秋の祭りは、ショーファーを鳴らす日から始まります。
第七の月の1日。王が到来する!目を覚まして準備せよ!
10日後の全世界が神の前に立つ大贖罪日を迎え、
そしてその3日後に仮庵の祭りが始まります。
春の祭りはイエシュアの最初の地上への到来を表す祭りであり、秋の祭りはこれから来る第二の救い主の到来=再臨を表す神が
創造された祭りなのです。
神のオリジナルの記念日=レビ記23章は全て福音の中心、
イエシュアを表すものです。再臨について熱心に話されるのに、
再臨を表す神の記念日を私は知らなかったし、教えられたこともやった事も13年前までは全くありませんでした。
現代のクリスチャンと1世紀当時、弟子たちやパウロが居た
当時の信仰とは全く違うものになっているのです。
1世紀のイエシュア信者は、皆神の記念日を祝い、神の教え=
トラー=モーセの五書を生きていた!それが聖書の永遠の事実。
現代の信仰の土台=その大きな柱は”永遠不変の神の言葉が呪いの律法でそれを救い主が破壊するために地上に来られた”と言う聖書の事実とは全く違う前提で神の言葉を取り扱い教えている
事です。
人間が神の言葉に有効、無効などと言う権利は全くないのです。人が神の言葉が今無効、この教えは嫌いとか拒否して良いなどと言う権利も無いのです。それなのに人類宗教歴史がそれをし続けて来てしまったのです。
人がどう思うと考えようと、神が神ご自身の言葉は永遠不変と
紹介しているのです。神の言葉は完全と神が人に説明しているのです。それを人が認めるのか認めないのかに関係なく、
神の言葉の真実は永遠に堅く立つのです。
1世紀当時は、イエシュアに出会った人達は全て”シナゴーグ”
ユダヤ人のグループに交じっているのです。
しかもイエシュア信者はほぼ全員ユダヤ人です。異邦人は少数。
1世紀当時救われたら、キリスト教会と言うのがあって、
ユダヤ人は会堂へ、クリスチャンはキリスト教会へ集っていたと考えていませんか?
1世紀のイエシュア信者はクリスチャンとはユダヤ人の世界では呼ばれず、ナザレ派=その道と言う風に呼ばれていたのです。
パリサイ派であれサドカイ派、エッセネ派、ナザレ派であれ
全ての人はモーセの五書を神の永遠の教えとし、生きていたのです。その内容が多少異なるだけで。
1世紀当時は、現代の様なキリスト教会のグループなどは
存在していないのです。しかも4世紀から中世16世紀までは
カトリックしか存在していないのです。
プロテスタントなる宗派も存在していない。
使徒の記録を読んでも明らかに分かります。
15章のエルサレム会議の中心に居たのは、”パリサイ派”です。
パリサイ派の中に、異邦人イエシュア信者=異邦人信者を迎える場合に最低限どうしても知らなくてはならない、トラーの教えの4つを異邦人達は知ってこれに違反しないでください!と決めたのがその会議の趣旨です。聖書の事実だけを繋げてよく考えて
行けば、自分の中にある想像や空想と、聖書の事実が異なる事を
発見するのです。
パウロが週一度の記念日を祝ったのは、第七日目のシャバットです。そしてシャバットで教えていたのは、モーセの五書であり、しかもユダヤ人の会堂の中でです。
聖書に書いてある通りに読んで、勝手な憶測で作り話を創作せずに、神の言葉の事実だけに立って聖書を読まないとならないのです。
教会と言う言葉も誤解を与える造語です。便宜上使っていますが、教会と言う翻訳は聖書にある元のヘブライ語やギリシャ語を全く反映していない言葉であり、意図的に福音書以降、
同じヘブライ語の神の家族を表す、カハール、ケヒラ<ギリシャ語ではエクレシア>=神に呼び出された人の群れと言う意味の
言葉を、教会と言う造語翻訳をあて、タナック=トラー、
預言書、諸書では、集会とか群れと言う教会とは違う言葉で
訳しているのです。
教会=クリスチャン、キリスト教。集会、群れ=ユダヤ人ユダヤ教と言う印象を受けませんか?2つ別物であるがの如くに。
翻訳でこんな操作をされたら神の言葉の本来の意味が全く伝わらず、イエシュアが来られた後は別グループの神の家族と別の教えが出現したと言う置換神学がやデイスペンセーション神学が
唱える様な教えが創作されてしまうのです。
同じオリーブの木に接ぎ木された。同じ木=イエシュア。
同じ1つの羊飼い、1つの家族=群。
イエシュアはイスラエルの羊以外に別の羊がいると言われました。その羊を同じイスラエルの羊の囲いの中に加えると説明しているではないですか?書いてある意味を1世紀のユダヤ人が
聞いて理解していた通りの理解に戻さない限り聖書の内容を
人の教えで創作し直した解説をし続けてしまうのです。
ヨハネ10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
ローマ11:24 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
神の言葉をどの部分でも曲げたり変えたりしたら、正しく測る
物差しがなくなり曲がった物差しを持つ事になってしまうのです。曲がった物差しに照らし合わせ続けても真実は見えない。
染色体の46本をどの部分でも破損したら元の姿が再現されなく
奇形が生じます。
神の言葉のDNA 染色体を破損する行為、神の言葉に付け足し
差し引きして来た行為、それが2000年間の間に平気で行われて来てしまったのです。
ちょっと横道に逸れますが、これは聖書の事実だと常識的に
信じている様々な事は実は聖書に何も根拠が無い人が作った教えが世界には蔓延しているのです。
神の言葉に有効期限があると言う教えもそうですが、
例えば誰でも知っている言葉があります。
”ルシファー”と言う言葉です。これは日本語の翻訳には
”明けの明星”と書かれていると思いますが、
英語ではルシファーと訳されたりしています。
キングジェームス翻訳版ではそう訳されています。
そしてルシファー=サタンと解説しています。
この大元は翻訳はラテン語翻訳のヴォルゲート。
イザヤ14:12です。
ヘブライ語でその言葉が何と書いてあるのでしょうか?
イザヤ14:12 黎明の子、明けの明星よ、
あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、
あなたは切られて地に倒れてしまった。
| ルシファーと訳されているヘブライ語は”הֵילֵ֣ל”ヘレル。 日本語では明けの星ですね。そして黎明の子とあるのは、 ベン サハール=サハールと言うのは朝いちばんに出る光の事です。ベンは子=息子です。サハールと言うのはイスラエルの 男女問わず名付けられる名前です。この箇所で語られる人物はサタンやルシファーなるものではなく、”バビロン”の王を指して話しているのです。 2ペテロ1:19こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。 この箇所をヘブライ語にすると単に”光”=オルと言う言葉で 表されてルシファーなる言葉など出てこないのです。 尾ひれえひれが付き創作され続けて不朽の伝説となって定着し 聖書の真実だと信じ込まれてしまっている不真実な教えや不正確な聖書解釈が数多く存在してしまっているのです。 パウロの書簡の内容も、パウロがトラーを否定した別の教えを していると完全に誤解されている数々は全て誤解、間違いなのです。パウロは100%トラーを支持し教え生涯生きたのです。その事実が書かれているのにそれは素通りされてしまっているのです。 もう一つあります。こんな教えを聞いたことがありませんか? 大贖罪日=ヨム キプルに大祭司が至聖所に入るときに足に ロープを付けてそして鈴をつけていると言う話。大祭司が 不具合をした場合死んでしまうので、紐で引っ張り出すと言う 話です。何かあった場合、至聖所に入れる大祭司は一人以上 いますから、そんな事をする必要などないのです。 私はアメリカのとある有名なパスターからその話を聞きました。 それって本当にそんな事実が歴史の中にあったのでしょうか? ミシュカン=移動式神殿が初稼働する時に、アロンの息子達 ナダブとアビフが神が天から祭壇に下した火では無い自分たちの手で起こした火を持って至聖所に入り死んだ話から、それを元に誰かが創作した話なのです。そんな教えや歴史的にそんなことが神殿で行われた記録はどこの文献にも見つかりません。 レビ記16章を読んでも、そんな大事な事なら書いてあるはず ですが、そんな事など書いてないのです。 しかも、年に一度の大贖罪日に至聖所に入る時は祭司達は 普段の紺碧の衣服ではなく、単に真っ白い服に帯を腰に締めるだけの簡素な服なのです。 そう言う創作話がイコール聖書の事実だと語り継がれてしまっているのです。その代表作が西洋神学の中で語られるイスラエルが退けられ異邦人が新しい契約を得たとか、怒りと恵の時代 怒りと恵の神、7時代ごとに変形する神の教え、義の基準など 人が作り出した教えを信じて聖書を曲げて読んでいるのです。 残念ながら1世紀後半、特に70年の神殿崩壊後、ローマ帝国がユダヤ人を大量殺戮し、エルサレムから追い出し、そして |
神の永遠の教えや祭りをする事を重税と死刑を持って禁じたのです。神が教えや祭りを変えたから現代祝わないのではない。
人が歴史の中で神の言葉を生きることを禁止して来た、
そして同時並行で既に異邦人の中に”反ユダヤ””反神のトラー”
意識の教えが作り出され始めてしまったからなのです。
続く