モーセの五書に書かれている内容を本来書かれている意味、
内容で知ると、福音書〜黙示録の内容がより一層ビビッド=
鮮明に意味を持って浮き上がって来ます。
それと同時に、聖書は1つの糸、紐で全ての神の言葉が完全に
繋がりあっている事が分かります。
人の体と同じです。全てが揃って1つの体です。どこも切り離す
事が出来ない、切り離しては正常な機能が出来ない。
西洋神学思想では、神の言葉を自由自在に分解して、
大事な機能をする臓器を捨てる教えをしているのです。
トラー=モーセの五書とは違う別物の教えは神の言葉の中には
無い。別物、異質、異物の教え=神ご自身でご自身の永遠不変
完全と言われた言葉に相反する教えをする事、そんなものは、
神の言葉の中に同時混在などしていないからです。
古代と聖書が文字として記されてそれらが完成した後、
そして使徒2章以降の大きな違いは、古代は特定の個人が
選び出され、神から口頭でトラー=同じ神の教えが伝えられて
来た事です。エデンの園から同じ教え。
それはユダヤ人に対して最初に語られた事です。
しかもユダヤ人などと言うものは最初からないのです。
誰もが異邦人。ノアもアブラハムも異邦人。
でも神はアヴラハムと言う代表者を選び、その種から神の契約の民=全世界の民族へ同時に同じ約束を与えたのです。
そして、義とされた人達に与えられたのが文字で書かれた同じ
神の教え=トラー=婚姻契約なのです。
それはユダヤ人、異邦人と言う肉的生まれに関係なく、
イエシュアに連なる天から生まれたもの全ての人達なのです。
ユダヤ人も異邦人なしには完全ではなく、異邦人もユダヤ人なしには完全にはなれないのです。1つの家族は互いに別の機能
体の臓器として表されていますが、全部が揃って1つ体、家族
だからです。神学の教えは1つを二つと神の真理に逆らい
教えていますが、聖書の教えとは全く異なるものです。
そして使徒2章以降、イスラエルが代表として与えられた同じ
婚姻契約=トラー=福音が全世界の民族へ伝えられる幕開けを
迎えた事。それでも印刷技術が発達し、一般の人が自由に
聖書を手に入れて読むと言う時代まで遥かに長い間があったのです。今現代でも聖書を読む人の方が少ないし、クリスチャンの
世界でも聖書を満遍なく教えられ学ぶと言う事も希少です。
福音書〜黙示録は契約書ではありません。その箇所は使徒が書いた書簡であり、トラー、預言書に対する短い書簡=コメンタリーであり、トラーとは違う新しい別の契約書=神の別の教えなどでは無いのです。2つ別種の異なる内容の契約など神は造られていないからです。この点を誤解しているのです。
そして使徒2章以降、別のクオリテイの高い霊、より優れた教えが表されたのだと勘違いしているのです。
神は永遠不変なのです。神の言葉も永遠不変なのです。
質が違うのでは無い。量の違いです。量=同じイスラエルの神の婚姻契約に加えられる人々=異邦人も多く加えられ続けて行く、
その人数が違うだけです。
そして未来、エレミヤ31章にある通り、全ての人が頭脳に割礼を受け、神の教え=トラーを内側から理解する時が来る。
イエシュアが語られた新しい契約と同じ意味です。
新しい=再更新される同じ契約。でも参加する人の意識が違う!
出エジプトした直後の頭脳に割礼の無い、神の目から見る通りを
知らなかった状態では無い!と書いてあります。
今現在あるユダヤ人はイエシュア=トラーに書かれた救い主で
あることを認識していません。同時にクリスチャンもトラーが
神の永遠不変の教えであり、イエシュアそのものである事実を
認識していない方が一般的だと思います。この両者が同じ共通のグラウンド=神の永遠不変の言葉に立ち、イエシュアを救い主として知り、お互いに主を知ろうと言わない。
それは、来るべき世界では全ての人が、割礼された頭脳に
書かれた神の永遠の教え=トラーを生きる日が来ると言う意味
なのです。誰も神の言葉は呪いの律法だ〜!ユダヤ人だけやっていれば良い!別々の記念日を祝おう!と隔ての壁を作る様な家族関係ではなく、1つの神1つの神の同じ教え、イスラエルの神の永遠不変の印である記念日を祝い、同じ1つの家族として神の中に引き寄せられる日が来る事が聖書にある預言の事実なのです。
イザヤ56:12ー7 ゼカリヤ14:14ー16は未来預言。
全ての人が神のトラーを生きて、神の記念日シャバット〜祭りを祝う事が預言されています。ではなぜ今の時代だけ神の言葉を
生きることを否定し、神の記念日を祝わず別物を祝っているのだろう?と疑問に思わないとならないはずなのです。
特に原語で書かれた言葉に戻ると、翻訳で埋もれている様々な
事実が書かれているのが見えます。
平面、もしくは埋もれていた、たくさんの永遠の真実が飛び出す
絵本の様に飛び出て来ます。
例えば、ある言葉は、様々な他の言葉と共有の意味、性質を
持って繋がっている事が原語では見えます。
又は同じ言葉なのにアプローチが違うと、裏表の様に、
全く別の真逆の意味になってしまう言葉があります。
本物の福音を理解する、イエシュアを理解するには、
トラー、預言書を正しく学び理解する必要があります。
それには永遠不変である神の言葉と言う基本中の基本の土台
大前提を元の状態、性質、位置に修復する必要があるのです。
古代の人達、聖書が書かれた時代に居たユダヤ人達が理解出来る
言葉、内容で語られたものです。
暗号謎を読み解く様な神秘主義的思考回路で読み解くものでは
ないのです。普通の人が理解出来る言葉、意味で聖書は書かれているからです。
仮庵の祭りが閉じました。春と秋の祭りは収穫にまつわる祭りです。春から始まった命が秋に全て実り集められる。
人が主に出会いそして最後主の元に全ての神の子らが引き寄せられる”ピクチャー”絵画的教えでもあります。
主の教えは、自然、土地、創造物を通して教えられています。
一年の最後に収穫物の全て集められる時期である秋。
やがて主が戻られる事と重なります。
収穫物=主に属する人が全て集められる時が来る。
聖書の暦では第七の月。7と言う数字も意味があります。
”完結” ”完了” ”完全”を意味する数字=7です。
そして、仮庵の第8日に入り、次の新しい農業のサイクルへ
突入する時期です。
イスラエルでは、春から今まで一度も雨が降らない時期を過ごしたのです。雨が一滴も降らないのです。
カラカラの大地を破る雨が仮庵の祭りを境に降り始めます。
秋の大地は本当にカラカラで硬いものです。
春から秋まで降水量ゼロ。その大地を叩き割る雨が”先の雨”と
呼ばれるものです。この雨を”ヨレ”と言います。”後の雨”とは
ちょろちょろの雨です。
申命記11:14 エレミヤ5:24
この言葉は色々な言葉に繋がっています。
指す、標的を射る、打つ。
神の言葉=トラーと繋がっています。全ては神の言葉を中心に
指しているからです。全て神の意図通りの教え=トラーを射る
様に語られているからです。
良い地と悪い地のたとえ話でイエシュアが語られている内容
イエシュアが語られた教えは全て100%トラーを指して語っています。箴言の中に”理解する頭脳”とありますが、それと繋がるものです。大地が雨で柔らかくなり、種を受けて大地に豊かな
実りをもたらす。神の教え=種を、理解する頭脳=神の言葉=
教えを神が意図する通りに理解する頭脳=神の言葉を生きる人は
水のほとりに植わる=神の言葉に根付いて生きれば、季節ごとに豊かな実を実らせる=御霊の実。詩篇1章。
全部繋がっているのです。
ヘブライ語聖書 ヘブライ思想、1世紀古代イエシュアが生きていた時代の神の言葉に対しての理解や、態度、信仰から
現代は遠くかけ離れてしまっているのです。
似ても似つかないものになってしまっているのです。
その大きな一つは、”神の言葉”に対する扱い、態度、評価です。
聖書の中に書かれている人達の中で、現代の様な思想=神の言葉に有効期限があるとか、今の時代は神の言葉が呪いの律法であるとか、ユダヤ人は律法で破壊され、異邦人は恵みで勝利したのだなどと言う、聖書の教えとは似ても似つかない思想など聖書の中には無い、そんな思想、発想をする人など、ましてそんな異端的な教えをする人たちなど、誰一人として太古には存在しないのが聖書に書かれた事実なのです。
なぜなら、トラーはイエシュアそのものであり、イエシュアも
そう教えられ、トラーに付随する預言書、諸書で神ご自身が
神ご自身がどんなお方かの全てを人に明らかにしているからです。
婚姻した花嫁にだけ自分の全てを伝えたいですよね。
理解してほしい相手に誰にも話さない内側の事、宝、
自分の全てを伝える、花嫁がどんなに大事な存在であるか、
あなたは誰かと言う本当の事を伝える。
花嫁として安全に守られるために、嫁ぎ先の家で
どんな生き方をするのか伝えている、それが神の言葉なのです。
婚姻関係にない相手に自分の全てなど伝えません。
親密な関係を共有しません。
婚姻契約を受け取ったのは贖われた後である意味があるのです。
花嫁となる民へ、神の国のオリジナルの実態、生き方、神の
造られた人間の本来の性質を伝えているのです。イスラエルの神が誰であるか知らない人達には直接与えなかった理由があるのです。
続く