主の日 ヨムテルア イスラエルの神は永遠から永遠に憐れみ深く許しに富み愛である神 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤの続きと、秋の祭りを迎えるにあたって

色々並行して書いていきたいと思います。

 

聖書を読む大前提!全部の意味を理解出来なくても、

神が伝えるこの事実に立てば、神が語る永遠不変の神の言葉

教えの真実が見えてきます。

 

神の言葉は1つ。二つに分断された別物の教えは聖書には無い!

創世記〜黙示録は、全て100%同じ意味同じ福音、

同じ神の教えだけが書かれている!ヘブライ聖書では、

神の言葉のどの箇所も神の言葉が互いに敵対し合い、

相反する教えは一度も書かれてなどいない。

 

翻訳聖書ではニュアンスを変えて違う意味を伝達する、聖書に

無い言葉、造語で意味を変形し、一貫して同じ言葉が翻訳では

使われていない。聖書に無い文章を挿入している。

訳する人により、人の信条、神学、思想が翻訳に混じって

しまっている。

特にパウロの書簡の中にはその様な色塗られた解説が多くあり、神の言葉が変化、破棄されたと言う教えを信じる人達だけに

パウロの書簡を解説されてしまうので、神の言葉が変化したと

言う教えにされてしまっているだけ。

 

時代ごとに、人種別に別の福音や別の義の定義、別の許し=救い=イエシュアが書かれているのでは無い!と言う聖書の事実に

だけ立つ。神の言葉=教え=トラーは永遠不変である!

 

世界に流通している西洋人=異邦人の教え=1世紀後半から

現代に至るまで、マルキオン始め、西洋人教父達、ローマ帝国が

作った宗教の教え、神の言葉、教えや記念日、祭りを変えた、

ルターも神の言葉=モーセの五書を否定し、神の教えを生きる

必要がないと言う教えをし、そして18〜19世紀人間至上主義が作り出した同じ性質の教え、ダービーやその弟子スコッフィールドが唱えた、神の言葉を生きる必要はない!異邦人にはモーセの五書は無意味な教えで今は終わり!と言う神の言葉を時代ごとに分断し、否定した思想を土台として編み出され続けた教えを

全部削除して、オリジナルの神の言葉純粋な神の言葉だけに戻る!イエシュアが教えていたトラーだけに戻る!

人の教えこそが破棄されるべきであり神の永遠不変の言葉だけを追求する事を神は人に最初から最後まで伝えています。

 

普通に考えたら分かると思います。永遠不変の神の言葉と神が

紹介しているのに、どうして神が神の言葉を途中で否定、変化

させるの?そんな事聖書のどこに書いてるのか?無いです。

 

”はじめの愛”=婚姻契約=シナイ山で文字として初めて与えられたその愛=アハヴァ=神の教え=トラーを忘れた!神の言葉を捨てたグループに対して黙示録で警告されている様にその警告通りを今神から同じ様に聞く必要があるのです。

 

黙示録2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びと

おして、弱り果てることがなかった。

2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。

あなたは初めの愛から離れてしまった。

<あなたは初めの愛=シナイ山で文字として初めて書かれた

神の教え=モーセの五書=トラー=神の教え、インストラクションから離れてしまった。この2000年の西洋宗教歴史の教えが

その事実を物語っています。>

 

2:5 そこで、あなたはどこから落ちたか<歴史の途中で神の言葉に人の教えが混じり始めた事実を知る!>を思い起し、

悔い改め=神の教え=トラーに戻ることをして

初めのわざ=トラー=イエシュア=モーセの五書=父の教え

行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、

わたしはあなたのところにきて、

あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

<神殿の中にあるメノーラ=神ご自身のガイド、導き神の言葉を無視するならば、取り除かれてしまう、いや神の言葉を退ける人が自ら神のガイダンスを退けていると読めば理解出来ます。>

 

1世紀の人たちの耳には、ヘブライ人ヨハナンがコード化した

言葉=隠語=ローマ帝国には分からない言葉で話しているのを

クリアーに理解して聞いていたのです。

初めの愛=トラー=モーセの五書である事実を全ての読者は

理解して、ヨハナンの黙示録を読んでいるのです。

 

私達は、西洋人が解説する教え=神の言葉破棄!終了!無用!

ある一部だけ必要!と言う教えを土台に聖書を解説されている

ものしか聞いていないと思います。とても危険な思想です。

神の言葉を捨てよ!?神の言葉の意味を考えて目覚めないとならない。あなたの足元を照らす光=燭台の光を捨てよ?

神の言葉を捨てれば神の教えが本当は何か分からなくなりますよ!と言う事に気がついてみれば良いのです。

 

私自身もオリジナル聖書に書かれた内容などまして学ぶ機会も

全くありませんでした。でもその時代は終わり、神は永遠から

太古から語り継がれる同じ福音=永遠不変の神の言葉を今の時代の残りの民に太古と同じ様に伝えているのです。

聖書=神の言葉を通して!

 

祭りの時期ですが、ガラテヤに書かれたパウロの書簡の内容を

誤解して解説されているものを全て分解!パウロが意図している

意味通りに読み直しましょう。

 

クリスチャンの世界では、最初から神の言葉に敵対する意識を

放り込まれます。あたかもそれが良い事であると言うオブラートに包んで教えます。以前の教えは=呪いの律法、神の教えは

生きる必要がなくなった、なぜなら縛りの呪いで人が生きられないものであるからイエシュアが来られてその律法から解放してくれた!今は恵の時代だ〜律法に戻るのか〜と誰でも聞いた事が

あると思います。

その教えはニカイア会議の使徒信条そのものであり、イエシュアが100%トラーを人にガードする様に教え、トラーを地上で

生きて事実はクリスチャンの世界では全く教えられない。

もしくは、律法は破棄されたとマタイ5:17−19の

イエシュアの警告を誤解している、ローマ10:4のパウロの

言葉を完全に誤解して、イエシュアがトラーを終わらせて破棄したと言う人が作った神話、都市伝説を教えているからです。

 

だからその呪いの律法を生きる事をするならば、それは神の恵を

捨てた生き方だ!と言う人の解説を神の教えだと本気で信じて

いるのです。それなのにトラーを元に書かれた知恵の書=トラーを実際に生きる手引きが書かれている、詩篇や箴言だけを励まし受けるために読むとか、トラーや預言書のある箇所だけを部分的に取り出して読むとか、そう言う聖書の読み方をしているのが殆どだと思います。

ましてや、福音書〜黙示録が100%トラーである事実に

クリスチャンは全く気がついてない、別の教え、別の福音が

書かれていると信じていると思います。

 

ユダヤ人の世界は違います。イエシュアを信じる人も、神の言葉を律法などと言いません。なぜならヘブライ語では神の言葉を

さして、律法と言う言葉などで書かれていないからです。

そして神の言葉は永遠不変である事実をヘブライ語から

神の契約の性質から理解しているからです。

トラーを一年サイクルでしっかり飛ばさず満遍なく読み、

学びます。それに付随する預言書、諸書も同じく読みます。

それぞれの書を丸ごと学びます。

福音書以降は短いので、読むのは簡単です。

満遍なく丁寧な神の言葉の学びをする<しない人も大勢いますが>それがユダヤ人の世界の神の言葉に対する基本中の基本の

取り扱い、行動、態度です。

飛ばし読みとか、部分読みをしないで、全部を読む、読み続ける

生涯学び続ける。それは教師=ラビであればその内容は深いもの

です。

異邦人の世界、クリスチャンの世界で語られる様な、神の言葉

が終わりとか、神の言葉に対して敵対心を持ち、神の言葉を生きることは、恵みに外れた生き方だとか律法、呪いだ!などと考える人、語る人は全くいません。聖書の中にもそんな思想を語る人は誰一人として登場しないのが聖書の事実です。

 

それはイエシュアを信じるユダヤ人も同等に同じです。

なのでクリスチャンの世界で語られる聖書観は、聖書の事実とは

違う!と言う事をオリジナルを学ぶ世界では分かるのです。

 

神=言葉なのです。それなのに、神=神の言葉=呪い律法縛り=

神=怒りの神=縛り厳しい神と考えるのは異邦人の思想で考えているイスラエルの神像!なのです。

聖書で神ご自身が紹介している神像とは全く違います!

 

聖書の至る所に神は永遠から永遠に憐れみ、恵み、許しに富

愛の神である事実が書かれているのにその事実をクリスチャンの

世界の教えは真っ向から否定し、旧約の神は怒りの神、

新約の神は恵の神に変身!と言う人の教えを教えています。

 

旧約、新約という言葉は聖書に無い、神の言葉に対する誤った

概念を持つ人が考え出した聖書に対するタイトルであり、

そして、怒りの神、恵の神なんて二面相の神など聖書には

書いてありません!神の怒りと言う意味も完全に誤解している

からです。ヘブライ語が表す神の怒りの意味を書いてある

ヘブライ語の概念から学び直す必要があります。

西洋人の思想で考えるイスラエルの神は神が紹介するイスラエルの神像とは全く異なります。

 

詩篇の記者は、モーセの五書だけしか聖書はありません。

全て聖書はモーセの五書を土台として書いているのです。

ダビデはイスラエルの神をなんと紹介し、讃えていますか?

 

詩篇118:1 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは

とこしえに絶えることがない。

118:2 イスラエルは言え、

「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

118:3 アロンの家は言え、

「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

118:4 主をおそれる者は言え、

「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。

118:5 わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、

わたしを広い所に置かれた。

118:6 主がわたしに味方されるので、恐れることはない。

人はわたしに何をなし得ようか。

 

とこしえ=永遠=オラーム=永遠から永遠に変わらない!

恵、許し、憐れみ、愛の神=西洋神学の神像は七へんげ、

コロコロ変わる神!と教えますが、聖書に照らし合わせれば

その人が考える教えは嘘!と気が付けます。

 

 

 

続く