

まるで緊急事態宣言が解除され解放された気分と同じですね。

罪の下に居ないとは、新しくされた人は罪の奴隷の法則の下で

生きる事から解放され、神の自由=義とされた人を生きる選択をし、罪に縛られない生き方が出来ると言う意味です。

 

罪の詳細はどこで分かりますか?罪の定義はどこに書いてありますか?モーセの五書に詳細が書いてあるのです。福音書〜黙示録には詳細は書かれておらずトラーの抜粋しか書かれていません。

トラーは神の国の憲法であり、法律の全てが書かれており、

裁判に関しても書かれているのです。人が生きるに必要な神の

インストラクション、教えの全てが書かれているのが

モーセの五書なのです。

 

神の教え=トラーを捨てたら、モーセの五書は今は関係ありませんと言うなら、それはまことの無法地帯を生きる世界が与えられたと言う事になります。

日本でもし罪に問われないために、全ての憲法や刑法を金輪際

破棄しよう!と言うなら一体どう言う事が起こると思いますか?

何してもいいのさ、何の罪にも問われない、今は恵の時代だから

トラー=神の教えは要らない!!自分の思う通りになんでもして

霊に導かれて生きよう!何をしても罪に問われない!

それこそ犯罪大国になるでしょう。

 

そんなのは非常識、異常な考えだと理解出来るなら、どうして

神の国=神の子らの生き方全てが書いてあるトラー=婚姻契約の中に生きる詳細の70%を捨てて良い恵の時代になったのだ

などと言う人間が考え出した非聖書的な教えが聖書であるとなどと考えるのでしょうか?

永遠不変の神の言葉を否定する行為、神がするなかれと言うことに逆らう事こそが異常行為なのです。

 

神の言葉は全て揃って100%シャロームで完全なのです。

一点一画も付け足し、差し引きしてはならない!と言われた

イエシュアも言われた神の警告をどうして無視し続けた教えを

唱え続けるのでしょう?と考えないとならないのです。

 

神の言葉は神に著作権があるのです。人間の都合で、あれ要ら

ない、これ不要、今は関係ないなどと判定の出来るものではない、どれも全て繋がり編み込まれて1つの神の言葉なのです。

人間の体の70%の臓器を取り出し、ほんのすこしの機能で正常に生きよと言うのと全く同じことをクリスチャンの世界では主張し続けているのです。しかもモーセの五書は体で言えば、頭脳を司る機能をするものなのです。司令塔。聖書の全ての土台

辞書はトラー=モーセの五書であり、預言書〜黙示録は全て

トラーを指して語っているのです。

 

神の言葉が何であるのか、神の言葉を捨てたら真面目に真剣に

神の言われることなど追求する意欲など無くなる、学ぶ必要など無いと思ってその通りにして来てしまったのです。その代わりに不思議、体験、霊体験、奇跡、預言そんなことばかり教えられてしまう。異教の神々の宗教と何ら変わりない、聖別も捨て、

なんでも取り入れる境界線の無い教え。1世紀当時のトラーを

100%支持し生きている信仰とは遠く遠く離れた別世界。

 

神のトラーを捨てると言うことは、犯罪者があなたの隣人に居て

あなたはいつも脅かされて生きても良いですよと言っているのと同じ事になるのです。そこまで酷くなくても、今や神のデザインが破壊され、自分が誰か分からない世界になり、今は性別無用

神の聖別もモラルもガタガタに崩れてしまったのです。

きよいものと汚れたものの区別もつかず、教えられず、

異教の神々の教えや習わしと交わり、それらの教えに汚染されてしまうソドムとゴモラの世界、ノアの時代と同じ。

善を悪、悪を善とする世界。

 

どうしてそんな教えがまともであると考えるのか?

人間の教えは全く矛盾しているのです。

神の聖別を汚し続け、神の言葉を直接否定し続け、人が作った

神の教えを捨てる違う福音を生きることは神の教えとは全く

異なる教えなのです。神が定義する聖別、罪の定義の意味は、

モーセの五書を捨てたら基準が無くなり、理解がなくなってしまう事になっているのです。

それが現代に継続された人造の教えなのです。

 

神が人の生きることの出来ない律法=トラー=モーセの五書を

与えたと勘違いした人達の教えを信じてしまっているのです。

そう言う教えをするのはトラーを知らない異邦人なのです。

モーセの五書=婚姻契約の中には、ズレた場合の救済策が

ちゃんと書いてあります。モーセがエジプト人を打って

殺してしまった時、恨みを抱く人達から守られるために、逃れの町に逃げました。神はトラーに救済策を全て記しています。

 

福音書の中で、姦淫現場で取り押さえられたと言う女性を引き

出す場面があります。それをモーセの五書を否定する解説者は

過去は即座に石打ちの刑なのに、ジーザスは許された、

だから現在はモーセの五書は終わりだ!などと言う誤解した

浅い読み込みをするコメンタリーがありますが、

そこに書かれている意味をちゃんと考えていないのです。

処刑に至るには法廷手続き、裁判を通るのです。

裁判無しに判決など下せないのです。日本も同じでしょう?

そして姦淫には相手がいます。相手の男性はその場にいないですよね。そして、理由があり、悔い改める場合は許されるのです。

姦淫の現場で捕らえられた女性だけを引き出して、

イエシュアを試そうとしていた人達がその様な事をしたのです。

古代もケースバイケース。現代も同じです。罪に問われる時は

裁判を通して、状況や加害者の意識を含め裁判されるのです。

それを飛ばして即座にこの女性を死刑=処刑せよと考えた人達。

その無裁判、証言者無し、相手の男性の証言も無しに処刑しようとする違法行為にイエシュアが介入したのです。

 

イエシュアは姦淫の女性の内側を見抜いていました。

そして、”私もあなたを罪に定めない。二度と罪を犯さないように”と諭して許されたのです。

これはモーセの五書に書かれた父の教えと同じです。

そして許しの神は永遠から同じなのです。

神の教えや基準は人が認めなくても、その国で適用されていなくても、永遠に変わらないのです。

 

神の言葉から離れる、否定する、要らないものと考える時点で

神から距離を置いていることになるのです。愛する相手から頂いたラブレターを読まずに捨てる行為はどんな性質、深さの関係を相手に対して持っているのでしょう?神=言葉なのです。

神がご自身を表す言葉を拒絶する、神を知る範囲が狭まる。

永遠に繋がる神の領域を神が教えているのにその世界の扉は

固くしまったままになるからです。

誰かを知るには誰かとの会話が必要です。相手が何を考えているのかを知るには相手が考えている事を聞く必要があるのです。

神の言葉を捨てれば、関係の世界は隔たりが出来て、

浅くなるのです。

 

ガラテヤ3:22 しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を

罪の下に閉じ込めたのである。

 

ではこの22節は、どう言う意味で書かれているのでしょう?

ここでThe Scriptureと言う単数で定冠詞が付いている言葉を

パウロが使っています。これは”聖書”全体パウロが指しているのはトラー、預言書、諸書のみですが、それら全体を表している

ものです。

συνέκλεισεν=閉じ込められた=imprison
=拘束されたとあります。モーセの五書があるおかげで人は罪に閉じ込められていたなどと言う考えをするならパウロが語る
意味が全く見えてきません。それなら憲法違反の世界を奨励するのと全く同じ思考回路です。

この節はローマ3章の内容と一致しているものです。
聖書にはユダヤ人、異邦人、全ての人は、罪の違反の下にあると言う事実が書かれていります。義人は一人も居ない=神に
贖い出される前の人、信仰で義を受け取る前の人は全て
ズレた
人だからです。全ての人はエデンから出た。
閉じ込められる=συνέκλεισενとは、
使徒の書簡でたった一度だけ使われている言葉
です。
これは、拘束、投獄と言う意味の言葉です。
この箇所をゆっくりよく考えて書いてある意味通りで読んで
見てください。

神の言葉=聖書は人種や性別、立場や職業の違いに関わらず
全ての人はズレた=神の性質から外れて生きてしまったと
説明しています。それ故に罪に伴う処罰が付きまとう状態に
なったのです。神はご自分の性質と異なるものをそのまま
無条件に受け取る事が出来ない聖なるお方だからです。

人は神がどんなにきよいお方か、神の聖別、聖なる性質を全く理解出来ないものなのです。
だから平気で神の聖別を破り生きているのです。
 

 

 

続く