ガラテヤ3章 再検証 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ3章に書かれている内容をざっとおさらいします。

 

パウロがガラテヤ人に対して警告していることは、トラーとは

違う=神の教えとは違う、行いで義を獲得、宗教改宗儀式をしないと天の国には入れない、認められないと言う別の福音です。

 

別の福音=”律法の行い”=これはラビ達が編み出した教え、

口頭トラーをさしてパウロが使っている言葉です。

その中の特に”異邦人がユダヤ人になる改宗儀式”

強要される、それを別の福音と話しているのです。

 

”律法の行い”=それぞれ派にあるラビ達の教え口頭トラーが、

クムランの死海文書が発見され、聖書以外の裏付けに

なる証拠が見つかった事により”律法の行い”とパウロが話して

いる内容がさらに確証されるものとなったのです。

 

1世紀当時様々なグループ、セクト=派がありました。

サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派、そしてイエシュアを

信じている人達は、”ナザレ派”とこの当時のユダヤ教の一派と

考えられていたのです。

 

それぞれの派の中の教え、ラビ達解釈のトラーをどう生きるか?と言う口頭トラー=律法の行いの教えがあったのです。

それを”律法の行い”とパウロは呼んでいるのです。

パウロは口頭トラーと神の言葉=トラーをガラテヤの書の

中で交互に使っています。

 

ガラテヤの中にあった問題は”信仰により受け取る”義”

神の子らとされる事実とは異なる、ラビ達の教え=口頭トラー=律法の行い、特に”ユダヤ人になる改宗儀式”=割礼と言う名前を付けたラビ達創作の儀式をしなければ、神の国の一員にはなれない!仲間として正式に認めない!と言う教えに対して、パウロは別の福音と警告して、ガラテヤの人たちが聞いていたずれた教えを正しています。

 

ここで誤解してはいけないのは、信仰により義とされた人は

聖霊を内側に宿しているので、神の性質=イエシュア=トラーに

書かれた神の性質通りの人間の生き方をする!!!これが

聖書の教えです。この大前提を絶対にずらさずに考えながら

読めば、パウロの語る内容が理解出来ます。

 

パウロは、イエシュア=聖霊しか出来ない業=義とされる、

神の子らとされることを人が編み出した”改宗儀式”で得ると

教えている偽の福音を正しているのです。

それがパウロの論点の中心なのです。

 

クリスチャンの世界で言えば、分からなくても、”洗礼”受ければ

神の子として認められます、聖霊は儀式をすれば得れますよ!と言う教えをする人達へ、それは聖書では無い!信仰により義と

されている事をまず理解し、受け取り、その信仰により、聖霊により気が付かされる、自分は神の子とされ、贖われ、きよめられ

罪赦されて=議とされている事実にまず気がつくだけ!

それだけ!それ以外の修行、改宗儀式や、入会儀式では、

義とされない、それらは無用!であると理解出来るでしょう。

そして神の子となった人は、神の口から出る1つ1つの言葉

トラーを生きる!とイエシュアが伝えた事実を生きるのです。

 

”律法の行い”=改宗儀式や、又たとえ、神の言葉を救いを得る

手段で生きるのは本末転倒!信仰によりまず受け取りなさい!

それだけです。

 

ガラテヤ 3:6 このように、アブラハムは

「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。

 

この箇所は、創世記、アヴラハムが神の言葉を信じた下りを

理解する必要があります。

神がアヴラハムと結んだ契約は神の一方的な提供!ギフト!

それが記されています。そして、その後、義とされた人に与えられた契約、シナイ山で与えられた”婚姻契約”は両者、

神と人との相互に責任が負わされるのです。

この違いに気がついて下さい。

 

義とされている事実=イエシュアの救い、贖いの事実は一方的に

与えられている。新しくされた人の事実は100%神の側の提供のみに成り立っているものであり、神はこれを覆さない証拠が

書かれています。古代の契約には必ず儀式が伴います。

 

創世記15:9 主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に

連れてきなさい」。

15:10 彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、

裂いたものを互に向かい合わせて置いた。

ただし、鳥は裂かなかった。  

<動物を裂く=もし契約を結ぶ人たちがこれを破るなら

この動物の様に裂かれますと言う意味です。>

 

15:11 荒い鳥が死体の上に降りるとき、

アブラムはこれを追い払った。

15:12 日の入るころ、アブラムが深い眠りにおそわれた時、

大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ。

15:17 やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、

炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。

 

<ここに書いてあるのは、アヴラハムはこの二つの動物の間を

通っていません。アヴラハムは神に眠らせられたからです。

そして神だけがこの動物の間を通った。

煙、炎のたいまつで表されているのが神です。

神だけがこの裂かれた動物の間を通ったと書かれているのです。

詰まり、この契約は100%無償で神が提供している事実が

表されているものです。その事実からパウロはガラテヤ3章を

話しています。>

 

15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、

「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。

エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。

 

ガラテヤ3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子である

ことを、知るべきである。

神が100%無償で与えた義とされた事実を信仰で受け取る人どんな人種でもアヴラハムの子!と書いています。

西洋神学の教えは、ユダヤ人異邦人と分けて解説しますが、聖書は逆が書いてあります。誰でも神の言葉の事実を受け取った人は

肉の生まれに関係なく、アヴラハムの子=アヴラハム、イサク

ヤコブの神、イスラエルの神に属する神の国の民=イスラエルである事実が聖書には書かれています。

イエシュアも言われたことに繋がります。

誰でも神の言葉、仰せを生きる人が、イエシュアの本物の神の

家族である!兄弟姉妹である!と言われた通りです。

 

3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、

あらかじめ知って、アブラハムに、

「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との

良い知らせ=福音を、予告したのである。

福音は、最初からトラーに記されているのです。途中で福音は

変更、変化しません。別の福音=行いにより義を獲得し、

神の国で座席を得る!それがガラテヤに蔓延していた

別の福音です。神の言葉を生きること=別の福音では無い。

神の子らは神の教え=トラーを生きる!と聖書の最初から最後迄

一貫して教えているのです。>

事実の本末転倒をするなかれ!

1 順序=信仰により義とされた事実を受け取る。

2 聖霊を受けた人は、神の言葉を神の意図通りに生きる!

聖霊が内側に無い人は、神の言葉を意図通りには理解できない!

だから最初に信仰で受け取り、聖霊を内側に受けた事実を得た

人は、救い=イエシュアの実態=神の言葉を生きよ!

この違いが見えますか?

 

3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

 

 3:10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、

これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。

 

これはもう解説しましたが、律法の行い=改宗儀式をして

ユダヤ人にならないなら救われない、神の国の一員として

認められないと言う人間の教えを信じて生きる人は

”呪いの下にある。呪い=神の臨在があなたから遠く離れた状態神の目に羽の様に軽い存在、あなたの価値が価値通りを

生きれない状態になる!と言う本来のヘブライ語の意味に

直して、読み直してください。

神のトラーの教えからずれている=呪いの下にある!と言う事。

そう言う意識はずれた場所の下に閉じ込められますよ!と

パウロが言っているのです。

 

そして、トラー=神の言葉に書いてあることを守らない、

生きない人は皆!呪われる!とパウロが言っている事に

注目してください。

神の言葉=トラー=あなたの本来の性質が書かれている神の教えを生きないなら、呪い=神の臨在から遠く離れた状態で

生きます、神の前に神の性質とは別物の性質を生きるなら、

神の教えを取り違えて生きるなら、

あなたは神の前に羽の様に軽い存在になりますと言う事。

神の言葉を一点一画でも捨てるように、ないがしろにする様に

人に教える人は天の国で一番小さい=無価値な存在になりますよ!とイエシュアが言われたマタイ5章とぴったり重なる警告

なのです。

 

3:11 そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者は

ひとりもないことが、明らかである。なぜなら、

「信仰による義人は生きる」からである。

 

その通りですよね。人は律法の行い=改宗儀式や、ラビの教えや

たとえ神の教えをやったとしても、その結果義とされたのでは無いでしょう?義とされる唯一の方法は?信仰により受け取る!

聖霊を受け取る!それだけ!と言う事が書かれています。

クリスチャンの世界の解説は、パウロの言葉を曲解し前後左右のパウロが話している意味を無視して、律法=神の言葉、教えを

行う人は呪われるとか、ずれているとか、又は義人は信じるだけで神の教えは救われた後生きる必要はないと言う

大幅に神の言葉とは逸脱した教えをしているのです。

 

完全にパウロの書いている内容とは別物の解説だけが

クリスチャンの世界で教えられてしまっているのです。

その大元の思想=トラー=律法=終わり!廃れた!と言う西洋人の作った反聖書的思想が根底にあり、神の言葉に対する誤解、

敵対心が最初からあるからです。

 

続く