預言的福音の祭り 礼拝とは全て神の記念日 レビ記23章にまつわるもの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

仮庵の祭りの第七日目が月曜日没から火曜曜日の日没まで。

そして第8日目の聖会が始まります。

 

שְׁמִינִי עֲצֶרֶת‬  シェミニ=第8 アツレッツ=集会と

呼びます。 7日間の仮庵の祭りを過ごし8日目を迎えます。

 

聖書に”礼拝”と訳されている言葉がありますが、神への礼拝、

皆が集まる、賛美、喜びとは全て神の定めた記念日=

レビ記23章にまつわるものなのです。

 

詩篇は5つの本に分かれています。モーセ、ダビデ王、コラ

その他の著者で書かれたものです。クムランの洞窟で他の詩篇も発見されましたが、聖書としては現在あるこの5つの詩篇だけが選ばれたものになっています。

5とは、ユダヤ人の世界ではモーセの五書と言うことに繋げるのです。詩篇はモーセの五書を語っていると言う強調でもあります。聖書のどの箇所もどの書も全て100%モーセの五書を

さして語っているのです。

詩篇113 ー118は、出エジプトにまつわるもので、

春の祭りの過越の祭りの時に読まれるものです。

イエシュアもパリサイ派の伝統にのっとり、処刑される前の晩、最後の過越の晩餐=セーダーと呼ばれる晩餐をしたのです。

この時にこの詩篇を読んだのです。

 

そして、詩篇120から134は、三大都祭り、過越、

シャヴオート<ペンテコステ>そして秋の仮庵の祭りの時に

エルサレムに向かう旅路で歌い、神殿の中で歌ったのです。

 

118編にある、”この日は主が作られた。この日を我らは

楽しみ喜ぼう”とありますが、この箇所も過越の祭りを喜び

歌っているものなのです。

 

聖書の中に喜び楽しみ礼拝、主の日と書いてあるものは、

それらは全てレビ記23章の神の記念日にまつわる日です。

 

礼拝の真髄は、エルサレムの神の家のテーブル=祭壇=親しい

交わりをする、神と顔と顔を合わせる、神を中心に人と人が顔を合わせて修復された現実を体験する、捧げられた動物の

バーベキューでローストされた匂いと煙が立ち上る場所で

表されています。

 

神への礼拝とは、常に神の家の神の祭壇の周りで行われるものです。

それが礼拝の原点であり神が全世界に伝える神への近づき方

関係の持ち方、神が指定する通りの礼拝を伝えているのです。

 

いやどこでも礼拝出来ます!と考えますね。その通りです。

エルサレムに住んでいた人はどの時代でも人握りの人達だけです。

でもその礼拝の意味、原点は”神の家の祭壇”が基本、モデル

神の家の中でされている事を通して、礼拝の意味を教えているからです。天にある神の家の地上でのそっくりそのままのレプリカ

天の現実を地に投影している影なのです。

もちろん異邦人、ユダヤ人でもエルサレムに行けない人は

古代の人でも大勢いましたし、現在は未だ神殿がありません。

 

ここで教えているのは、天の家のモデル!これがザ 礼拝!と

言うものを神の家の祭壇=テーブルで教えているものなのです。

だからトラー=モーセの五書を学ばなければ神が指定する

神への近づき方の本当の意味は見えてこないのです。

人が勝手に編み出した近づき方で神には近づけない。

神が指定した通り。神は最初から神の業で人が神の前に義とされている事を神の祭壇で教えているのです。

その意識からずれた意識で神の前に出ても神との本来の近しい

向き合い方は出来ないからです。

 

生贄なんて血みどろでひどい神だ〜!なんて考えていませんか?

太古の世界はお金持ち以外、イスラエルでは年に三度の都上りの

祭り以外普段は肉なんて滅多に食べる事が出来ないのです。

なぜ?動物は、自分達の生活を支える家畜だからです。

 

現代は毎日でも肉を食べれますね。スーパーに行けばなんでも

手に入る。でもそれだって毎日の様に大量に屠殺されているのです。ちゃんと考えて行けば自分の想像している世界とは別の、

神が教えている世界が見えてきます。

 

傷のないきよい動物=イエシュアが捧げられて私達は神の前に

かげりなく立つ事が出来る。動物を焼く匂い=芳しい香り

そして立ち上る煙は天の中に吸い込まれて行く。

神がどれほど一人一人神の前に神の伝える意識で出てきなさいと

教えているのか見えてきます。神の火で完全にきよめられて、

神の中に受け取られている事実が祭壇の上で表されている。

贖い、救い、赦しの事実は最初から教えられています。

 

今日もクリスチャンとフェローシップの時を持ちましたが

西洋神学が教える通り、太古の人は特別な人しか聖霊が

内側に住まわなかったと信じていると言っていました。

人それぞれ様々に違うことを信じているのですが、

神の言葉はそれぞれが信じる通りに変形したりするものでは

ないのです。

だから神が伝えている意味通りを知る必要があるのです。

 

聖霊が内側に存在していることは、最初の最初から書いてあります。

 

”神が吹き入れて人は生きるものとなったと書いてある通りだからです。土から造られた人が生きるものとなったのはどうしてか?神に何を吹き入れたのですか?”神の息”です。

息=霊と同じ言葉です。

 

そして本来の状態=神との関係、人との関係、本物の自分から

飛び出た理由は、神が人の食べ物ではないと言われた善悪の知識の木から食べたからです。 

神が言われた事、神が意図して造られた通りをしない事、

これらは全て神との隔たりに追いやるものなのです。

今もその法則は変わらないのです。

あなたは〜をする様に造られていて、〜〜をする様には造られて

いませんと言うシンプルで明確な神の教えに対して人は真っ向から古い教えであると反対しているのです。

 

どの時代もどの人種でも、神と直接出会い、神の教えを聞いて

信じ内側に神の霊を受けて生きていた人達は存在するのです。

現代も過去も全く同じなのです。どの時代も。どの人種でも。

 

古代は現代の様に印刷機もなければ聖書が完成した形にも

なっていない時代です。個人個人が直接手元に聖書を持ち

神の言葉を読むことなど出来なかった。

でも神が個人個人選び出した人に同じ神のトラーを伝えていた

事実が聖書には書かれています。

ユダヤ人はトラーを丸暗記しているのです。

 

今現代で、ネットでも書物でも聖書は手に入りますが、

それでもイスラエルの神を信じて生きている人の方が少ないでしょう。まして1世紀当時のイエシュア信者達の様にトラーを

現代では生きていない古代も現代も同じなのです。

クリスチャンの世界の教えは、昇天以降はより優れた教えが

出現したと完全に誤解していますが、イエシュアが語られた内容は100%父の言葉=モーセの五書です。モーセの五書の生き方に戻れ!と言う預言書と、モーセの五書を生きる知恵が書いて

ある諸書だけが存在している時代です。

 

イエシュアが地上に来られた前と後とでは何が違うかと言うと、モーセの五書に書かれた神が創造された本来の人間の性質を

100%神の意図通り生きた人はイエシュア以外人類の中で

存在していなかったのです。

 

その点では、今までに見たこと聞いたことがない、実際に

神の教えを、神の意図通りに理解して教え生きる人=イエシュアが登場した!これが一番の違いです。

 

 

続く