神の教えは永遠の中の今を生きる事がフォーカス ガラテヤ3:19を再検証 続き | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセを通して与えられ、神の御使を通して手渡された神の言葉と言う表現は、1世紀のモーセの時代のユダヤ人の中では賛美のモチーフ!神への賛美でありそのものなのです。

異邦人にはその意味は見えないですが、1世紀の信仰の世界の

表現を知れば、パウロが何でそれをそこに書いたのか

理解出来るのです。

 

現代の、しかも異邦人の世界の教えで、聖書やパウロの書簡を

歪めて読んでいては見えない世界があるのです。

 

パウロが御使と書いてあるのは、ネガテイヴな意味ではない

トラーに書いてある意味通り、それが賞賛され賛美される

トラーを神から受け取った事実だけを話しているのです。

神の言葉に対して少しでも、劣るもの、変化する、劣悪、不要、破棄、呪い、律法、縛り、一時的と言う異邦人が作った聖書観、

人間の教えを通して考える限り、聖書にある神の言葉の真実は

見えなくなってしまいます。

 

申命記33:2 「主はシナイからこられ、セイルからわれわれに

むかってのぼられ、パランの山から光を放たれ、ちよろずの聖者の中からこられた。その右の手には燃える火があった。

 

使徒7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖達と共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、

それをあなたがたに伝えたのである。

7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられたトラーを
受けたのに、それを守ることをしなかった」。

 

ヘブル 2:2 というのは、御使たちをとおして語られた御言=

トラーが効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な

報いが加えられたとすれば、

 

パウロが強調しているポイントは、トラーは偉大なる神によりもたらされたものであり、それは信頼に値する神の仲介者、

モーセを通してイスラエルを代表として与えられたものである。

パウロは、モーセが”忠実”に神の教えを言う言葉の中で

表しています。ヘブル書にもそれが書かれています。

 

ヘブル3:2 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であった

ように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。

3:3 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれる

ように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。

 3:4 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、

すべてのものを造られたかたは、神である。

3:5 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしを
するために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実で
あった、

 

トラー=神の言葉、教え、インストラクションの価値、意味は

低くされるものでも、不明、難解なものでもなく、パウロは

救い、贖い、人の生きる詳細の全貌が書かれたものとして、

トラーを神の永遠不変の啓示として高く掲げて

いることを19節の中で話しているのです。

 

神の言葉=教え=トラーの目的は、契約の民に加えられる手段のためにする!と言うその様な目的であるのではないよ!と

はっきりと伝えているだけです。

神の言葉を実行したから、認められ、義とされ契約の民=

神の国の一員に加えられたのではない!

これはクリスチャンなら誰でも理解出来るでしょう?

 

救い主に出会った、気が付いた、分かった!たったのそれだけです。何の修行も行いも儀式もしてない、ユダヤ人になる改宗儀式もしてない。

 

異邦人のルツは、義母ナオミに向かって”あなたの神はわたしの

神”と告白しただけ、それは、ルツはナオミの信じている

イスラエルの神は、自分の神である!一緒にナオミとイスラエルの神に付いて生きて行きます!と言うはっきりとした目覚め、

確信、自覚があったからです。

聖霊を受けたのは、努力や、行いや、修行や、何かのフォーミュラ=なんとかの法則を唱えたりしたりして得るものではない!

これが理解出来ればパウロが諭している本末転倒な別の福音の

教えは偽物!とガラテヤ人に話している意味、内容、意図は

理解出来るのです。

 

パウロは、義は行いで得られない性質のものである!!!と

クリアーに話しています。それはイエシュアしか出来ないから

それが永遠の中にあるから、イエシュアはその事実を地上に来られて表してくださったのです。もし人が行いで義を獲得出来るの

なら、何もイエシュアが命=代価を支払い贖う必要が始めから

無いと言う事になってしまうからです。茶番劇になります。

 

人が誰一人自分を購い出す秘訣を持っていないから、イエシュア が代わりに代価=身代金=ご自身の命を投げ出して救い出して

下さったのです。

 

人が作った改宗儀式をして神の国の住民票を得る必要などない。

神がそれを最初から一方的に与えられているからです。

ただ受け取る!その証拠が創世記15:17-18です。

神が一方的に契約の責任を負う証拠を示しているのです。

それを理解しないガラテヤ人へ、モーセの五書に書かれた教えを

パウロが教え直しているのです。

そして神の家族に加えられた人は、神が伝える本物の人間の生き方=神オリジナルデザインの人=その目標、お手本はイエシュア ローマ10:4=その詳細が書かれているのがモーセの五書=婚姻契約の詳細を神の国の住人は生きるのだ!と教えているのです。

代価を払い身代金を払い義とされている=花嫁にされている!

それが最初!花嫁とされた人は、花婿の家の生き方=婚姻契約の

詳細を生きる!最初の契約は一方的無償提供。逆をするな!と

パウロが言っているのです。花嫁になった後、次に与えられた

婚姻契約には両者の責任が伴うのです!以前と同じ生き方、

異教の神々の教えに混ざった勝手な生き方をするならあなたは

わたしに属さない=無法者=トラー=神の教えを無視して生きる者は、わたしとは関係ない!関係=婚姻契約の関係の中には

無い遠い人=知らない!とイエシュア が言われた言葉に

つながるのです。

 

この2つの違いをはっきり神の教え=トラーから理解しないから

パウロの書簡を誤解するのです。

トラーを価値下げしているとか、軽視していると言う誤解を絶対に避けよう!と試みて、ガラテヤの人に伝えているのです。

だから、神のトラー=モーセの五書に対して、神の栄光と価値を強調して書いているのです。

 

パウロがガラテヤ人の中に強調して教えよう、諭そうとしていることは、トラーの本来の意味目的を別の目的やアプローチ=

行いで神の前に義を得ようとか、儀式をして神の国の一員になるとか、ずれた思索、行動、神の教えに対してずれたアプローチが何かを教えている。同時に神の国の一員になった人達は、

神のDNA=イエシュアの性質=神の教えで語られている

人間の本来の生き方!をするのだよ!と言うシンプルで

明らかな事実を語り続けているのです。

 

トラーの目的=正しい意識、位置に戻さないとなりません。

クリスチャンの世界では、未来、将来に焦点が置かれてばかり

いますが、未来は既に確定しているでしょう。

”神のもとに引き寄せられる!エデンに戻る!”

でもそれまでの間、この世にあって私達神の子らは、

この世のものではない、この世に属さない神の性質を生きて

神の中に守られる!お互いを守る!必要があるのです。

そして世界へ地の塩、世の光、エデンの門に置かれた、

神の契約の箱に置かれたケラビムと同じ役割!神に戻れ!神の

性質=生き方に戻れ!と言う事を世界に散っている家族に

伝える役割がある。それを神が話しているのに、神の教えを捨てたら鎧兜捨てて無防備状態になるのです。又は神の子らの性質とは違う混ざった生き方をして、聖別が汚されてしまうのです。

 

1世紀後半から、そして中世を経て、1960年代以降、

カリスマムーブメントや霊的奇跡預言体験現象など、

自分の体験中心は教えられても、神の言葉と言う本物のの

命のパン=栄養=成長に不可欠な食物を学ぶ、教える事を

異邦人の世界では、その部分が空洞のまま来てしまいました。

 

神の国の実態=神の言葉、教え、インストラクションの中身を

教える事なくて、神の国は、国に住まう住民の間で神の性質の

実態が反映されず、衰退した状態になるのです。

学校建てても、中に教える教師がいないならば学校の機能は

果たせないのと同じです。神の国を伝えながら、神の国の人々は

何を生きるのか、神の言葉から教える事がないなら、それは

学び成長発展の無い、パーテイや活動行事ばかりしている学校と

同じになります。

だから、今の異邦人の世界では、神の言葉に何が書かれているのか、オリジナルからも、翻訳からも書いてある通りの意味が

伝えられておらず、神の言葉は破棄されて終了したと言う人の

教えが前提で語られています。

福音書以降に書かれた内容は、抜粋された短い内容のトラーの

解説でしかないのです。聖書の30%しか占められていない理由は

最初の70%に全て書かれているからです。

その70%を短く解説しているにすぎないからです。

 

 

続く