その2  誤解されたパウロ像とパウロの書簡 ガラテヤ3章を本来の意味で読み直す 再検証  | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

日本語の訳では書かれ方が違いますが、こう書かれています。

 

ガラテヤ3:19

トラーは、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、

違犯を明らかにするために付け加えられたもので、

天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。

 

パウロは一貫して同じ事を話しています。

ギリシャ語の”χάριν=Charinと言う言葉は、目的、目標

ゴール〜何かをさして、または続きとして使われる言葉です。

ローマ10:4に意味内容とぴったり繋がる内容です。

トラーの中には、ズレ=罪、違反に対して神がどの様に対処するのかが書かれています。

 

10:4キリストはトラーの目標であります、

信じる者すべてに義をもたらすために。

イエシュアはトラーの目的=集大成である。

トラーに書かれたものが地上で人として表された、人の生きる

目標そのものである。信じる者に義をもたらすために。

ローマ10:4はガラテヤ3章と繋がっているパウロが

同じ内容を話しているものです。

 

トラーは、人が違反や罪を犯した時に、神が恵みのやり方で

どう対処するのか教えていると書かれています。

それは、”きずのない動物”と言う代替えを通して教えています。

トラーには、罪やずれに関してだけ書かれているのでは無いです。モーセの五書は人間が生きる領域100%全てに関して網羅して書かれているものです。

 

パウロが”種=約束された救い主が来る時までと書いています。

この”〜迄”と言う言葉、ギリシャ語ではἄχρις achri

ヘブライ語 דַ ע’ アド この言葉の意味は”あることが起こるまでの継続して置かれる指標”と言う意味です。

 

神が”人の違反、ズレ、罪に対しての贖いの業を、”イエシュア”のされた業が全ての中心として語られているのです。

イエシュアは、永遠の領域から地上に実際に人として生まれ、

神が永遠の領域の中で支払い済みの”代価” ”身代金”を

実際にその事実の支払い済みである事を、イエシュアを通して

地上で実現されました。

イエシュアと言う究極の生贄=コバーン<ヘブライ語の

意味は、生贄ではなく、引き寄せる、近づくと言う意味>

通して、トラーに書かれた代価を払われ買い取られ、修復された

事実が地上でも表されたのです。

 

種=救い主の到来迄と言う意味は、イエシュアが来られたら、

トラーはもう価値が無くなりましたと言う意味などでは

無いのです。

トラーに書かれた”生贄システム”の詳細、内容は、イエシュアが実際に地上でされたことにより”最も明るい3 D,4 Dフル映像で

実際に人に示されたと言う意味です。

 

日本語の口語訳では、”何々にすぎず”という翻訳用語を付け足してあたかも、一時的で終わる代替え品ものと言う印象を与えていますが、そんな意味の言葉は、原典にはないのです。

そして、神殿の中で行われる”動物の捧げ物=コバーンシステム”

が無効になったと言う意味でもないのです。

模型で表されていたものが、本物が来てそれを実演した!

中身の意味、実態は同じ!と言う事です。

本体と影と言うヘブライ語の言葉で表されている意味がそれです。

動物の血は罪の赦しは出来ないと初めからトラーに書かれて

いて、聖書の中に登場する人達、古代のユダヤ人達は皆それを

理解しているのです。

クリスチャンの世界では、仮の赦し=キリストが来たから

神殿でのコバーンは終わり!神の教えは終わり!神殿も無用、

と聖書とは違う教えをしています。

ミレニアムの時代が来たら、全世界がエルサレムに来て祭りを

する時、コバーンが再び神殿で捧げられる様になる事実があるのです。動物の血は罪を消さない。神殿の祭壇でされる内容は

全てイエシュアの業を表すものなのです。

 

これらの箇所は、全て未来預言であり、ミレニアムが来たら

神殿で再びシャバット祭りが祝われ、トラーを与えられていない

異邦人=エジプトを代表として書かれているそれらの国も

エルサレムで神の祭りを祝う預言がされているのです。

 

イザヤ56:1 主はこう言われる、「あなたがたは公平を守って

正義を行え。わが救の来るのは近く、わが助けのあらわれるのが近いからだ。

56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、

悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子は

さいわいである」。

58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの

楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、

 58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業を

もって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。

ゼカリヤ14:16〜 ミレニアムに世界がエルサレムで祭りを

祝う様に上ってくる。

贖い、救い、赦し、きよめられ、神の前にさっぱり罪悪感が

なくなるプロセスは正しい謝罪、修復、代価=賠償がされる

事、それを神の家の中で実体験する。神殿に行けない人も

神の教えの中で同じ事を体験出来る。

大元のモデルはイエシュアの捧げられたご自身だからです。

 

パウロが生きていた時代は神殿が存在していました。

ちゃんと考えてみれば分かります。パウロ自身も神殿に入り、

使徒21:21=ナジル人の誓いをしました。

 

ナジル人の誓いする、パウロは動物の生贄を祭壇で捧げ、

トラーを100%支持し、生きて、トラーに反した教えをしたり、反する生き方をしていません!と言う証明を当時のユダヤ人達にするために、ナジル人の誓願を果たした事がはっきり記されています。聖書に書かれた事実だけを繋げて考えれば分かります。

今捧げ物がされないのは、エルサレムに神殿が無い、機能して

いない状態。捧げ物は勝手な場所で、それぞれが捧げてはならない、高き所を自由自在に作り出してするものでは無いからです。

エルサレムの神の家の中で、神が指定した通り以外は出来ないからです。

イエシュア昇天以降、70年の神殿崩壊まで、神殿は機能していたので、動物の捧げ物もされていたのです。

 

19節は、イエシュアの業がトラーに書かれた啓示を

フルに地上で実際にそれが表されたと言う事です。

それでトラーが無効になったなどとパウロが言う訳ないし

言ってもいないのです。

 

19節の最後の箇所、人の手によりと書かれている=これは

ヘブライ語の慣用句であるのですが、モーセと言う仲介者は

御使を通して任命されたとあります。

再び、クリスチャンの解説者はこの箇所を誤解して解説読み込み

しています。

トラー=神の言葉は、神の起源より劣るものである。

Lighfootの解説、考察に書かれている様な考えをしています。

下矢印

神の言葉を歪めて語る異邦人の聖書観

神の言葉をカテゴリーに分類して、神の言葉が神ご自身から出たものであると言う事実を無効、否定する思想です。

”トラー=モーセの五書は、サタンの使いが創作した力である、

律法をグノーシス主義的に理解する方法である。”

 

これらの主張をするクリスチャン解説者は、モーセの五書は、

神が直接語り、神が直接石の板に記した言葉をシナイ山の上=

天の中から直接受け取った事実を全く無視している教えです。

 

出エジプト 31:18 

主はシナイ山でモーセに語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた。

 

パウロが言っても無いナンセンスな言葉を、パウロの口に突っ込み人がパウロの書簡に書かれた意図に反して語らせているのです。パウロがトラーを否定する訳ないと言う基本中の基本を聖書から読み取らず、知らず、パウロがモーセの五書を否定していると誤解してクリスチャンの世界の解説でされてしまっているからです。パウロが何者か理解していないからです。

ユダヤ人でありパリサイの中のパリサイである。

使徒21:21の事実!からずれないで考える。

トラーを否定する使徒は、偽使徒になってしまいます。

そもそもその様な人は、最初から世界へトラーを運び教える役割を神から任命などされないのです。

永遠不変の神の言葉=教え=トラー=モーセお五書を否定する

曲げる偽使徒、偽教師は神の使徒としての神のミッションは

全う出来ないからです。

 

 

 

 

続く