主の日がやって来る。
主の日とは、ヘブライ聖書では、レビ記23章の神の記念日
もしくは、神が特別な業をされる”一定期間”を指して語られて
いるどちらかが、聖書の”主の日”の定義です。
それ以外の意味の”主の日”は聖書には存在しません。
人の作った教え〜定義の中には聖書とは意味が変えられたものに
なっていてそう語られてしまっているだけです。
クリスチャンの世界では”主の日”は日曜日とされていますが、
それはローマカトリック宗教や西洋人が作った主の日の定義で
あり、聖書の定義とは異なるものです。
聖書=神の永遠不変の言葉では、今日は主の日〜神の子らが
世界の中で”叫ぶ日”であり、伝統的に日没までの間に、
”ショファー”を吹き鳴らします。
この日に神の子ら全て!が創造主に呼び出されているのです。
神の声を聞く人は、神が言われた通りに行動します。
ヘブライ語には”従う”と言う言葉はありません。
”聞く”と言う言葉の中に全ての意味が網羅されているからです。
それがヘブライ語の特徴です。
”聞く”神の言われる通りを聞けば、言われた通りを理解すれば、
神に言われた通りに行動する!その3セットが入っているのが
ヘブライ語の”聞く”と言う言葉の意味です。
神の言葉を聞く=でも神に言われた通りには信じない、ゆえに
言われた通りには行動しないで別の事をする=従わない!と
言うことになるのです。どの様に生きますか?神の言葉とは違う
事をする!それは誰の教えを元に生きていますか?と吟味すれば良いのです。
神の言葉を捨てよ!と言う教えは、”聞く”=シャマの逆をする
事を教えている非聖書的教え=神に逆らうことをせよ!と言う
教えです。シャマ=聞くと言う言葉の意味は、”ガードする”と
言う意味の言葉と同じ語源です。
神の言葉を聞き、神の言葉をガードする神の国の管理者。
賢い管理者=神の言われたことをガードして生きている。
愚かな管理者=神の言葉を隠れた場所=土に埋めて生きていない状態とイエシュアがたとえ話で語っているのがそれです。
ヨムテルア、この日の意味は、目覚ましコール! 主の日が到来するぞ!と人々を救い主=王の王が到来する事実に
目覚めさせるものです。
クリスチャンの世界でも再臨、最後の審判、子羊の婚礼の宴、
ミレニアム=王の王の世界統治を信じ、終末を聖書から語りますね。これら全ては神のオリジナルデザイン、レビ記23章に書いてある預言的祭りを通して、実際に地上で繰り返し繰り返し毎年生きて実行して世界へ神の子らが宣言する事をイスラエルの神は神の子らに教えています。再臨を迎えるリハーサルです。
イスラエルの神が本物の神であり世界の主権を握る神である事
イエシュアがされた業、これから地上でされる業=福音の中核を祭りを通して生きて世界へ伝えなさい!と神が伝えているのです。その祭りの中に必ず神は共におり、祭りを祝う人の中から
神の臨在、栄光を表す!と神が神の子らと約束しているからです。
そして神の子らはその印である神の祭りを永遠に祝う様に、
神から伝えられているのです。今日も同じ!変わらないのです。
神の言葉を否定し、終わり!とする神の教えとは真逆の
人間が考えて作り出した教え、人間が歴史の途中で
作り出した教えが神の教えであると聖書を否定し盲目的に信じれば、神の永遠不変の教え!が耳にも頭脳にも全く響かず、
無感覚神の言葉が無意味に煙の様に消えてしまっているのです。
目覚ましコール!ショファー=神の声を聞く!
神の言葉の事実を信じてない人も多くいます。
聖書は神の言葉とも信じていない神学校の聖書教師も大勢います。イエシュアは見えない姿で再臨した!と言う19世紀に出て来た西洋人の教えを信じているクリスチャンもいます。
それぞれがそれぞれに考えた聖書では無い教え、神の言葉、教えとは別の方向に散って行ってしまったのが1世紀後半からの
2000年近い宗教の教えの歴史なのです。リセットが来る!
聖書は自分の感覚やフィーリングや自分独自の解釈で神の言葉に書いてある意味や中身が変わる訳ではないのです。
神の言葉を少しでも否定する、曲げる、削除する、又は聖書では無い人の思想を神の言葉に混ぜれば、それは自分に取って、神が伝える事実が自分には伝わってこないことになってしまうのです。
だから神が警告しています。神の言葉に一点一画も差し引き、
付け足しするなかれ!と。神の警告を完全に無視した教えが、
神の言葉、教えは終わったと主張する人間の教えであり、
死に匹敵する冒涜であると聖書には書かれているのに、
聖書を読まない人には、神の言葉を破棄、否定するそれこそが
恵の生き方!正義!であると全く勘違いされた教えが蔓延して
いるのです。
その行為こそが神に対しての”畏敬の念”など丸でない、神の言葉を否定することこそ正義であると考える場合、それが呪い!と
聖書には書いてあります。
呪い=その人の上から神の臨在が遠くに離れた場所に取り除かれる、神の前に軽い存在になる、自分の行動、思想が神との隔たりの壁を招いて作ってしまうと言うヘブライ語の意味です。
聖書に書いてある事、神が伝えている通りの意味をまず書いて
ある意味通りに正しく把握する作業が必要なのです。
その事実の上から永遠に真理の世界が広がっているのですが、
人が神の言葉をどう解釈しようとも、神が伝える真実は変形などしないのです。
神の言葉は、人間の世界の芸術鑑賞の様に、それぞれが感じる
通りを受け取り感銘を受ければそれで良いのさ!と言う世界とは異なるものです。
神が伝える神の真実は、然りと否が同時!なんて事はないのです。人が神の伝える内容を変えてしまう!それが問題の中核!と神が伝えているでしょう。神が伝える真実を曲げるから、
何が真実で何が嘘=人の教えなのか、神の言葉に人の教えを
ミックスすれば神の教え、言葉の真実が見分けられなくなる!と神が教えているのです。
聖書にだけ戻るとき、神の言葉の真実が見えます。
だから神の言葉は変化、無用、破棄された!と言う人間の教えの方を完全に破棄、捨てなければならないのです。
人間の普通の社会の中でもその事実は、詳しい説明しなくても
理解出来るのです。2つ別のメッセージ、どちらが本当?
7は1ではない。7は永遠に1にはならない!
宴会は金曜日の日没に始まるのに、同時にそれは別の日と言うならば、一体どの日の何時に行けば良いの?と混乱するでしょう。
言葉には意味がある!意味しない言葉など無い。
永遠とは一時的と言う意味では無い。変化ない!と言うのは
変化すると言う意味ではない!そんな簡単な事実にすら
読んでいても気がつけないほど鈍く眠った状態=神の言葉を
捨てて人の教えを聞き続けているからです。
神の真実は、永遠に否定されない!神の言葉は永遠に堅く立つ!
こんなシンプルな事実を否定するのが人の編み出す思想、哲学
神学なのです。
イエシュアが実際にエルサレムから世界を統治するとも
信じていない人もいるので、殆どの人は再臨とイエシュアの
王の王としての到来を信じていると言い変えるべきですね。
終末論、イエシュアの再臨、最後の審判、子羊の婚礼は全て、
トラー、預言書に基づく事実から語られていると言う事を
認識しないとなりません。
最後の審判をユダヤ人だけでなく、クリスチャンも
信じていますよね?それはタナックに書いてあるからです。
最後の審判をされるその基準は何か知っていますか?
罪の定義はどこに書かれていますか?モーセの五書!です。
軌道修正の基準内容=イエシュアはどこに書かれていますか?
モーセの五書!
クリスチャンにはモーセの五書は関係ないと言うならば、
それは非聖書的教えです。トラー=イエシュアだからです。
10の言葉、クリスチャンは偽証、嘘、姦淫、盗み、殺人、
父母を敬わなさい、神の教えを覆い隠してはならない、
神の名=実態を空のごとく扱ってはならない、偶像を作って
拝んではならない、シャバット=第七日目を聖なる日として
永遠に祝いなさいと聖書の教えの内容=柱を10の項目=
タイトルで書き表している。
そのどれも神の永遠不変の神の言葉として認めていないと言う
ことはどう言うことになるのでしょうか?
モーセの五書を捨てたら罪の定義は消えます。無法になります。
トラーは神の性質に造られた人間の本来の性質そのもの=
イエシュアが書かれているからです。
”無法をするものは”わたしは知らない!”とイエシュアが言われた
でしょう。トラーを捨てるものはわたしに属さない=知らない=
婚姻関係の中には居ない!と言っているのです。
神の言葉を捨てたら罪の定義はグラグラで、不完全になります。それをクリスチャンの世界では主張しているのです。
神の言葉は、一点一画、これ要らない、これ有効、これには
”いいね”と言うポイント付けようとか人間が判定して勝手に
手をつける性質では無いのが、神の言葉の性質なのです。
神の言葉どの箇所も全て100%神ご自身なのです。
イエシュアが来られて罪許されているから今はなんでもしても
良い、許される!罪の定義は無くなったと言うのは完全に神の言葉を誤解しています。あなたが他者にズレをしたらその代償は
この地上で必ずあなた自身が身に負うのです。損失を破壊を自分の身に招くと知っているでしょう。盗み、殺人、必ず然るべき
刑を負います。この刈り取るべき結末は免れられないでしょう?
人を騙す、嘘つく、裏切る=大事な関係を壊し自分の生活を破壊し他者も傷つけます。修復困難な傷、悲しみ、歪みを罪を犯す
ズレた事を生きる事で招く、それを今は恵の時代、クリスチャンは何でもやって良いなどと、聖書に書かれた意味通りを
理解する人は、そんな考えなどしないはずだと思います。
続く