モーセを通して与えられ、神の御使を通して手渡された神の言葉と言う表現は、1世紀のモーセの時代のユダヤ人の中では賛美のモチーフ!神への賛美でありそのものなのです。
異邦人にはその意味は見えないですが、1世紀の信仰の世界の
表現を知れば、パウロが何でそれをそこに書いたのか
理解出来るのです。
現代の、しかも異邦人の世界の教えで、聖書やパウロの書簡を
歪めて読んでいては見えない世界があるのです。
パウロが御使と書いてあるのは、ネガテイヴな意味ではない
トラーに書いてある意味通り、それが賞賛され賛美される
トラーを神から受け取った事実だけを話しているのです。
神の言葉に対して少しでも、劣るもの、変化する、劣悪、不要、破棄、呪い、律法、縛り、一時的と言う異邦人が作った聖書観、
人間の教えを通して考える限り、聖書にある神の言葉の真実は
見えなくなってしまいます。
申命記33:2 「主はシナイからこられ、セイルからわれわれに
むかってのぼられ、パランの山から光を放たれ、ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。
使徒7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖達と共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、
それをあなたがたに伝えたのである。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられたトラーを
ヘブル 2:2 というのは、御使たちをとおして語られた御言=
トラーが効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な
報いが加えられたとすれば、
パウロが強調しているポイントは、トラーは偉大なる神によりもたらされたものであり、それは信頼に値する神の仲介者、
モーセを通してイスラエルを代表として与えられたものである。
パウロは、モーセが”忠実”に神の教えを言う言葉の中で
表しています。ヘブル書にもそれが書かれています。
ヘブル3:2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であった
ように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。
3:3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれる
ように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。
3:4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、
すべてのものを造られたかたは、神である。
トラー=神の言葉、教え、インストラクションの価値、意味は
低くされるものでも、不明、難解なものでもなく、パウロは
救い、贖い、人の生きる詳細の全貌が書かれたものとして、
トラーを神の永遠不変の啓示として高く掲げて
いることを19節の中で話しているのです。
神の言葉=教え=トラーの目的は、契約の民に加えられる手段のためにする!と言うその様な目的であるのではないよ!と
はっきりと伝えているだけです。
神の言葉を実行したから、認められ、義とされ契約の民=
神の国の一員に加えられたのではない!
これはクリスチャンなら誰でも理解出来るでしょう?
救い主に出会った、気が付いた、分かった!たったのそれだけです。何の修行も行いも儀式もしてない、ユダヤ人になる改宗儀式もしてない。
異邦人のルツは、義母ナオミに向かって”あなたの神はわたしの
神”と告白しただけ、それは、ルツはナオミの信じている
イスラエルの神は、自分の神である!一緒にナオミとイスラエルの神に付いて生きて行きます!と言うはっきりとした目覚め、
確信、自覚があったからです。
聖霊を受けたのは、努力や、行いや、修行や、何かのフォーミュラ=なんとかの法則を唱えたりしたりして得るものではない!
これが理解出来ればパウロが諭している本末転倒な別の福音の
教えは偽物!とガラテヤ人に話している意味、内容、意図は
理解出来るのです。
パウロは、義は行いで得られない性質のものである!!!と
クリアーに話しています。それはイエシュアしか出来ないから
それが永遠の中にあるから、イエシュアはその事実を地上に来られて表してくださったのです。もし人が行いで義を獲得出来るの
なら、何もイエシュアが命=代価を支払い贖う必要が始めから
無いと言う事になってしまうからです。茶番劇になります。
人が誰一人自分を購い出す秘訣を持っていないから、イエシュア が代わりに代価=身代金=ご自身の命を投げ出して救い出して
下さったのです。
人が作った改宗儀式をして神の国の住民票を得る必要などない。
神がそれを最初から一方的に与えられているからです。
ただ受け取る!その証拠が創世記15:17-18です。
神が一方的に契約の責任を負う証拠を示しているのです。
それを理解しないガラテヤ人へ、モーセの五書に書かれた教えを
パウロが教え直しているのです。
そして神の家族に加えられた人は、神が伝える本物の人間の生き方=神オリジナルデザインの人=その目標、お手本はイエシュア ローマ10:4=その詳細が書かれているのがモーセの五書=婚姻契約の詳細を神の国の住人は生きるのだ!と教えているのです。
代価を払い身代金を払い義とされている=花嫁にされている!
それが最初!花嫁とされた人は、花婿の家の生き方=婚姻契約の
詳細を生きる!最初の契約は一方的無償提供。逆をするな!と
パウロが言っているのです。花嫁になった後、次に与えられた
婚姻契約には両者の責任が伴うのです!以前と同じ生き方、
異教の神々の教えに混ざった勝手な生き方をするならあなたは
わたしに属さない=無法者=トラー=神の教えを無視して生きる者は、わたしとは関係ない!関係=婚姻契約の関係の中には
無い遠い人=知らない!とイエシュア が言われた言葉に
つながるのです。
この2つの違いをはっきり神の教え=トラーから理解しないから
パウロの書簡を誤解するのです。
トラーを価値下げしているとか、軽視していると言う誤解を絶対に避けよう!と試みて、ガラテヤの人に伝えているのです。
だから、神のトラー=モーセの五書に対して、神の栄光と価値を強調して書いているのです。
パウロがガラテヤ人の中に強調して教えよう、諭そうとしていることは、トラーの本来の意味目的を別の目的やアプローチ=
行いで神の前に義を得ようとか、儀式をして神の国の一員になるとか、ずれた思索、行動、神の教えに対してずれたアプローチが何かを教えている。同時に神の国の一員になった人達は、
神のDNA=イエシュアの性質=神の教えで語られている
人間の本来の生き方!をするのだよ!と言うシンプルで
明らかな事実を語り続けているのです。
トラーの目的=正しい意識、位置に戻さないとなりません。
クリスチャンの世界では、未来、将来に焦点が置かれてばかり
いますが、未来は既に確定しているでしょう。
”神のもとに引き寄せられる!エデンに戻る!”
でもそれまでの間、この世にあって私達神の子らは、
この世のものではない、この世に属さない神の性質を生きて
神の中に守られる!お互いを守る!必要があるのです。
そして世界へ地の塩、世の光、エデンの門に置かれた、
神の契約の箱に置かれたケラビムと同じ役割!神に戻れ!神の
性質=生き方に戻れ!と言う事を世界に散っている家族に
伝える役割がある。それを神が話しているのに、神の教えを捨てたら鎧兜捨てて無防備状態になるのです。又は神の子らの性質とは違う混ざった生き方をして、聖別が汚されてしまうのです。
1世紀後半から、そして中世を経て、1960年代以降、
カリスマムーブメントや霊的奇跡預言体験現象など、
自分の体験中心は教えられても、神の言葉と言う本物のの
命のパン=栄養=成長に不可欠な食物を学ぶ、教える事を
異邦人の世界では、その部分が空洞のまま来てしまいました。
神の国の実態=神の言葉、教え、インストラクションの中身を
教える事なくて、神の国は、国に住まう住民の間で神の性質の
実態が反映されず、衰退した状態になるのです。
学校建てても、中に教える教師がいないならば学校の機能は
果たせないのと同じです。神の国を伝えながら、神の国の人々は
何を生きるのか、神の言葉から教える事がないなら、それは
学び成長発展の無い、パーテイや活動行事ばかりしている学校と
同じになります。
だから、今の異邦人の世界では、神の言葉に何が書かれているのか、オリジナルからも、翻訳からも書いてある通りの意味が
伝えられておらず、神の言葉は破棄されて終了したと言う人の
教えが前提で語られています。
福音書以降に書かれた内容は、抜粋された短い内容のトラーの
解説でしかないのです。聖書の30%しか占められていない理由は
最初の70%に全て書かれているからです。
その70%を短く解説しているにすぎないからです。