ガラテヤ書、パウロの書簡の誤解されている解説を書いていますが、その前に聖書に対する最大の誤解の数々を知っておく
必要があります。
聖書の事実では無いクリスチャンの世界に蔓延している神学思想
人造哲学の数々は以下の様です。遠回しに言うのはややこしいのですみませんが、誰も批判非難するつもりはないので、不快に
思う場合は、この一点だけ!聖書にだけ基づき書きますことを
忍耐ください。
神の言葉を否定する、削除する、敵対する教えこそ、
人が避けるべき冒涜!である聖書の事実を知って、神の前に
素直に、謙虚に神の言葉だけに立つと言うことをする人の作った聖書ではない教えではなく、神の言葉だけと言う共通の土台に
立つ事をしましょう。
1 永遠不変と神が紹介している神の言葉を途中で変わると
教えている人の教え。
2 聖書は創世記から黙示録まで1つであり同じ内容が書かれているのに、二つ別の教えが書いてあると分別している。
事実聖書は二つ別の教えや福音など書かれていない。
旧約、新約聖書と言うタイトルは人間が作ったものであり
神から出た教えでは無い。
3 イエシュアはトラーを教えていることは聖書の記述から
否定出来ないので、パウロがトラーを否定している新しい教えを
編み出したと言うことにされている。それ故パウロの書簡は
誤解された解釈しかクリスチャンの世界ではされていない。
4 ユダヤ人と異邦人は同じ人間なのに、別の生き方、教えが
与えられていると言う人の編み出した空想話を信じている。
5 神の教えを生きることを律法主義とクリスチャンは信じて
いるが、神の言葉を生きよ!と神が教えている事と相反する
教えをクリスチャンは信じている。
律法主義とは、自分の行いにより神の義を得る目的でする行動の事を聖書で律法主義と呼ぶ。
6 福音書〜黙示録には、トラー=モーセの五書とは違う
新しい教えが書いてあると解説されているが
それは聖書の事実とは100%異なる。
福音書〜黙示録は100%完全にトラー預言書諸書の短い
解説が書かれているだけ。トラーとは別の教えなど一切記述
されてなどいない!
パウロは使徒行伝の中で何度も宣言している様に、トラーを
100%支持し、神の教えを否定することなど一切していないのです。使徒21:21 39, 22:3 23:6ピリピ3:5
パウロは神の教えとは違うことを、違う性質のアプローチでする意識に対して警告しているのです。
これはもっと深掘りすれば見えます。
律法の行い、イコール神の言葉=教え=トラーを生きる事と
交互に出てきますが、最初の”律法の行い”とは当時のラビ達の
教え=特に改宗儀式に対して主に話している事なのです。
そしてもし神の教え=トラーを義、聖霊、救われている事実を
得るために、神の国の一員になるためにやる!と言う意識なら
それは同様にずれた場所に飛び出ていますよ!と言う事です。
その意識、行動の事を、律法主義と聖書は言っているのです。
クリスチャンの世界では、神の言葉を生きることを
律法主義と言いますが、それは神の教えとはとんでもなくかけ
離れた不真実な反聖書的、逸脱した発想、思想、神学なのです。
パウロは100%神のトラーを生きることを教えて、
実際にパウロもトラーを一生涯死ぬまで生き続けた事実があるのです。人にトラーを生きることを禁じるのは使徒ではない。
それならば、ニセ教師、偽預言者として聖書に記され、
パウロの書簡は聖書とは認められなくなります。
そしてパウロはユダヤ人です。そしてパウロがトラーを生きる事を禁じる教えをするなら、どうしてユダヤ人であり、
パリサイの中のパリサイなどと議会で宣言しているのか?
トラーを一切否定していない100%支持してトラーを生きて
いる証拠として神殿でナジル人の誓いをしたのです。
ちゃんと聖書の事実だけをつなげて人の教えや組織神学から聖書に書かれている内容を曲げて解釈しないで、聖書に書かれている事実=意味に戻って考えないとならないのです。
その事実からも意識を逸らさないでパウロが書いている内容を
読み続けて下さい。
ガラテヤ3:10 いったい、”律法の行い”による者は、皆のろいの
下にある。「トラーの書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
申命記27:26 『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
まず10節を見て、初めの文と後の文が一見矛盾している様に
見える事に気が付いてみてください。
1 ”律法の行い”による者は、皆のろいの下にある。
2 「トラーの書に書いてあるいっさいのことを守らず、
これを行わない者は、皆のろわれる」
この二つの文章を読んで書いてある内容が全く矛盾していると
考えないとならないのです。
ではパウロがここで話していることは何でしょう?
律法の行い=人の教え=宗教改宗儀式をする教えをやる人、
その意識の下にある行動をしているなら、神の教えとはずれた事をしているので、神との隔たりの関係=呪いにあります!と
書いてあるのです。
義を得る事、救いを得る事を、人の努力や教えで達成しようと
するものは、神のトラー=教える事からずれているので呪われる=神の臨在、実態がその人から遠く離れた状態です!と
書いてあるのです。
神が教えている通りとは別の方法で聖霊を義の事実を受けると
言うアプローチはずれている=呪われている=神の臨在のない
場所に飛び出した思考回路、行動だよ!と言うこと。
同時に、トラーに書かれた一切を行はないものは呪われると
書かれていますがその神の言葉は真実であり書いてある通りです。
神の教えを生きない人は、神の性質=神の臨在、神との正常な
あるべき関係の状態から切り離されて遠くに行ってしまいます!と書かれているのです。
改宗儀式というラビの教えをすることは、トラーの教えとは
ずれていますよ!と言う事でもあるのです。
なぜなら、トラーには、神の義を得るには、信仰により受け取る
だけと書いてあるからです。
クリスチャンの世界では、ちゃんと書いてある意味通りを
読まないで、”古い律法を生きる人は呪われる!”と解説してますがちゃんと聖書に書いてある意味通りに読み直さないとなりません。
クリスチャンの世界では、パウロがトラー=モーセの五書を否定して、新しい別の教えをしていると誤解した前提からパウロの
書簡の全てを読み込んでいるので解説が反聖書、反ユダヤに
なっているのです。神の言葉が終わり、破棄されたと言う土台から聖書を読んだら、聖書に書かれた真実を否定し、曲げて、
神の永遠の真実、真理が見えない状態に留まってしまいます。
ガラテヤ3:11
そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。
なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。
前の箇所から明らかに、人の教え=改宗儀式をしてユダヤ人に
なる事で義とされる人は一人もいない!とパウロは言っています。これを神のトラーとだとしても、トラーを生きたから義と
されるのではない、聖霊を受け、義とされ、救いを得たのは
”信仰により受け取るだけ!”と読み直せば良いのです。
アヴラハムの契約の性質通りです。信じて受け取り義とされた
同じ事です。これが神との関係に入り、生きる最初のステップ
だからです。
義人は信仰により生きる=この箇所を義人は神の存在を信じるだけで良い、そして神の教えは捨てて生きて良いのですよとは
神は話してないのです。申命記に書かれた通りです。
「トラーの書に書いてあるいっさいのことを守らず、
これを行わない者は、皆のろわれる」
義とされた人の中に初めて、神に聞く=神の教え=トラーに
書かれた内容を聞いて、神の言葉意図通りを理解し、神の教え
通りを生きることをする!と聖書には書いてあるその点が
クリスチャンにの教えの世界で誤解され、救われた人は神の
トラーを生きる!と言う永遠不変、時空と人種を超えた神の教えの真実を生きることが完全欠如しているのです。
ガラテヤ3:12 律法は信仰に基いているものではない。
かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。
ハバクク2:4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。
しかし義人はその信仰によって生きる。
ハバククから引用している前に書かれた内容が続きます。
パウロが強調しているのは、神の子らとされた契約の中に加えられる性質についてです。
それはガラテヤのグループに影響を与えていたインフルエンサーの教えとは別物の内容をパウロは話しているのです。
別の福音を語る人たちは、神の国の一員となるには、
彼らの提示する”改宗儀式”を経なければその座を得られません!
と言う神が伝える信仰により義とされ神の子らにされると言う
事実とは反した教えに対して警告しているのです。
異邦人は、ユダヤ人=神の国の一員になるためにラビ達が編み出した改宗儀式が必要だ!などと聖書のどこにそんなことが
書いてありますか?
異邦人のルツでさえ、ただ信じただけで神の義を受け取った
事実が書かれています。そして、救い主を生む家系に繋がって
ルツの子孫から救い主を生み出している事実があるのです。
律法は信仰によらないと言う意味は、書いてある内容から
読み取る必要があります。
人の教えや神の言葉さえ、それをする事で神の国の一員となる
資格を得るのではありません!!!と言っているのです。
神の国の一員となるには、まず最初に”信仰”で義とされた事実を
確認し受け取る=それは聖霊が教える以外にない!と言う事実は
信じた人なら誰でも体験しているでしょう。それです!
何かの修行や儀式をしたから聖霊を受け義とされている事実を
得たのではない!神が与えたギフト=神に救われている事実に
自分が気がついて信仰により受け取った!と言うだけのこと!
だからです。
神の言葉をやったからその事実に気がつくのでもないし
義とされるのでもない!パウロの論点が見えますか?
そして義とされた人=聖霊が内側に住まう人は、
神の性質=トラーを生きる事をするのは当然の事なのです。
それが贖われた人の本来の生き方=イエシュアが地上でお手本を見せて教えて生きた生き方だからです。
クリスチャンなら自分に問うてみれば分かります。
自分に何を生きよと神に教えられていますか?と。
あなたは何を信じて生きているのですか?
福音書〜黙示録に書かれた事?それならそこに書かれている
内容は100%トラーに基づく短い教えが書かれている事に
気がつかないとならないのです。
続く