2テモテ 3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
パウロが書簡を書いている時代は、パウロの教科書は100%
トラーだけなのです!1世紀使徒達が生きていた時代は、
福音書以降は一般に人目に付く様に、流通していないのです。
1世紀当時の信者達は、タナック、主にトラーだけを学んだ
事実があるのです。
福音書以降は、聖書としてパウロが書簡を書いている時代には
完成しておらず、形が出来ておらず、存在しないのです。
しかも事実、福音書〜黙示録は100%タナック=トラー、
預言書、諸書の解説でしかないのです!
モーセの五書の中に人の生きる全ての詳細と、罪の定義、
命と死に繋がる両方の生き方が書かれています。
その詳細は福音書以降繰り返し書かれていません。
トラーを知っていると言うその前提で、イエシュアが当時の
ユダヤ人達に語られているからです。
これは、ある1曲の曲の冒頭=イントロだけ奏でたら
何の曲か全体が分かると言う前提で話しているからです。
ラメズと言う方法の話し方なのです。
福音書以降には、モーセの五書に書かれている罪の定義の細かい
詳細も書かれていません。
例えば、堕胎について、幼児性愛、動物に対する残虐、
法廷の中での偽証言をする事、獣姦、女装、男装する事、
などなどの細かい定義、詳細のこれらは福音書以降には
書かれていません。
パウロの書簡で不品行や、男が女の格好をする、同性愛について
警告が書かれていますが、それらの罪が何なのかの詳細は
書かれていません。
それはモーセの五書に全ての規定=命と死、祝福と呪いの全てが
書かれているから、重複して福音書以降には書いてない内容が
たくさんあるのです。
”わたしはイスラエルの失われた羊の元だけに遣わされた”と
イエシュアが言われました。
その意味は、トラー=父の言葉=婚姻契約=モーセの五書を
知っている選びの民の所にまず来たからです。
モーセの五書=神の教えを知らない異邦人の所に来ても
イエシュアが話している意味が分からない、イエシュアが
トラー、預言書に書かれた救い主であり、神であると言う知識がない=聖霊が内側に住まわない異邦人に話しても意味が通じないからです。まず、選びの民=ご自分の民の所に来られた。
それは、イスラエルが世界へトラーを教えるミッションを与えて
いるからです。”み言葉はシオンから出て”とある通り、
福音はユダヤ人を通して世界へ伝えられた事実があるのです。
この事実にクリスチャンの世界の教えでは完全に空洞で、
福音書以降はトラーを捨てた別の教えが書いてあると
盲目的に人間の作った異邦人思想哲学を信じているのです。
イエシュアは、使徒は、パウロは100%トラーを支持し
トラーを教え、トラーの内容を一生涯忠実に生きていたのです。
2ペテロ2:16にある聖書とは、トラーです。それに付随する預言書、諸書。でも聖書の中核はモーセの五書なのです。
パウロはモーセ五書のから全てを教えている!異邦人の世界で
モーセの五書の中に書かれた人の生き方を教えている!と言う
永遠不変の事実はクリスチャンの世界では封印されているのです。
ガラテヤ3:19 <新共同訳>では、律法とはいったい何か。
パウロは、むしろモーセが仲介者であり、そしてトラー与えた
使者として解説しているのは、ユダヤ人の耳には”賛美”である
と響くのです!なんと素晴らしい役割を神から与えられたのか!と言う事であり、軽視や不賛成、ブーイング的な意味は無い!
この箇所で、口語訳に書かれている、”制定されたものにすぎず
と言う”すぎず”と言う言葉はギリシャ語原文には無い、
そしてこの言葉自体が不適切な表現をするニュアンスを
醸し出してしまっています。
これは、コロサイ2:16で曲げられて解釈されている内容と
全く同じです。
コロサイ2:16に書かれた言葉と全く重なる、ギリシャ語
言語に無い言葉〜すぎずを入れて意味合いを変えてしまって
いるのです。
塩味だったのに、マヨネーズを足して元の味とは別の味に
変化させた料理と同じことをしているのです。
この様な翻訳は、時代ごとに七へんげの神、神の言葉は変化し
終了すると言う、聖書とは全く違う教え=デイスペンセーション神学を信じる人が訳せば、こう訳したくなるでしょう。
自分の神像や聖書観を、翻訳用語で証明したいからです。
コロサイ2:16だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、
それと同じに、ガラテヤ3:19 〜に過ぎずと言う言葉も
言語に無い言葉であり誤解のニュアンスを生む言葉です。
かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。<口語訳>
天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
<新共同訳>
翻訳で受ける印象がまるで違います。翻訳では原典に書かれた
意味が失われたり、隠されたり、変形する事が可能だからです。
だから聖書とは異なる思想で、不適切な翻訳がされたものから
書いてある本当の意味は読み取れません。
でも神の言葉が永遠不変と理解し、パウロが100%トラーを
支持し、トラーを語っていると言う事実を知るなら、
臭い箇所は、書いてある内容をじっくり前後左右読む必要があります。
大元の問題は、トラー=モーセの五書をちゃんと学ばないから
何が書かれているのかその事実がその通りに見えない!
本当にそれに尽きるのです。
正しい聖書解説をする人は、原典聖書に書かれた意図通りを
じっくり学び、自分の中で正しく消化して解説しているのです。
そうでなければ、翻訳聖書を人間の思想=神学、哲学思想で
読んだら、それこそユダヤ人は律法で滅び、異邦人は神の言葉
教えを捨てて勝利した!などと言うスローガンを編み出し、
永遠不変の神の言葉を退け、捨てて、人の教えの方を信じ込んでしまうのです。
パウロは、ガラテヤの人達にアヴラハムを通して与えられた
”義”とされた事だけを強調されるのだとだけ言っているのでは
無いのです。
そう言う考えをしないで欲しいと伝えているのです。
義とされた事実だけあれば、後は、神の教え=トラーに書かれた本来の人間の姿を生きるなどは大事ではない、神の教えは価値がない、生きる必要がない!などと言うそんな事を考えるなかれ!それから遠く離れた事をパウロは強調しているのです。
パウロはシンプルに、トラーは、神から直接与えられた言葉=
教え、インストラクションであるとガラテヤの人々に伝えているのです。
神の贖い、救いのプランはトラーの中に全て網羅されている!
そして、人は神の教え=トラーを生きる様にデザインされている。神のトラーの中には、神が創造されたオリジナルの人=
イエシュアの性質を生きる詳細が書かれていて、人は神の教えを尊重して聞いて、その通りに生きる時にフルに神の性質を
生きて、エデン=喜びの中に留まる状態になる!
続く