豚に真珠と聖書にあります。豚や真珠で表されている意味が
あります。高校時代の後半イエシュアが語られた”わたしが道、
真理、命”と言う言葉でイエシュア=救い主である事実をはっきり確信してから、聖書を最初から最後まで読む事をしてみました。何が書いてあるのか知りたいとまず思ったからです。
そして、豚に真珠と書かれているのを見て”不可解”に思いました。豚も主が造られたんでしょう?豚がかわいそう〜。
その時もそして13年前までも、その言葉が表す意味をはっきり知りませんでした。
主は創造物をご自身の意図する通りに造られたのですね。
豚と真珠=宝に付いて書かれています。
箴言11:22 美しい女の慎みがないのは、
イザヤ65:3 この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、
園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、
65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、
豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
66:17「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、
その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物および
ねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
ヨブ28:18さんごも水晶も言うに足りない。
知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
<知恵=חָכְמָה=ホクマ=神のトラーに書かれた知恵>
箴言3:15知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、
これと比べるに足りない。
8:11知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
マタイ7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げて
やるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおって
あなたがたにかみついてくるであろう。
マタイ13:45また天国は、良い真珠を捜している
商人のようなものである。
46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物を
みな売りはらい、そしてこれを買うのである。
豚に真珠を与えても、豚はその真珠の価値を微塵にも理解しない
豚にとって真珠は何の意味もないただのもの、クズと同じで、
踏みつけたり、食いちぎったり、泥の中に放置するでしょう。
豚と言う動物で表されている意味があるのです。
豚=神の祭壇には捧げられない汚れた動物=地上の掃除機の
役割をする動物。神の子らの性質にフィットしない創造物として
表されている。人が取り入れるものでは無い存在。豚の中に大勢の悪霊自身が望んで入り込んだ下りが書いてあります。
意味があるのです。マタイ8:28−32
神に属さない人に、直接真珠=神の婚姻契約を与えていないのです。失われたイスラエルの羊だけのもとに遣わされたと
イエシュアが言われた内容と同じです。
アヴラハムにまず与えた契約=無条件に義とされている一方的な
贈り物を信仰により受け取った人達=花嫁が、花婿の家に住まう
様々な条件、状態を伝えているのが”婚姻契約”なのです。
人がトラーを生きたから義の実態を神から受け取れるのでは
ないのです。神の一方的な恵み、業により”義”=新しい人を
与えられたことを信仰により信じて受け取った人が、神の似姿=性質を生きる!と言うこと、この違いに気がつけば、そんなに
複雑な事を神が話しているのでは無いことは理解出来ます。
本来の人間の性質通りを生きる事に戻る!
それが悔い改めの本当の意味です。
神の言葉に対して正しい理解をしていない場合、神のトラーを
否定する様々な思想、教えが次々と発想され編み出され続けて
いるのです。
ずれた原因!その一番の理由は最初の最初に書いてあります。
神の言葉に対しての捉え方、取り扱い、意識、アプローチが
ずれた事。命の木をガードする事をせず、知識の木から食べた。
知識の木=神の言われた通りの意識に留まらない状態で神に
言われた事とは別の行動をした事を表すものです。
これは聖書に書かれた内容、意味から1つずつ考えて行けば
見えて来る内容です。
簡単に言うと、神の教え=モーセの五書は、神が創造した
オリジナルの人間、エデンの中で語られた”本物の人間”の性質の全てが書かれているのです。あなたは誰か?と言う性質が書かれ、その性質に外れることを”的”=トラーを外す、的外れ=罪と翻訳されているのです。これこれをして神の前に認められようとか、神が長ったらしい厳しい掟リストを与えて人間がそれらを
生きれない事を証明するための目的がトラーだなどと言う人間の
発想の教えから神の言葉を歪めて考えたら永遠に神の語る真理など見えてきません。その意識こそが知識の木を食べた状態です。
別の目から見る事に留まり思考に幕がかかったまま=
割礼の無い頭脳のままに留まります。
だから、神の性質とズレたことを生きる=トラーに外れた事を
したらズレるのは当然であり、副産物としてもしトラーを知らない人でも違和感や後悔、自己嫌悪などに陥るのです。
それらの状態は、ずれている警告アラーム、サイレンなのです。
毒食べたら具合が悪くなり体外に排出しようとするのと
同じ防御システムなのです。
これは道徳的側面の内容だけですが。
人を傷つけて、無視して、意地悪してハッピー、幸福になどならないでしょう。
そして神の意図する通りを理解しない場合は、神が伝える
聖別の意味は理解出来ないのです。そして聖別が何か分からないなら、”聖別”の状態を破り、聖別からずれていても、意識にも
上らないし、なんとも感じません。これは神が語る、教える、
聖別の本当の意味を聖書=トラーから知らないなら
分からない天的教え、内容だからです。そして聖別に留まる生き方こそ神の子らである印の生き方なのです。
自分定義、神学的の聖別は神の聖別とは意味、内容が違うものなのです。
だから神の目に汚れが何かをモーセの五書から知らない場合
汚れを取り込んでも何も感じ無いです。全く無感覚状態に
留まり聖別と汚れの区別が見えないままになります。
汚れは、偶像を拝むと言う以外に様々な汚れ=タメーが
何であるかがトラーには書かれているのです。トラーを捨てたら
神の言われる事、聖別と汚れの区別の何がなんだか見えなくなるのです。
義とされた人は、神の性質=人間の本来の姿を生きる!
それが書かれているのがトラー=婚姻契約=モーセの五書なのです。クリスチャンの世界では神の言葉は縛りで苦しいもの
完璧に生きられないもの!と伝えていますが、そんなものでは
ないのです。神に対する隔たりの意識を生み出す=神の言葉=
呪いの律法という意識。申命記30に難しいものではない!と
書かれています。神の言葉はするしないの掟リストではないのです。やるべき、やらなければならない、それらの言葉で表すものでは無いのです。神の性質に似せられて造られた人間の性質の
全てが書かれているものなのがモーセの五書なのです。
トラー=イエシュア=第二のアダム=本物の人間の生き方。
しかも、福音書〜黙示録=使徒の書いた書簡は100%トラーの
教えを解説しているに過ぎないのです。別物の教えが福音書以降に書かれていると教える、考えているのは非聖書的な幻想に
過ぎません。福音書以降に書かれた愛、寛容、許し、恵み、祝福
贖い、全ての言葉はトラーから取られて語られ、その定義の詳細はトラーに書かれたものと100%マッチしているからです。
モーセの五書が聖書全体の辞書、土台だからです。
別物の新しいより優れた質の高い教えが福音書以降に書かれていると信じているのは、モーセの五書を知らない、人の教え=神の言葉は廃れたと言う教えを聖書が語っていると本気で信じているから聖書の永遠不変の事実が見えないだけなのだと思います。
しかもトラーの中にはズレた場合〜罪を犯した場合の救済策=
イエシュアのされた業、実際に人は神の前にどう出て、どう修復するのかの実際の全てが書かれているのです。人の生きる全てに付いての神の教え、インストラクションが含まれている!
その事実に目を留めていないだけなのです。
神に造られた人はどんな性質でどう生きるのか?の全てが書かれているのがモーセの五書です。聖書の全てはモーセの五書を指して語っている。丸い円を書いて真ん中に的を描く。外側の丸い円は預言書〜黙示録。それら全ては真ん中の丸い的=トラーを指して語っていると言う事実があるのです。
トラー=モーセの五書は呪いの律法が書かれていると考えていると思いますが、神の言葉の性質、実態に対するとんでもない誤解勘違いです。
それならば、福音書〜黙示録も同等に呪いの律法です。
それらは100%全てトラーを指して語っているからです。
聖書の罪の定義は、トラーを外す!と言う意味なのです。
だから不法=トラーを外す、トラーとは違う生き方!と
書いてあるのです。イエシュアの口からも語られた通りです。
マタイ7:21ー23
トラー=的を外す=ハター=罪とヘブライ語では書いてあるのです。アーチェリー用語でも、真ん中の的を当てることをトラーと
言います。
神の意図通り、教え通り、的を当てたらトラーと言うのです。
このトラーと言う言葉は色々な言葉と繋がってる意味を表している言葉でもあるのです。
続く