来るべき世界 救い主の再臨を表す第8日目の聖会 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

第8日目の聖会=”シェミニ アツレト”の中心のテーマは、

最後のヨベルの年を象徴しているものなのです。

 

この世界の歴史の最後の第8日目。

"オラーム ハバ” =これから来る世界。

神と人とが親しく顔と顔を合わせて相見える時が来る。

仮庵=スコトとは、神が人とともに住まう事を明確に描いたもの

なのです。出エジプトした後、イスラエルと少数の異邦人達が

最初に宿営した場所は=スコテと記されています。

イスラエルと少数の人達が奴隷から解放され、

イエシュア=仮庵=スコテに住まった事実で表されています。

そして来るべき世界は、神は永遠に人と共に住まう時代に入る。

そして主が共に永遠におられ、主が統治する世界が来られる。

1テサロニケ4:17

 

これは、エデンの園が戻って来る事を表しているものです。

全てが元の状態に戻る。本物の始まりに戻る。

神がデザインした元の状態がフルに認識される。

 

創世記3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、

「あなたはどこにいるのか」。

神と共に元の状態で歩む事に全てが戻る。

この第8日目に読む預言書、諸書の箇所は、

1列王記8:54ー66。

ソロモンが仮庵の祭りの時に、第一神殿を捧げた記録です。

 

エルサレムの神殿で、神は神の臨在と神の子らとの交わりを

望む事を現したのです。

ソロモンは、人々を第8日目に送りました。66節。

人々はずっとそこに留まり立ち去らず居残りたく願望したから

です。居残る=アツレト。

 

しかし、神殿は、その中にある全ての栄光は、

最後に本当に来る本物の第8日目のシンボルなのです。

永遠のヨベルの年!神と人とが共に住まい、全ての人が本物の

所有者=神の元に引き戻されて、神のデザイン通り=神のトラーに書かれた通りを生きる日を迎えるのです。

この時が来たら、前のエデンの園での罪が人と人、

人と神を引き離した様な離別状態ではなくなるのです。

 

これが聖書に書かれた事実であるのに、神の子らである人々が

神のデザインされて神の子らのためにもうけた記念日、

シャバット、新月、祭りで神とのコミュニオン=交わりを

望まない現代の様な状況は誠に惜しい、残念で悲しむべき状況であるのです。宗教の教えが神の教え、記念日を否定して追放してしまったのです。

 

神との深い関係、交わりに入り聖別された状態に成長する

そして、神の義の道を素直に歩む事に熱心になるのに、

神の御顔=実態を慕い求め、神の声=言葉=トラー=教えを熱心に知ろう、聞こうとしないで、別の教え=人が作った教えを信じて神の教えは終わり!と宣言している。人間の教えを信じて

生きて、神の言葉を知ると言う極少の願望、神の言われる事を

知ろう、生きようとする事がないのは、本当にがっかりすべき事なのです。大事な宝が奪われているのにまったく気が付いていないのです。神の言葉の中にあるものが金や銀この世の宝に匹敵しないもの!と聖書に書いてある意味が見えないからだと思います神=言葉=人が望む中での一番の宝=神との親しい関係は、

神が伝えることをその通りに理解して生きる時に得るからです。

 

来たる世界に神と共に住まうと信じる人は、今永遠の中の今を

神の語られる神が伝える通りを生きる!と言う事実が語られて

いる事を知らないとならないのです。

これ以上にクリーアーで明確なものはありません。

永遠の中で、主が神の子らにプランされているものは

決して終わりなど無いのです。神の記念日も終わりなど無い、

神の教えも終わりなど無い、来るべき世界は全ての人が神の教え=トラーを生きる!と聖書には書いてあるのです。

それが”新しく更新された中身が同じ契約=婚姻契約=トラー”とエレミヤもイエシュアも言われた事なのです。

クリスチャンの世界では別物の教え=より優れた教え

質の高い霊が出たと言う聖書とは全く違う教えを教えられて

しまっているのです。質の高い霊?質が違う?神の中にはそんな別種の霊など存在などしない。

昨日も今日も永遠に同じ!と説明しているからです。

人間の教えが語る様に、神の教えとは違う別の福音が語る様に。

 

エデンの中の一番の喜びは、単純に創造主である神と人との神が造られた本来のデザイン通りの親しい交わり!

喜びの源泉は、神がデザインした通りを生きる事、

神の性質を生きる事の中にあるのです。

 

これをコンパクトにまとめたものが、神の記念日の中での祝宴。

秋の仮庵の祭りは、私たち自身が、五感を通して、肉眼でこの

来るべき時に体験するものを今地上で体験しリハーサルしているのです。繰り返し繰り返し神と人とご馳走と喜びと交わり、

会話の中で体験する特別な時を通して、神と神の子らが誰にも

何にも邪魔されない祝宴の時を祝う事で神がその中に現れ教えているものなのです。

 

だからシャバットや祭りでは止まるのは、目に見えない神の臨在の中で、この喜びの交わりに集中して楽しみ、体験するためでもあるのです。他の事に意識が削がれない状態で特別に聖別された

時をフルに満喫する。

 

イエシュアは同じ考えを教えていました。

私達が義の実態を生活の中で生きる事に熱心になるのは、

来たるべき世界では、神と共に相まみえる日、

神の永遠の審判が語られる日に向けて準備しているからです。

 

マタイ7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって

『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したでは

ありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

 7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない。=神の婚姻契約に書かれた生き方に留まる生き方をしないなら、知らない=契約の中に住む親しい関係では無い。

不法=トラー=モーセの五書に書かれた神の教えでは無い生き方をする=を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

どれほど、神の言葉を否定して、人の教えを支持して生きているのか、その良い例が書かれているのです。

 

私達が神に言われていることは、神の言われた通りを生きる事です。自分の肉の目が剥がれない頭脳に理解しやすい人の教えを

生きなさいと神は言ってなどいないのです。

自分の基準で仕分ける神の教え、神の言葉を捨てた、神の言葉を別物の教えで薄めた、神の言葉の評価低くした教えを正当化して生きるならそれはズレた暴走に走ってしまいます。

見かけは立派に見える神の目にはズレた暴走。

聖別とは神が伝えた意味通りを知らなければ理解出来ないもの

なのです。知らない間に汚れと交わり神の子らの姿から離れて

しまいます。

 

自分が良かれと神の前に熱心にやっている事を通して

実は神を汚し自分を汚し、世界へ誤ったイスラエルの神の性質

実態を紹介し続けている。神が言われた事を横へ追いやって

生きていることは、神の言葉に戻らない限り気がつけないもの

だからです。

 

イエシュアがマタイ7:22で警告しているのは、偽預言者

偽教師の教えです。

彼らは、羊の衣をかぶった実はオオカミであると教えています。

外側は、神の義を装っているかの様に見えますが、実は中身は

羊達を貪り食うオオカミです。彼らの願望は外側では義、

でも内側の本心は、神の教えに叶った事をするのを忌み嫌っています。神の言葉、教えを忌み嫌うとはそう言う意味なのです。

サタンは神の言葉を忌み嫌っています。

サタンとは、神に敵対するものと言う意味なのです。

神と神の言葉に敵対する=サタンの性質なのです。

 

イエシュアは、彼らの実が本来の性質を表すと教えています。

義の実とは、神が示す本当の義の性質=神の言葉に根付いたものなのです。

でも、多くの人は、外側の義の装いで羊を騙すのです。

でも、彼らは、全てを裁く本物の主の前では神を騙せないのです。

ヘブル4:13

そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

この様に、イエシュアが言われた厳しい言葉、”わたしから離れて行きなさい”と言う下り。厳しすぎますか?いや当然です。

神は偽物と交わり合えないからです。

神は自分の性質に合わないことを言う、教える、行動することを

断固として拒絶しています。

 

 

 

続く