ガラテヤ書の再考察 神の言葉の真実の扉を開ける鍵は聖書では無い人造の教えを完全除去すること | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ3:3 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。

御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。

 3:4 あれほどの大きな経験をしたことは、

むだであったのか。まさか、むだではあるまい。

3:5 すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法<ラビ達が編み出した口頭トラー>を行ったからか、それとも、<神の言葉=トラーを>聞いて信じたからか。

 

前回迄に書いた内容から、ガラテヤ3章を書いてある意味通りに読み直してみたいと思います。

 

ガラテヤ人の群れの中にあった問題は、本当の福音=

アヴラハムに与えられた”義”とされた事実を信仰により

アヴラハム同様イスラエルの神を信じる全ての人たちが

受け取っただけなのに、肉の行いで義を得ると言う教えを

していたインフルエンサー=別の福音をする人達に惑わされて

いた事が書かれています。

 

特に異邦人の場合は、1世紀当時のラビ達の作ったユダヤ人に

なる改宗儀式=割礼と呼ばれるものを経なければ、神の国の住人にはなれない!と言う別の福音が蔓延していた事、その偽の教えに対してパウロが警告するためにこのガラテヤの手紙を書いて

いる事をまず念頭の置いておかないとならないのです。

 

福音とは、神の側で一方的に”義”とされている事実なのです。

それは信仰により受け取るだけ、自分の努力や手柄で得るものではない!そして区別しなくてはならないのは、義とされた人達は

神が伝える永遠普遍の神の教え、インストラクション

イエシュアが地上で生きて、手本を示した、トラー=神の教え

インストラクション=神オリジナルデザインの人間の本来の性質

を生きると神が伝えている事実をはっきり区別して考え

直せば神の伝える永遠の真理が見えてきます。

 

神の言葉を生きる事を肉で仕上げるとは言わないのです。

義とされた人は神の性質=イエシュア =トラーを生きると

神が最初から最後まで伝えているからです。義とされることを

行いにより得る、救いの保証を行いで継続すると言うズレた意識で神の言葉を読むならば、その理解自体が神の目から見る通りを見ていない、聞いていない、善悪の知識の実を食べて別の見方、

考え方をしていると言うことなのです。

神=言葉、言葉=トラーが肉体を取って地上に来られたお方が

イエシュアであると聖書には書いてあるのです。

 

イエシュアが地上で何を教えて、何を生きたのか?100%

父の言葉=婚姻契約の詳細=トラー=モーセの五書に書かれた

内容のみであることに聖書を読んでも気が付いていないなら、

それは人の教え=神の言葉は廃れた!と言う教えに神の言葉の

真実が目隠しをされながら、神の言葉が福音書以降〜黙示録には別の教えが書かれていると言う聖書に書かれてもいないことを

誤解して読んでいるからです。

 

福音とは神の義が神により一方的に与えられている=神の創造

したオリジナルの元の自分=神の性質通りの人が取り戻されて

いる事実です。それは人の手柄や行いや努力で得られない!

イエシュアが取り戻して下さった事実以外得る方法はない!

書いてあるのです。

 

創世記12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、

あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。

あなたは祝福の基となるであろう。

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、

あなたをのろう者をわたしはのろう。

地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。

15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、

全き者であれ。

 

全き=タミン=תָּמִ֥ים  非の無い状態であれとは、

あなたを非のない状態にしているから、その性質通りに

神の前、神の顔の前=神の教えに照らし合わせて生きなさい!と

ヘブライ語では書いてあります。

 

神の前と書いてあるヘブライ語は常に”顔”と言う言葉で書かれて

います。神の顔とは鏡とも書かれています。それは、神=言葉=

神が教えることに人は向き合い、神の言葉に照らし合わせないなら、神の教えていることではない状態にそれてしまうからです。

 

だからヤコブ書で、”鏡=神の顔=教え=言葉の前から離れる人は自分の姿=神の似姿にされている性質通りに生きることを

すぐに忘れる!と書かれていることに繋がります。

 

そして、神の顔からそれるとは、神の言われる事からそれる事。

ヨナが神の言われた事から逃げてニネベとは違う場所に行こうとした箇所も”神の顔”の前から逃れてと書かれています。

つまりどこに行こうとも人は神の中に居る、神はどこにでも居るから、逃げられる訳はないのですが、自分の意識が神の顔=

教え、言葉から目をそらせたら違う方向へ行ってしまう

言う事と繋がるのです。

 

創世記17:4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。

あなたは多くの国民の父となるであろう。

 17:5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、

あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。

わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。

 

これが福音の実態をぎゅっと短い言葉で語っているものです。

そしてこの神の口から直接語られた言葉を注意深く読めば、

ユダヤ人と異邦人が別の福音、別の契約や教えを生きるなどと

言う人間的な発想は聖書ではないと気が付けると思います。

 

全世界の国民がアヴラハム同様、アヴラハムを代表として

全世界の人=ユダヤ人であれ異邦人であれ同じ祝福と義とを

受け取る!と神が言われる事を妨害する教えを退けて、神の言葉を無視する教え=その人間の作った教えの方を削除し、

どかせば、神が語る永遠の真理、本物の福音の性質が読み取れると思います。

 

ガラテヤの人に悪影響を与えていたインフルエンサーの教えは、信仰により義とされている事実を受け取る事とは別の教え、

1世紀当時のラビ達の教え=口頭トラー”律法の行い”と呼ばれるその中にある最大のハードル=異邦人はラビ達が編み出した

ユダヤ人になる改宗儀式を経なければ異邦人は、神の前に義と

されておらず、神の国での席は確保されないと言う教えなのです。その偽の福音に流されて行っていたガラテヤの人達へ

それは神の教えとは違うもの!と警告しているのです。

 

ガラテヤ3:6 このように、アブラハムは

「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。

<パウロは創世記15:6を引用して、これが本物の福音!と

教えているのです。>

 

3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、

知るべきである。

3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、

あらかじめ知って、アブラハムに、

あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との

良い知らせを、予告したのである。

<ここも創世記12章で神がアヴラハムに語られた契約、

約束を復唱して、信仰により義とされ、異邦人も全世界の民族

全て信仰により受け取る人は神から同じ約束、祝福を受ける!と言う事実をパウロはトラーから述べているのです。>

 

3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

 

クリスチャンの世界で教えられているのは、信仰により義と

されているアヴラハムの契約は大事で、モーセに与えられた

契約は無効と言いますが、エデンの園から神は同じ”神の教え”

人に口頭で伝え続けた事実があります。その神の教えは黙示録の

最後まで全く同じです。はじめの愛=モーセの五書を忘れて生きている人たち、神のトラーから離れた人への警告が黙示録の最初に書かれているのです。それはユダヤ人も異邦人も

全てのイスラエルの神を信じる人に対しての警告なのです。

 

アヴラハムが神の”トラー”を理解していた事が聖書には書いてあります。

聖書の最初から全部の内容が記載されていないだけなのです。

 

考えてみたら、分かりますがエデンの園を出てどうして

カインとアベルが捧げ物をすぐにしているのか?モーセが

なぜ荒野に行って、神の祭りを祝わせてくださいとファラオに

申し出たのか、出エジプトをした人達が婚姻契約を受け取る前にシナイ山で”神の祭り”を祝おうと言っていたのか?

前後左右の説明は何も書いてありません。

 

アヴラハムも同じトラー=神の教え、インストラクションを

理解していた事が記されています。

 

創世記26:5

アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、
いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。
 
日本語で、いましめ、さだめ、おきてと書かれていますが、
これらの言葉は全てトラー=モーセの五書に記されている
内容を指して語っている言葉なのです。
ミツヴォテイ、フコタイ、トラテイ、全てわたしのいましめ、
わたしの仰せ、わたしのトラーと書いてあるのです。
アヴラハムは神の声を聞いた、わたし=神が伝えたトラーを
アヴラハムは聞いて、聞いた通りに生きた!と書いてあるのです。
ガラテヤ人の中にあったのは、本質が違う教えをする人、
別の福音=ユダヤ人になる改宗儀式をしないと、神の国には入れません!と言う教えをしていた事なのです。とくに改宗儀式〜
プロセライト=割礼と言う名前で呼ばれる、アヴラハムの割礼
とは別のもの、改宗儀式をしないなら、異邦人であるガラテヤのあなたがたは神の国の住民票はもらえませんよ!と言う教えに
対して、パウロは信仰で得た事実を、人間であるラビ達の教えで
完成させるつもりなのか?と言っているのです。
それらを偽の別の福音と言っているのです。パウロが語っている事実からずれないで、以降を読み進めるのです。
 
ガラテヤ 3:10 いったい、律法<ラビの編み出した改宗儀式と
彼らの宗派の聖書とは関係ない様々な教え>の行いによる者は、皆のろいの下にある。「ノモス=トラーの書に書いてある
いっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
 
申命記27:26 『このトラーの言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
 
 
続く