今の世界の出来事と、二極に分かれた捉え方と、理解。
世界に流される情報が、正しくないものであれば、それを聞き続ける場合、真実に気がつけないと言う事を目覚めている人達は
気が付いているのです。
情報弱者と言う言葉が世の中で使われていますが、どんな内容でも真実の情報に触れなければ、何が本当なのか見分けがつかない、分からないと言う状態に陥る事になるのです。
悪を善、善を悪と解説する、危険なのに安全と解説する、
狂った世の中、その裏にあるものは、人の命を破壊するこの世界の闇の力に他ならないのです。
聖書に書かれている神の言葉をそのまま受け取らない様に
教え始めたのは、1世紀後半、異邦人信者達によるものであり、
その根底にあるものは、反ユダヤ思想なのです。
70年の神殿崩壊後、ユダヤ人がエルサルムから追放されて、
異邦人達は自分たち解釈の独自の教えや、神の言葉を曲げる、
捨てても良いという解釈をし始めたのです。
それが現在にもずっと繋がっているのです。
イスラエルの神の言う通りではなく、自分たちの解釈で
受け取り、神の言葉を変形してしまった。
だから、クリスチャンの教えの世界では、聖書に書いてある通りを書いてあるのにそのまま読み取らず、解説せず、今は終わった神の教えと人間の解説を付け加えて神の言葉を曲げている事に
すら目の前に書いてある神の言葉を読んでも全く気がつけないのです。
前の記事に書いた聖書箇所を読んでみたら、分かる通り、
神が永遠と紹介し、命に匹敵するほど大事な”シャバット”を
異邦人は1世紀後半に変えてしまいました。
異邦人の中には神の言葉を変える事が死に匹敵すると言う聖書の
神の警告が全然届いていないのです。![]()
神を愛すると言うならば、愛する人の言う事を信じて受け取り
尊重し、厳重にガードして生きる事なのです。
その事実無しには、口先だけ愛すると言っているのか、気持ちは
伴なっても、実態が神の提示する愛の関係からずれている、
又は自分勝手な考えで生きて神の意図した事ではない、神が
言ってもいない事をして、的外れな事をし続けてしまうと言う事になります。ずれに気がつかないのは、神の言葉を捨てているからと言う以外にないのです。
照らし合わせる鏡=トラーを捨てたら神の語る真実は見えない!からです。
神の言葉を無視して、勝手に神の言葉を仕分けして捨てても
良いなどと神がいつ神の子らに教えたのでしょう?
聖書に書かれている事に真摯に向き合う=神に対して真摯に
向き合い、神の言葉がなんと語っているのか聞こうとすれば、
神の永遠普遍の言葉、教えが語る意味が見えてきます。
神の言葉、教えを無視するとは、神が人間に服従させたいから
無視したらムカつくからそうしなさい!と命令しているのではなく、神の教えを無視したら人が危険な状態にさらされてしまう!そして神との関係、そして自分、人との関係が神の意図通りには機能しなくなり隔たりが出来てしまうからです。
人は神が伝える神への近づき方、神との関係をガードするやり方、そして自分が誰か、そして他者とどの様に神の意図通りの
関係を結ぶのか、神が教えているのです。
人はその詳細を神の言葉以外から知る術はないのです。
神の教えを無視すると言う行為は、エデンの園で起きた出来事と直結するのです。
神の中ではなく、”隔たりの中、解離の中に飛び込んでしまい
抜けられなくなる”からです。
誰かとの関係に陰りが出来るのはどう言う時でしょう。
まっすぐ透明ではない、嘘が入り込む、相手を疑う、相手を
相手の性質通りに見えていない、自分の誤解で相手を分析して
しまう事などだと思います。
シャバットが命に匹敵するほど大事な事であると
神がなんども何度も神の口から直接人に教えています。
シャバットは週に一度!その日は第七日目だけがシャバットであり、それ以外の日は神のシャバットと言う名で呼ばれない事実があるのです。誰がどの様に理屈づけし、他の日でも良いと正当化しようともそれは神の語る真実ではないのです。
週の6日の間、働く。誰かと集まりをしてもそれはシャバットとは違うものなのです。
日本で言えば、元旦は1月1日です。それ以外を元旦と言わない
誰かが”どの日でも今は元旦!”などと言ってもそれは、
日本の文化の中では元旦は1月1日と決まっているのです。
尚更神が直接言われた”わたしの記念日” をユダヤ人の記念日などとは言っていない。神は神の特別な定めの日=レビ記23章に
書かれた記念日をその様には紹介していないのです。
どれほど神の言葉を無視しても全く無感覚状態なのか
本気で考えた方が安全なのです。シャバットが命に匹敵すると
神が言われても現にな〜にも感じないのです。
それは神が言われている意味を言われた通りに理解していない!
と言う事なのです。自分解釈で神の言葉を曲げているから。
神が伝える事が重要と思えない!と言う鈍さになってしまったのは神の言葉が人の教えとすり替わり、そのすり替わった教えが
神が言う真実であると誤解したまま神の前にこれが自分流の
”聖別”と考えているからです。
神が言われた事が重要と思えないほど危険な状態はないのです。
敵は、私達から神の言葉を奪えば、私達が本来の神の子らである性質を生きられない状態に陥る事を知っているのです。
神の中から隔たりの場所に飛び出る事も知っているのです。
ユダヤ人の世界でもそれがあります。神の言葉は曲げないけれど
神の言葉にかかれた解釈を曲げる、プラス人の教えをたくさん
付け足す”律法の行い” 律法=ラビ達が編み出した口頭トラー
朝起きて、夜ねるまでの細部に渡る彼ら独自の教え=神の教えとはな〜んの関係も無い教えを生きる様に強要してくる。
多くのユダヤ人もその様なラビ達の教えに辟易しているのです。
そうでしょう。人の教え=文字は殺し、神の言葉=霊は実態
通りに受け取れば人を生かすと説明されている通りだからです。
敵は、人から神に造られた本来の性質=神の子らの性質を生きる
ことを奪おう奪おうとします。
宗教の教えはその典型です。純粋な神の教えではないものを
混ぜて人を再び奴隷状態に陥らせるものだからです。
でも神の教えている全ては100%本来の本物の自由を与える
生き方であり、エデンの園に人が初めて置かれた時の
”完全にフィットする心地良い”生き方であるのです。
そしてシャバットは一番最初に紹介された”聖別”の状態なのです。
エデンの園を飛び出して、人は本来の生き方を忘れてしまう
方向へずっと進んで行った事が書かれています。
そして、エデンの園に造られた本来の人=アダムの生き方を
第二のアダムであるイエシュアが初めて地上で生きて見せたのです。その内容は100%トラー=モーセの五書に書かれた神の
オリジナル創造の人間の生き方なのです。
誰一人としてイエシュアが生きた様には生きていないかった。
私達エデンの園から飛び出た人達は、ずれる事があっても
本来の性質、神の似姿である性質が取り戻されている事実が
あるのです。よちよち歩きの幼子だからこける。罪人だから
こけるのではない。以前の罪に浸かっていた記憶から生きるから
こける。でも本当の自分の自己像は主と共に復活して新しくされた人という事実を神が伝えているのです。神の言葉を信じるのか
信じないのかはあなた次第です!と言う事。そして人は自分の中にある自己像にぴったり沿って生きるのです。罪人と日々唱えながら生きて、神の言葉に注意を払わないなら一生何も変わらないのは当然の結末なのです。
罪人ではなく、神の教えを考えて生きないからずれる。
神の性質、教えに根付いて生きる時、イエシュア が生きた通りを
生きれる成人の生き方に変化していくと教えているのです。
基本中の基本は神が言われた事を聞く!聞いて理解したら
教えられた通りのことを生きる!それがクリスチャンの世界で
教えられる内容から抜けているのです。
神の教えは救いを得る手段でもなく、義とされるための手段でもないのです。
だからアヴラハムの契約が最初!に書かれているのです。
無条件で与えられている”義”とされている事実=イエシュア に
より確保されている事実が最初に紹介されているのです。
そして、信仰により神の子らとされた人達は、創造主が伝える
本来の人間の生き方を生きる=トラーを生きる!と書いてあるのです。イエシュア =トラーだからです。
神の言葉は、人を安全に守る保護ガード!人間本来の性質である
生き方が書いてあるのです。
続く