仮庵の祭りの中のシャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

仮庵の祭りの中の第七日目のシャバットを迎えました。

創造主は最初から、独自のオリジナルである”神の記念日”を

設けられた事実は永遠に変わりません。

人間が歴史の途中で神の教えや神の記念日を作り変えても、

神が永遠不変である神の言葉、記念日と言われたものは途中で

無効にはならないからです。

 

いつ神は神の言葉は途中で廃れて破棄されると言われましたか?

神は永遠と言われた言葉を歴史の途中で実は一時的であったなどと言う嘘を言いましたか?

神はいつ神のシャバット=第七日目と神の記念日と神の教えを

変えたと言われましたか?

いつ神のオリジナル創造の記念日を捨てて、日曜日礼拝や

クリスマス、イースターをイエシュア信者は祝うように神が

人に教えましたか?いつ神は道徳的教え以外は全て無効になったと言われましたか?聖別の特徴の1つ、日々の印である

レビ記11章がいつ終了になったと神が言いましたか?

 

この記事を読んで下さった方で、以前の私と同じ様に、

聖書に書いてあることと誰かが語る教えと違うことに矛盾を感じたり宗教の教えの方に縛りや窮屈を感じたりしていると言う方、

ぜひ、聖書に書いてある通りの答えを聖書の中からだけ見つける

事をお勧めいたします。

 

長年伝統で語り継がれたからとか、みんなが信じているからとか、偉い有名で人気のスピーカーが話しているから間違えない!と考えるなら、それらの基準が物差しなら、間違いには気が付く

事が出来なくなってしまうでしょう。

 

巷で有名なスピーカー、ネットの世界でどれほど聖書とはかけ

離れた教えが流出しているのか愕然とします。星の数ほど偽の教えは蔓延して居て、聖書に書いてある神の語る、真理、真実を

知らないなら、ドンドンそれらしく耳に心地よい教えや受け取りやすい教えを真実だと信じ込んで行ってしまいます。

神の言われた事を捨てることは、安全ガードを脱ぎ捨てる危険な

行為です。私達を危険に晒せ、汚れと混じり合っても気が付かず

神の子らとしての聖別を汚されてしまいます。

今や預言者育成訓練?異教神の世界の口寄せ霊媒師訓練と同じ事が行われている終わりの時代なのです。神の言葉に根付かない

教えほど、自分の空想、発想で作り出された教えがどんどん

一人歩きしネットの世界を駆け巡ります。日本語圏は日本語だけですが英語圏などものすごい数の偽の教えがあります。

 

神がいつ神の言葉を終わらせて、神の記念日を終わらせたのか?

これらの問いに対して聖書の中から答えを見つけようとすると

”神の言葉が永遠不変で変わらない”と言う答えしか書かれておらず、神が神の言葉を途中で無効にしたとか、終わらせたなどと

一度も書かれてはいない事を聖書の中から答えを発見します。

 

聖書の真実だと疑いなく信じている伝統で語り継がれている

聖書に反する人が作り出した虚偽の教えの数々を聖書であると

誰かに教え続けるならばその行為は、永遠不変の神の言葉を否定する不真実な教えを教え続けてしまう、愚かな行為に参加して

嘘を真実だと他者に発信し続けてしまう事になるのです。

 

自分が言ってはいないこと、自分が発言した事を否定される事

誰でも”待った!”をかけますよね。それが神が言ったことに対して、人が薄める、曲げる、一時的であると否定し続けるなら、

それは神に対してどう言う行為なのかきちんと考えるべきなのです。神の言葉を否定することは、死に匹敵する行為である自覚が異邦人の中には無いからです。

死=隔たりの場所へ飛び出る、神の前に無価値、羽のように軽い本来の姿とは遠い存在になる事でもあるのです。

 

古代ヘブライ語の中には”約束”と言う言葉がありません。

単に”話す” ”語る”です。なぜでしょう?神が真実を語る、

神が語られた事を神が必ず実現するからです。神の言葉は永遠に決して廃らないと言われました。それが事実だからです。

神が語られたと言う記述が無数にあります。

イコール神の口から出た神の教えは永遠不変です。

神が神の言葉に対してそう紹介しているのに、人が神の上に立ち神の言葉に様々な評価を下して、古い教えは終わり!と

否定し続けているだけなのです。

 

神の言葉は完全!と神が言われた通りに、神の言葉に古い教えも、新しい教えも、劣る教えも優れて進化した教えも

神の言葉の中には無いのです。

イエシュアが語られた事は100%モーセの五書にマッチして

居ます。使徒やパウロが語ったことは100%モーセの五書に

マッチしているのです。

 

もしパウロが神のトラーを否定する教えを一度でもするなら、

パウロは偽使徒として聖書となる書簡を書く人物ではなくなるのです。異邦人の世界で2000年間おろそかにされた事は、

忠実に聖書に書かれている意味を内容通りに学ぶ事です。

神の言葉を学ばないと言うことは絶対的基準、神からの手引きが無いと言う事です。神が定義するすべて、福音書〜黙示録に書かれている内容は100%トラーを語っているのです。

 

大衆に信じられている教えは、実は聖書の事実ではなく、

人の作った教え、進化論と同じ、神の言葉の進化論説なのです。

 

神は最初の最初に、聖別の意味を”シャバット”で教えました。

神の子らはこの世生き方と境界線が分かたれている事実、

印を神が与えています。

そして神との関係に在る”印”として、シャバットを与えられていると書かれているのに、神に与えられた婚姻の印=永遠の契り

証拠で在る印を捨てる!と言う行為がどんなに愚かで悲しい事

なのか。。。結婚指輪は婚姻した相手から受け取るものです。

それを捨てる人はいないでしょう。離縁しない限り。。。

結婚指輪を捨てよ=婚姻契約を破棄せよ=シャバットを

破棄せよ、同じ事です。

 

だから今の世界の西洋宗教は異教宗教と区別がつかないくらい

非聖書的な人の教えが混じり合い、非聖書的教えが蔓延しています。何が聖書の真実なのか聖書に書いてある通りを学ばないなら

嘘か本当か見分けられないのです。

伝言ゲームのごとく、聖書の何も根拠の無い教え=人から聞いた人が作った教えにまた輪をかけて創作付け足しし、永遠不屈の

伝説に作り上げて伝え続けてしまっているからです。

モラルの基準も低くなり、タガが外れた状態に陥ってしまった。

善が悪、悪が善、なんでも受け入れるのが愛と創造主が言われた

事とは全く違う教えが浸透してしまっています。

 

なぜでしょう?神の教えを捨てたらまよい出るとある通りだから

です。

 

きよいものと汚れの区別=聖別の意味も聖書から知る事がないので、分からないままになり、異教徒と同じ様な生き方をして

それらのものと混じり合っても何も違和感感じない。

何が神の前に汚れかきよいものか分からないからです。

それは神の聖別の定義が神の言葉から理解していないからです。

 

律法は廃れた〜と言う教えは、聖書に書かれた、イエシュアが

教えられた事実が見えていないからだと思います。

 

イエシュアが正していたのは、ラビ達=人間が解釈していた

”神のトラー”=モーセの五書の理解がずれていて、そして人間が

編み出した様々な教え=口頭トラー=律法の行いと当時呼ばれていたラビ達定義の細かい教えを生きていた事をイエシュアが

正して、本来の意味に戻して教え直していたのです。

そして100%天直送の父の教え=トラーの真髄、生き方を

実際に地上で生きて人に見せて下さったのです。

 

イエシュアは聖書を書いていませんね。不思議に思いませんか?

使徒達がイエシュアと生活をする中で、イエシュア版、天直送版

神直々の神の言葉の意味の解説=”口頭トラー”を使徒達が直接

見て聞いて体験したのです。

 

だからヨハネの手紙の最初にはなんと書いてありますか?

 

1ヨハネ 1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、

目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、

いのちの言について――

1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるので

ある。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、

今やわたしたちに現れたものである――

 

いのちの言葉=文字で書かれたトラー=肉体をとって来られた

トラー、イエシュア。直接イエシュアと共に生活し体験した事。言葉=トラー=肉体を取って来られたと

ヨハネの福音書の冒頭でも説明しています。

 

ヨハネ1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。

言は神であった。

 1:2 この言は初めに神と共にあった。

 1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 

1世紀のユダヤ人が聞いて理解していた通り、聖書に書いてある意味通りを知れば何を話しているのか見えてきます。

 

 

続く