永遠の第8日目の記念日 シェミニ アツレトを祝う | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

詩篇6:8すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。

主はわたしの泣く声を聞かれた。

 

この箇所に書かれた”悪”とは、אָוֶן, ’アヴェン。

70人訳では、ἀνομία, anomia.=アノミア。

このギリシャ語の言葉はマタイ22章でイエシュアが言われた

言葉と全く同じです。

法=ノモス<ギリシャ語>」=トラー<ヘブライ語>=神の教え

インストラクションと言う意味の言葉です。

英語ではLaw,日本語では律法と言う神の言葉=教えに対して

大変不適切で誤解を招く残念な翻訳をされて、長年大衆に

神の言葉に対する誤解やズレた意識を刷り込み続けている

厄介な翻訳言葉=律法です。

 

ここに書かれた意味は、アと言う前置詞=Not=否を表す言葉です。

アノミアとは、”Not Torah"トラー=神の教え=では無い

と言う意味です。トラー無し!神の教えでは無い!

悪=アノミア=トラーでは無い教え、神のトラーを

否定するもの!トラーでは無い生き方、教えをするもの。

これらの反トラーの教えを生きる事は、イエシュアに属するものでは無いと言われているのです。

神の教え=トラーを破る人達、神の教えを破り生きている人たち

イエシュアがきつく警告、非難しています。

 

神の言葉、教え=トラーを拒絶するものは、神が拒絶します!

と書いてあるのです。いや神の言葉、教えを人が拒絶して、

その様な行為をすることで必然的に神と離れた場所、

神の前に羽の様に軽い存在に、自分の行動で招いていると言う事なのです。神の言葉を拒否する行為をすることで、神との隔たりを自分自身の身に招いていると言う事なのです。

 

世の中は堂々と神の言葉=永遠不変の教え=トラーを真っ向から

否定する教えが横行しています。口では神の言葉は永遠、

聖書は神の言葉であるといいながら、実際はその宣言通りに

神の言葉を取り扱ってはいないし、神の言葉が永遠の真実とも

信じていないのです。その様な教えが神の言葉の事実であるが

ごとくに当然の様に語られています。神の教えを生きる人=

呪いの律法に戻るのか〜恵みを捨てた生き方だ〜と

真っ向から批判します。

 

今や合法的殺人=見た目にはそう見えない事が堂々とされていてその事実に気がつかないままその流れに乗っている、

それと同じ事なのです。

危険な事であるのにそれが新しい時代の教え、神の恵の生き方である!と言う神の言葉に反する全く愚かしい教え=

アノミア=トラー無し神の教え、神の言葉のどの部分でも

否定して良いと考える様な思想、神に対する反逆行為を堂々と

是認する思考回路を編み出し、今や神の教えから遠く離れて

人間の思想で生きる世界が堂々と教えられてしまっているのです。神の語る真実、警告に気が付かないと危ないのです。

西洋宗教の世界の主流の教えが2000年間支持された教えが

神から出ているなどと考えるならそれは危険です。

神が神の言葉を否定する教えを指示、支持する訳などない事が

聖書には書かれているからです。

 

人の作り出した教えではなく、神の言葉だけに戻らないと

ならないのです。

 

イエシュアは、私達の義の基準は神の言葉だけを土台、

根拠にする事、人の教え=トラーに反する教えを根拠にしては

ならないことをマタイ7:22で警告しているのです。

 

神の言葉に聞く!聞くとは、神の言葉を書いて、聞いた通りに

理解し、そしてその実態通りを実際に生きることなのです。

世界の教えはとことん神の教えを否定しています。

西洋宗教の世界の教えは義、聖別の基準を破り、異教徒、

異教徒文化の慣習のなんでも受け入れ、非聖書的な様々な教えを作り出し異教の神々の世界の生き方と区別が付かないほど混じり合ってしまっています。何が神の定義する義や聖別であるか

トラーを捨てたので見分けられなくなってしまったのです。

 

神の記念日=婚姻指輪、婚姻関係の印であるものを捨てて

ローマ帝国宗教の作り出した教えや記念日だけを生きている。

聖書の事実=神が伝えている事実だけに基づき考えたら

神が何を人に伝えているのか見えます。

 

神は神の性質と反するものとの混ぜ物を忌み嫌うと言われて

います。

別物の教えと混じり合うこと=姦淫、これを宗教の世界ではしていても気が付かないのです。伝統で根付いた教えだからです。

イスラエルも同じ罪で、国外追放、捕囚の地に追いやられました。聖別された契約の中にある民としての生き方からずれた

からです。

シェミニ アツレトは申命記15:7にある貧しい兄弟を省みる事、実際に行動することを教えています。

神の教えは”契約の民”の生き方、契約の中にある生き方、

トラーに書かれた集合体=神の家族として一人一人が機能して

互いに助け合い、神の教え通りに命をガードして生きることなのです。

 

1ヨハネ 3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、

どんなに大きな愛を父から賜わったことか、

よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。

<神の子である=神の家族に加えられた=契約の絆の中にいる

イコール、神の子らの性質である神が伝える教え=トラーを生きると言う意味です。>

世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。

<父=神=神の教え=トラーに書かれた人間の生き方を知らない

神がどんなお方であるのか書いてある預言書、諸書を知らない

と言う意味です。>

 

3:2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。

しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。

彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなる

ことを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

 3:3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、

彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

<きよい=聖別の定義は神のトラー=婚姻契約=モーセの五書

の中に詳しい詳細が書かれているのです。

コロサイ 2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

 

食べ物、飲み物、祭り、新月、シャバット=これら全て聖別を

表すものであり、イエシュアそのものなのです。

食べる、飲む=全てシャバット、祭りの祝宴、礼拝にまつわる

ものでもあります。礼拝とは神の家のテーブル=祭壇で

食べ物を通してされるものでもあるのです。

聖別=神の記念日は神が聖別したものであり、

神の記念日が聖別を表す最初の教えでもあるのです。

シャバットを聖別し、聖なるものとせよとある通りです。

創世記2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
出エジプト20:8 安息日=シャバット=第七日を覚えて、
これを聖とせよ。
覚える=記憶し、そして同時に行動に移す事を意味する
 

1コリント10:31 だから、飲むにも食べるにも、

また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。

 

1ヨハネ3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。

罪は不法である。

<ズレ=罪=トラー無しで生きることは罪!!!とはっきり

書いてあります。今の世界の宗教の教えは罪であることに罪だとも気が付かない、感じないほど、神の教えから遠くかけ離れて

鈍く眠った状態になっていると言う事なのです。>

 

わたしたちは良い行いをするために造られたとあります。

良い行いとは、トーヴ=神の意図通りに生きることです。

神の意図通りの内容、それはどこに書かれていますか?

モーセの五書に書かれているのです。福音書以降はほんの短い

モーセの五書<預言書、諸書>に関するコメンタリーなのです。

その手引きを捨てるからそれぞれが勝手な基準の教えを生きて

神の言葉を否定する様な教えを作り出してしまったのです。

 

ピリピ 1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められた

かたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるに

ちがいないと、確信している。これが私達の希望なのです。

 

義とされた人が地上で神の性質を生きてやがて神と相見える日を

迎える。花嫁として、神に言われたこと自覚しながら生きることがないなら、神の言葉や教えを捨ててしまう。

10人の乙女のたとえ話の様に。

はじめの愛=トラーを捨てたと黙示録で警告されている様に。

 

仮庵の祭りの第8日を祝うのは、これから来るべき世界を迎える象徴の日を祝っていることなのです。

私達の神との関係を祝う日。

環境に関わらず神の中にある喜びを神の仰せを生きる中、

神の記念日を生きる中で発見出来ますでしょうか?

 

神の約束=言葉以上に安息出来る根拠は無いのです。

神の臨在が私達の中にあり、私達も神の中に今存在していると

言う摩訶不思議な事実。

わたしたちは誰を愛しますか?誰を信じますか?

創造主であるイスラエルの神=イエシュアを信じると言うなら

どうしてイエシュアの言葉=父の言葉=神の言葉を拒絶する教えが真実だと信じているのでしょう?

 

神の教え=言葉が歴史の途中、昇天以降で変わった、

神のシャバットや祭りが途中で終了したと考え信じているなら、聖書だけに戻って、神の言葉が説明する神の言葉の性質と教えと記念日についてなんと書かれているのか調べてみることをお勧めします。

 

人は神の言葉を薄め、価値下げし、低い評価をし、そして捨てる

今は無効な教えであると教えています。

それらの教えは神から出た教えでは無いことを聖書の最初から

最後まで同じ様に説明しています。

神の教えを捨てるな!離れるな!とずっと書いてあります。

預言者の託宣は、神のトラー=教え=婚姻契約の生き方、

モーセの五書に書かれた生き方に戻れ!それが預言者の中心の

メッセージです。預言者育成を奨励するならトラーを知らない

場合、トラーを知らない、トラーが廃れたと教える預言者は

偽物です。しかも預言者は神から直接油注がれて選ばれた人ではないとなれない、自分で預言者宣言など出来ないのです。

パウロが語る預言の賜物とは、神のトラーに熟知し、人々に

正しく神の言葉を教え、解説し、同時に神のトラーを生きる

お手本となる成熟した人のことを預言の賜物と話しているのです。

その事実から外れた霊媒口寄せみたいな未来預言や他者の人生

選択に直接指示を下す様なそんなのを預言者などと言ったら

異教の神々の宗教と全く同じことをしていることになって

しまいます。

 

私たちは神の仰せの中に神の臨在を認めますか?

私たちは、主に顔と顔を合わせて立つ日に、

神が唯一エハッド=1つであり、神の御名=実態は永遠に真実であり、神の言葉も永遠不変の真実であると信じて生きてきたと

神の前に立った時に言えますか?

 

神の言葉は永遠に堅く立つ。神の仰せ=本物の羊飼いの声を

聞いて生きて来たことを、シェミニ アツレトを祝う事で

再確認したいものでもあるのです。

 

 

 

 

 

続く