パウロの人物像 書簡 再検証 使徒 ガラテヤ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒23:5 パウロは言った、「兄弟たちよ、彼が大祭司だとは

知らなかった。聖書に『民のかしらを悪く言ってはいけない』と、書いてあるのだった」。

<パウロは出エジプト22:28を引用しています。

現代のクリスチャンの世界で教えられる信仰の様に、神の言葉=モーセの五書は律法でほとんど廃れた、神の言葉のある部分だけ信じて生きていると言う種類の信仰をパウロはしてなどいないのです。そんな事を主張する場合、パウロは神の使徒としての役割を全く果たせない、追放されてしまいます。パウロは100%

モーセの五書を支持している立場である事をこの議会で発表しているのです。

 

使徒24:14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕えトラー=モーセの五書の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、

24:16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、

良心に責められることのないように、常に努めています。

 

パウロの口からパウロは100%モーセの五書、それに付随

するモーセの五書の生き方に戻れ!と言う預言書をことごとく

信じていると発言しているのに、どうしてそのパウロの口から

出た証言を否定して、パウロはトラーを否定した教えをしていると言い続けているのだろう?と真剣に疑問に思わなくてはなら

ないと考える必要があるのです。

 

25:8 パウロは「わたしは、ユダヤ人のトラー=モーセの五書に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、

なんら罪を犯したことはない」と弁明した。

モーセの五書=トラー、そして宮に対して、神の神殿に入る

それは、モーセの五書に厳格にぴったり沿った神への関わりを

していると言うパウロの表明です。そして同時にローマ帝国=

カイザルに対しても違法な行為などしていないと3強調、

詰まりパウロはイエシュアが教えられた通り、カイザルのものはカイザルに返す、モーセの五書を生きて異教の神々の支配の下に

生きてもその国の法律違反をする行為もしていないと言って

いるのです。>

 

26:22 しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、

このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、

預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、

そのまま述べてきました。

 

パウロははっきりモーセの五書、預言書に書かれている通りを

信じ話している表明をしています。現代の様に預言書、モーセの五書を少しだけ引用し後は否定する様な教えや信仰をパウロは

しているのではないのです。

 

兎にも角にも、神の言葉に対してどの部分一点一画でも否定する教えを信じる場合には、聖書に書いてある意味を曲解し続けて

しまいます。これが神の言葉に対しての本当の問題の根なのです。エデンの園で存在した問題と同じなのです。神の言葉を曲げた!神が言う通りを聞かない、別の教えを聞いた=神の見る通りを見る目が塞がれ、善悪の木=人間的な考え=神の言葉が

終わったと言う、神が言ってもいないことを信じて別の教えの

世界の話を作り出してしまっているのです。

人造の教え、解説は似て非なるものになる。

 

ガラテヤの信者の中で蔓延していた問題は別の福音を吹き込ま

れていた事であると書かれています。別の福音とは、義とされている事実、救いを人間の努力で得ようと言うアプローチ、

それは当時のインフルエンサー、異邦人は、”ユダヤ人になる

改宗儀式”=割礼と言う名前を付けたラビ達が編み出した儀式

を通らないと異邦人は神の国の一員にはなれないと言うズレた

思想=別の福音=違うアプローチをパウロが正しているのです。何があっても神のトラー=モーセの五書を否定した

教えなどパウロは一度もしてはいないのです。

 

ガラテヤ書にある様に、時のインフルエンサー=別の福音を

教える教師達は、1世紀以降、パウロ達が存在しなくなった

時代には、ユダヤ人を追い出して野放し状態になってしまった

のです。パウロの様なエルサレムに所属するトラー学者について

この様に様々な問題やトラーの理解を伝授出来る環境が無くなってしまったからです。それが現代にもずっと続いてしまっているのです。

トラーに書かれた神の教えを知らない異邦人達は聖書の中身に

何が書かれているのか知らない、分からないなら、救い主さえ

信じれば何を生きても良い、ローマ帝国からの迫害を避けるため身の安全のためには、ユダヤ人と決別し、ヘブライ色が強い教えから離れた方が良いと考えるのは当然の事だったのです。

身の安全確保のため、別の教えと同化、混じり合う。

 

クリスチャンの世界で誤解されているのは、神が神の言葉を昇天

以降破棄して終わらせた=イエシュアが来られるまでは、

質の劣る律法の教えを教えられていたと考えているからです。

 

神の言葉は完全であると神が紹介しているのです。

しかも永遠不変で、一点一画も手直し必要なし!イエシュア=

トラー=言葉=永遠から永遠まで変わらないと書いてあるのです。

質の低い神の教えや劣る聖霊など存在しないのです!

この思考回路は異教徒的異邦人思考回路です。

神が変身する、神の言葉が変化する、そんなこと聖書のどこにも書いておらず、逆が書いてあるのです。

 

イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。
 
詩篇18:30 この神こそ、その道は完全であり、
主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
 
19:7 主の”トラー”は完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 

詩篇119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、

119:90 あなたのまことはよろずよに及びます。

あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。

119:91 これらのものはあなたの仰せにより、堅く立って今日に至っています。よろずのものは皆あなたのしもべだからです。

 

異邦人の世界で語られる神の言葉に対する意識は本当に

暗い、ネガテイヴな敵対意識と同等の意識で神の言葉に関して

考え、語られています。

トラーの中身に何が書かれているのかを知れば、神の言葉は

密の様に甘いと書かれている通りに理解出来るのに、信仰の最初から神の言葉を古い呪いの律法と言う意識を刷り込まれ、

神の言葉は時代ごとに別、2種類別の教えに分かれており、

最初の部分は呪いの律法なので、昇天以降は神ご自身が神の言葉を破棄して無用になったなどと言う人が考え付いた思想を

刷り込まれて教えられてしまうので、神の言葉に対して

敵対心やうとんじる意識、悪いもの、劣るものであると言う

考えを刷り込まれてしまっているのです。

福音書〜黙示録には100%トラーが書かれていることなど

全く気がつかず、別の新しい優れた教えが書いてあると誤解し、本気で信じているのです。

 

出会った人に対して、誰かに悪い先入観や評判を最初に聞いて

いたら、その人が悪い人であると言う偏見が拭えないのと同じ

状態になっているだけなのです。神の言葉に対する誤解、否定的な捉え方、敵対意識、これらは本当に神に反する意識、行為なのにそれが正義、それが恵の時代の生き方と考えているのです。

 

神の言葉=教えをどの部分でも私達神の民とされた人を

”義”の道に導くものなのです。安全に命が保たれるためのもの。

 

詩篇119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
預言書、詩篇=諸書は100%トラーを指して語っているのです。

パウロは100%モーセの五書を支持し、諸外国に居る

イエシュア信者達にトラー=モーセの五書に書かれている

知恵に基づいて教えているのです。

 

ガラテヤ3:20 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。
 
ここでパウロが話しているものは、アヴラハムに与えた契約
そしてシナイ山でモーセを通して与えた両方の契約に対して
話しています。二つの契約に対し仲介者は神である。
この2つの契約の違いを話しているのです。
 
聖書は、当時の中近東の契約書に基づき書かれています。
申命記がそれです。
ここでこのアヴラハムに与えた契約と、シナイ山で与えた契約の
違いを知ると見えます。
 
族長時代と呼ばれる、アヴラハムから出エジプトまでの時代
2000BC時代に実際に中近東に実際に存在していた契約、
条約の形、タイプです。
アヴラハムの契約は、”ロイヤル グラント契約”と呼ばれるものです。契約とはヘブライ語で”ブリット”と言う言葉です。
これは、”切る”と言う意味を表すものです。
なぜなら、契約を結ぶ時に動物を二つに切り裂いて、
その動物の間を契約を結ぶ人が通るのです。
アブラハムに与えられた契約は、契約を結ぶ者が一方的に相手に
与えているものです。創世記15:10−17
神が100%契約を保証し、アヴラハムはその責任を負っていない事が記されています。何があっても”義”とされている事実は
神により取り消されないと言う意味です。
ロイヤルグラント契約の特徴
1 臣下となる人の権利を守る
2 偉大なる王=宗主が誓いをする
3 臣下の権利を剥奪する場合に王が責任を問われる
4 未来永劫全ての子孫にこの契約が有効
5 忠実にこの契約内容は忠実に報酬が与えられる
 
シナイ山で与えられた契約は、神とそして契約に参加する人
両者の合意のもと、契約が結ばれ、両者が責任が問われるものです。この違いを20節で話しているのです。
シナイ山でイスラエルと少数の異邦人達は、神の言葉を聞いて
”それをします!”と何度も宣言している下りが書いてあるのです。神が言われる事=婚姻契約の生き方に参加しますと
出エジプトした人たち=義とされた人達は、婚姻契約に同意の上
参加を表明したのです。無理矢理では無い。神との親しい関係に参加したく無い場合婚姻契約を人間が破棄することも出来るのです。神の言葉を捨てて生きるとはまさにそれなのです。
 
これは、神とそして人の両者の参加が義務付けられているのです。夫と妻=婚姻契約の形で語られている通り、婚姻した両者はこの契約内容に参加しないとならないのです。
だから人の教えが語る様に関係の中に在る限り、この契約内容が
途中で変わったり、破棄され無効になることがないのです。
もし神の婚姻契約を破棄されたと主張する場合、それは神との
関係から離れますと言うことを主張していることなのです。
 
Suzerian=Vassal条約<宗主国-家臣条約/規約>
1  宗主=王の権利を守る
2 臣下が誓いを宣言する
3 呪いは直接臣下に来る
4 将来の子孫に渡り契約が継続する保証は無い 
5 国家同士の条約 政治的性質がある
 
これらは実際に中近東に紀元前2000年に存在していた契約であり、アヴラハムとシナイ山で与えられた契約はこれにのっとり
されているものであるのです。
申命記の形態は、そっくりそのまま当時の宗主国-家臣条約の
形態で記されているのです。
 
続く