ガラテヤ3:23〜 パウロの書簡を正しく読み直す トラーの元で監視されいたとはどう言う意味? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

この罪の赦しの身代金、賠償金は、神の教え=トラーを生きたところで得られるものではない事を理解しないとならないのです。これはクリスチャンなら理解出来る内容です。

もし自分の行い=神の教えを生きる事で義とされる、

罪の代価を自分で支払えるなら、イエシュアが自分の身代わりとなり処刑された意味など全く無くなります。

 

赦し、責めから解放される唯一の方法=それはイエシュアが

された業、義とされている根拠=神が一方的に代価を支払い

買い戻してくださった根拠を信じ、受け取る以外には出来ない

性質のものなのです。

 

どんな人でも、義とされている、命の賠償金を、行いや

自分の命と引き換えに得ることは出来ないのです。

これはクリスチャンの世界でも語られて知っている内容だと

思います。神の言葉を生きたから、自分の行いにより、

代価を支払う事など出来ない、自分で自分を持ち上げられないのと同じ!と言う事実があるのです。

 

そして贖われた人は、神のものとなり、神の婚姻契約に生きる

大家族に加えられたのです。それなのに神の家族の生き方=

婚姻契約=トラー=モーセの五書に書かれた人間の生き方を

否定し捨てることは、婚姻届=契約書を破棄する=神との関係の中、神の家族の関係の中に生きる事を放棄すると言うことなのです。

”主よ主よ”と言うだけで、トラーにある契約の命の生き方に

留まらず勝手な生き方をする人たちにイエシュアは”あなたを

知らない”=あなたは契約の命の生き方をしてない、だから

わたしと婚姻契約の関係の中には無い人だとはっきり言って

いるのです。マタイ7:21−23

 

神は人がそれぞれ独自の判断基準の勝手な生き方をすることを

禁じています。人は神に教えられなければ何も知り得ないからです。神の家族の生き方は”契約の中にある”生き方だからです。

その内容を知らないなら勝手な生き方をしてそれぞれが

勝手な時に勝手な行動をバラバラにしているのです。

神の家族である独特な印や、生き方、神が伝える神の大事な時を

変えてしまっています。神が神の子らに生きて世界へ神の性質

を伝えてと言っているのに別物を表して伝えてしまうのです。

 

神が示す、神の創造した神の似姿の人達が生きる詳細を

トラーで教えているのです。本当にシンプルな事実なのです。

これを本当に誤解しているのです。ちゃんと考えて行けば

理解出来て行く内容なのですが。

 

罪の中に死んでいた人は自力でそこから這い出せません。

人は自分の賠償金、身代金を支払えないのです。

 

ローマ 7:9 わたしはかつては、トラーなしに生きていたが、

戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

<イエシュアの業、義とされた事実、許されている事実、

聖霊が内側に住まう事が無い場合、償えない罪の代価、

罪責感にだけ押し潰されてしまうと言っているのです。

神のトラーがなければ人は何が罪なのかも気がつけない。

聖別を汚しても全く気がつかないし、感じることもない。

罪を知らせる神のトラーは悪いものだ!などと考えていれば

非常識な世界の思考回路になってしまいます。

人は何が善で何が悪か、何が汚れで、何が聖別か神の言葉に

より教えられない限り、気がつけない、神の言葉を土台に

確証を得ることなど出来ないのです。>

 

7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、

わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

7:12 このようなわけで、トラーそのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

パウロが書いている通りに読む。パウロは100%トラーを

支持し神の言葉は完全であり、聖なるものであり、神の戒めは聖であり善であると言ってるのに、どうしてパウロはトラーを

否定した教えをしていると信じ続けるのかその方が不思議です。いや、パウロの書簡を誤解して解説しているコメンタリー

のみを読んで聞かされ続けているので、脳回路に、モーセの

五書=呪い、律法、古い、悪い、廃れた、今は関係ない教えと言う人の言葉で神の言葉を塗り替え続けているのです。>

 

ローマ7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが

現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めに

よって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

<救いを得ない人達には、救済策=イエシュアを知るまで

安息などないから死=神との隔たりの関係の中で迷い続けて

罪責感に責め続けられるのです。>

 

3:23の箇所も誤解して解説されているものです。

とにかく”反トラー”=反モーセの五書思想が1世紀後半から

異邦人の世界で語る継がれて2000年の間に根強く定着し

反トラー=恵の教え=神の教えであると非聖書的な教えが

神の語る教えだと誤解され続けているのです。

これをどうしても打開しない限り、聖書に書いてある通りの

意味は見えてこないのです。

 

ガラテヤ3:23 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは

ノモス=トラー=神の教え、インストラクションの下で

監視されており、やがて啓示される信仰の時まで

閉じ込められていた。

 

22節でパウロは”トラー”を擬人化した言葉を使い、

”拘束” ”投獄”されると語りました。

全ての人は”罪の責め”の下にある状態を自分ではどの様に

解決する術を人は持ってはいない。

多くの場合、この比喩的言語に気が付いてないのです。

<信仰の擬人化>誤解されている内容は、ある時期まで信仰は

存在していなかったと言うものです。そしてある時点で

”信仰”が現れ出て来たと。

パウロは、クリアーに書簡の中で創世記15:6を引用して

話しているのです。


創世記15:6 
アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

アブラハムは神を信じて、それが神の義と認められた。
ヘブライ語とギリシャ語の両方で”信じる”とは、信仰=名詞と
共通のルート文字=言葉を有しているのです。

アブラハムが神を信じたと言うことは、同時に”アブラハムは
神に対して信仰を持っていたと言う事が書かれているのです。
だから、パウロはイエシュアが来られる前の人達には信仰など
なかったなどと言うわけないのです。

古代の人=エデンの園以降の古代の人には信仰がない、
聖霊が内側に住まわないと言う教えは、却下されるべきもの
なのです。聖書に何の根拠も無い非聖書的な教えだからです。
又は特別な人にしか聖霊は住まわなかったと神学は教えますが、考えてみてください。イエシュア=救いは永遠から永遠に同じと書いてあります。イエシュア=救いは永遠から存在しているのです。イエシュア=救いは永遠の中に存在してどこからでも時空を超えてアクセス出来る事実がヘブライ聖書には
書かれているのです。
人が創作した教えを通すと聖書の事実が覆われ、曲げられ真実が隠され続けてしまうのです。

現代でもある人々はイエシュアを知りませんね。
聖書がこんなに手元にもあり、アクセス出来るのに読みません。ネットの世界では様々に曲げられた偽の教えが流され続け
信じていない人も聖書に対する勝手な解説をしています。
めちゃくちゃな解説の”終末論”として語っているのを見聞きします。ある部分は真実でも創作した教えを付け足して別物に
変身させているのです。

使徒2章以降の現代でも、ある人は聖霊を内側に受けていません。なぜならイエシュア=救い主である事を信仰により受け取らないからです。そしてある人は信仰により神の義を受けて
聖霊を内側に得ている。現代も古代も全く同じなのです。
古代と現代では別種の救い=イエシュアがあると考えるのは

デイスペンセーション神学などの教えを信じている人の解説を聞いて、聖書の真実を聞いていないからなのです。
ある時点から救いが有効、信仰が与えられたと言う人の教えで
神の言葉を読むから、書いてある真実が覆い隠されて別の教えを作り出して行くのです。
だから聖書の中には何が書いてあるのかをまず忠実に知る作業は、神の語る永遠の真実を知るためには絶対不可欠な作業なのです。何が書いてあるのかを書いてある通りに知らないまま、適用ばかりを教えられ、ある箇所
だけを文脈から取り出し逸脱した解説をしているのです。

パウロが信仰が現れるまでと書いている意味はなんでしょう?
現代も古代も同じ、個人個人誰でもイエシュアを信じる迄の間は信仰が無かったのでしょう。人が神に気がつく、出会う、
トラーに書かれたイエシュア=救いを個人的に自覚し受け取り信じる。
その信仰が個人個人に与えられる時までと言う意味です。
誰でも同じ。古代も現代も、ユダヤ人も異邦人もそれぞれが
イエシュアに出会う体験や時は別でも、その時まで自分の中に信仰が現れない=個人の中に無いのです。
ある時期に救いや信仰が出現したと言う教えは人が考えた
教えは、デイスペンセーション神学の様な教えで、
それを聖書だと信じているからです。

神は永遠の中に存在し、人は神の中=永遠の中に造られて
神の息を吹き込まれ生きる存在になったと書かれているのです。神から離れた人は、神との電源が切れている、又は周波数がずれた場所にいる、眠っている状態にいるのです。


どうして永遠と分かるのか?ヘブライ語でそう書かれているからです。エデンの東と書かれているのは、時を表す言葉で
書かれているのです。ミケダム=永遠の中から、エデンの中に永遠の中に創られたとあります。
この世界が造られる前には何が存在していましたか?
何も無い最初の中で=神しか存在しない!その中に全ては造られた事がヘブライ語では見えるのです。翻訳では全く見えない
世界なのです。だからユダヤ人は神を”場所”=ハ マコムと
呼ぶのです。THE PLACE。私達は神の中に住まう様に最初から造られているのです。神の中から飛び出した、エデン=喜びから飛び出した。私達は神の中にある状態が安息でぴったり
喜びの源と繋がっている状態。臍帯は神の言葉です。
神の言葉に根付く=神ご自身に繋がる、命の源泉に繋がる。

パウロが23節で強調しているのは、トラーはどの様な役割が
あるのか?と言う事、なぜトラーなの?と言う事を言っています。神の契約の民=ユダヤ人と異邦人共に神の赦しを受ける前には閉じ込められていた。
神の救いを個人的に受け取り、信仰を働かせると言う生き方を
するまでの間の事を話しています。

 

 

 

続く