夏が終わり私の住まう環境に新しい人達が入って来ました。
世界中の様々な国から来たクリスチャン達と交わる機会に恵まれています。
その中で、私達同様、神の言葉は100%永遠普遍と信じる人達とも出会いシャバットを一緒に祝ったりする祝福を与えられました。
そして日曜日には、皆で集まってフェローシップしよう!と言う
事になり、一人一人が意見を言ったりデイスカッションしたり
フェローシップしたりと楽しい時を過ごしています。
今日その中で”クリスチャンは救われたら何を生きるのか?”と
言う問いを投げかけた人がいました。
トラー=モーセの五書=律法は終わり!と信じる人達は、
まさかイエシュアがトラーを生きて、教えていたなどと聖書に
書いてあっても、全く気がつかないのだと言う事実を再び
目の当たりにしました。
律法=モーセの五書は終わりだからクリスチャンは実際の生活で何を生きると神に言われているのか?と言う問いでした。
ニカイヤ会議の使徒信条のごとく、イエシュアが人の子として
生まれ、ポンテオピラトのもと処刑され、復活しと言う
下りは唱えれど、イエシュアが地上で何を教えて、何を生きたのか?と言う大事な部分がクリスチャンの世界の教えからすっぽり
抜けているのは世界万国共通の盲点である事を世界中から集まる
クリスチャン達と出会って実体験します。
イエシュアが肉体を取って来られたトラーである事を聖書から
全く気が付かない教えを聞かされ続けてしまった弊害と、
そしてどこからどう説明したら良いのだろうと思いながら、
皆が何を考えて信じているのかを聞いていました。
何を生きたら良いのか分からない、霊に導かれて生きるんだよね
と言う事を話していましたが、霊に導かれるとは、神の言葉に
照らし合わせない限り、霊に導かれていると言うのは自分の感覚でしかなく、神の教えに照らし合わせない限り、何の霊に導かれているのかも、識別出来ないと言う盲点に気がついてないのだと
思います。神の子らは光の中=イエシュア の中=トラーに書かれた神の性質を生きる!と聖書にははっきりと最初から最後まで
ブレずに同じ内容が書かれているのです。神の言葉を捨てる!と言う事は、神が教える永遠普遍の絶対なる完全なる基準を捨てる!と言う事であると言う事に気が付かないとならないの
です。
クリスチャンの世界ではユダヤ人がイエシュアが救い主であると
言う事実に気が付かないと言いますが、クリスチャンも同様に、
トラーがイコール、文字で書かれたトラーが肉体を取って
来られたのがイエシュア であると言う事実に気が付かない事も同様に盲点なのです。
ヨハネは、言葉が肉体を取って来られたと書いているのは、
トラーが肉体となって地上に来られて生きたと言う事を
言っているからです。
偶像を拝むなとか、他の神を拝むなと言うのはクリスチャンも
理解している内容だと思いますが、神の教えはもっとその先に
ある、神の性質と異なるもの、神の教えではない
人の教えを混ぜる事こそが隠れた大きなパン種、別の福音、
神の最も忌み嫌う=姦淫の罪であり、その姦淫の罪とは何か?
が見えないのです。
だから人の教えを混ぜたものを生きてもそれが神の前に正当で
あり、神に受け入れられ、主のためにやっているから良いと考えている事が、実は神に取り受け入れがたいものであると書いて
ある事に全く気がつけないのは、混ぜ物の教えをされたら
神の言われている忠告の意味が理解出来ないし、神の語る本質が見えない、本物と嘘の見分けが出来なくなってしまうからです。
神が伝える事とは違う、人間の考えで編み出した自分流の近づき方、押し付けを神は受け取らないからです。それなら本当にそれぞれが編み出した教えで神に近づいて良いだろう!と言う事です。でも聖書には全く逆が書いてあります。
”わたしが示した通りに!”と書いてあるのです。
人は神が教える事を聞かないならば、それは自己流、
それを神が伝えるものとは別物になってずれてしまうからです。
小麦粉に、片栗粉を混ぜてかき回したら両方混ざっても区別
出来ない、2種類の種を一つの畑に撒いてはだめ、2種の別の動物を掛け合わせてはダメ、麻と綿の混合はだめ、この教えは
神の教えと人間が作った”律法の行い”の教えを混ぜてはダメと
いう事にも繋がるからです。
そして完全に最大に誤解している事は、福音書〜黙示録の中には
モーセの五書とは違う、神の言葉を破棄した別の教えが書かれていると言う永遠不変の神の言葉=聖書の事実に全く基づかない
完全なる人の教え=デイスペンセーション神学の様な人間が
編み出した教えが聖書であると信じてしまっている事なのです。
ガラテヤ3章でパウロがあげている問題は、ガラテヤ群れの中に
行いにより救いを得ると言う神の教えの本質とは全く違う別の
福音が蔓延っていた事なのです。
”律法の行い”とパウロが書いているものは、当時のユダヤ教の
セクト=派=グループごとに定義されている様々な人が作った
教え、解釈、ラビ達が編み出した教えの事なのです。
どの派でも共通している事は、異邦人は始めから神の国に属する
権利が無い人達であると言う考えをしている人達がどの派にも
居たのです。
そうでは無い考えをする人達も使徒15章に書かれているものです。
パリサイ派のある人達は、ユダヤ教に改宗する儀式など
しなくても異邦人を仲間に加えますと決めた事が書かれています。
でもユダヤ人達との仲間に加わる条件として異邦人が最低限
知らなくてはならない、神の前に汚れた行為=異教の神々の神殿に詣でて、神殿娼婦と交わる、汚れた動物を捧げる、神の定義しないやり方で動物を絞め殺す事、動物の血を飲むなど最低限
やってはならない事を知って仲間に加わってね!と言う神の教えを伝えて異邦人を仲間に加えた下りが書かれているのです。
注意深く今まで聞いてきた教えをリセットして、
聖書に書いてある意味通りに考え直す必要があるのです。
神の救いは人の行いにより得る事が出来るものではないのです。
”律法の行い”とガラテヤにパウロが書いているものは、
当時のラビ達が編み出した口頭トラーの事であり
その中には、異邦人に対する”改宗儀式”=割礼と言う名で
呼ばれていた、異邦人は元々神の国に場所がない人種なので
ユダヤ人に改宗し、ユダヤ人になる事をしなければならないと
言うものも含まれていたのです。
これらは全部神の教えでもなんでもないのです。
パウロが語っていた”律法の行い”とは、クムランで見つかった
書の中で、同等のものが書かれている事を発掘してパウロが
語っている内容が明らかになったのです。
クムランのグループの教えはこんなものがありました。
捧げ物をする時に異邦人の畑から買った作物を使う事を禁じる
捧げ物をする時に異邦人の鍋を使い作ったものを禁じる
異邦人が神殿で捧げ物をする事を禁じる
このリストはきりなく続くのです。
挙げればきりがないほど、人が作り出した教えで満ちています。
聖書は、信仰により信じた人は誰でも義とされ神の国、家族に
加えられる。神の国に加えられた人は、神の教え=トラーに
書かれた神の国の一員として聖別された神本来デザインされた人=イエシュア =トラーに書かれた神の性質を生きる!と
書かれているのが聖書なのです。
この点よくよく考えないと混同している大きなポイントなのです。義や救いは行いをする事では得られない!
イエシュア だけが人に本来の姿を取り戻す力がある!
そして救われた人は、イエシュアの性質=トラーに書かれた人間の性質を生きる!クリアーに見えてくるまで聖書に基づき
考え続ける必要があるのです。
2つの違いがあるのです。
1世紀のラビ達はこう考えていたのです。![]()
神の婚姻契約<トラー>ー異邦人は除外ーー律法の行いをする
律法の行い=神の教えではなく、ラビ達が編み出した改宗儀式や
ラビ達定義の教えを生きることで義を得て、救いの保証を
継続出来ると言う教え。
聖書はどう言っているか![]()
神の婚姻契約<トラー>ー全世界の全ての民族ー信仰により受け取る。
もしラビ達の教えでなくても、神の教えを生きること
その目的が神の前に認められる、救いを得る、保証を得る
その様なずれた意識なら、それは共々”呪いの下”にあるという
状態になります。なぜなら、それは神との壁がある証拠、
神を怖がっている、何かを恐れている、神の愛、神の言葉
約束を信じていないから、神に対して違うアプローチ
近づき方をしている、神の内側ではない外側に居る
外れた状態であるからです。この違いが分かりますか?
この違いをガラテヤ書でパウロは話しているだけなのです。
続く