神の前に救われて神に受け取られている事実は、どこかの宗派の
グループの会員になって、誰かの編み出した教えや改宗儀式を
して初めて救いを得るのではないのです。
単純に個人個人が神の存在、神の実態に出会った、
自分が気が付いた、ただそれだけです。
アヴラハムやルツの例を見ても明らかです。
神の実態、神の言葉を信仰により受け取った!
ただ信じただけで義とされた!たったそれだけなのです。
救われた後に、神の子として神の性質通りを生きる=神の教え、
インストラクションを生きるのは当然の事だと
聖書を書いてある通りに読めば理解出来るはずです。
人は神の子とされ、義の事実を得たら何を生きると聖書には
書いてあるのでしょう?
イエシュアは何を地上で生きて、人々に何を教えたのでしょう?
100%父の言葉=モーセの五書!なのです。
ニカイア会議で作られた”使徒信条”と言うのがあります。
それは、救い主が生まれ、処刑され、復活されて昇天されたと言う下り、クリスチャンもご自身のグループの中で同じ内容を復唱した事があると思います。
でも、その使徒信条は、イエシュアが生まれて地上で歩かれた
何を生きたのか???と言う最も大事な部分がすっぽり抜けて
いるのです。イエシュアは100%モーセの五書を生きて人々に教えた!その事実がクリスチャンの世界の教えの中で、
完全に空洞になっているのです。
その空洞の部分を、人の教え=神の言葉は破棄され、霊に導かれて生きると言う意味が全く違った教えがそこに埋められてしまっているのです。霊=言葉=神ご自身なのです。
人は神の言葉=鏡に照らし合わせて生きる様に神は最初から
最後まで教えているのです。
その神の教え、インストラクションを無視したら、自分独自の
自分定義のそれぞれの生き方になり、だからクリスチャンの世界には何万と言う宗派で教えが分かれてしまい、1世紀のパウロや
使徒たち、イエシュア信者達がイエシュアが生きた様に生きた
トラーを否定すると言う教えにすり替わってしまっているのです。宗派の特徴はある”部分の教え”を取り出し強調し、スローガンとして掲げる事ですが、神の言葉は丸ごと1つであり、
ある部分が飛び出したり強調されるものではないのです。
全部必要、全部でシャローム=丸ごとホールネス、
完全になるからです。
ガラテヤ3章に書かれている意味を全く取り違えて、呪いの律法=神の古い教え=モーセの五書に書かれた神の教え、
インストラクションから解放されたと言うパウロが語っても
いない別の福音に変身してしまっているのです。
パウロが書いている別の福音とは、人の教え=律法の行い、
義とされるために改宗儀式を強いられ、彼らの宗派別の教え=
律法の行い=ラビ達が編み出した口頭トラーを日々生きる事、
それらを別の福音と話している、でも今の時代の別の福音とは、神の言葉を否定する教え内容は別ですが、本質は共通点があります。
神の教えを神の意図通り、神の目が見ている通りを生きるとは
本物の自由であり、人の教えや偽物の束縛から自由にされる
ヘブンリーな生き方なのです。本来の生き方、本来の性質を
生きる、それが100%人にはぴったり、エデンの園の中での
フィットした心地良い生き方だからです。
神の子、光の子となったのに、神の性質=トラーに書かれた
人間の本来の生き方からずれた生き方を生き続けるのではなく
以前の生き方と決別し、神の上に、神の目的通りに分かたれて
いる。神の定義する人間の生き方をする事に区別されて生きる=
聖別されているとはどう言う内容で、どう言う意味なのかを
神の言葉を通して理解しなけばならないのに、それぞれ霊に導かれ自由に勝手に生きると言う教えは、完全に人の教えです。
霊に導かれて生きるとは、神の語る教え=トラーにぴったり
マッチしている事なのです。霊に導かれて生きているかどうかの照らし合わせる鏡は常に神の教え=言葉なのです。
神=言葉=霊だからです。
そして義とされた人が神の性質を生きる事は難しいことではない!と神が言われました。それを信じますか?が信仰に
より生きると言う事なのです。
申命記30:10 これはあなたが、あなたの神、主の声に聞き
したがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。
30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、
むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれの
ために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、
われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、
『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれの
ところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口に
あり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことが
できる。
神の性質=言葉を生きる事は人の本来の性質だからです。
光の子らしく光の中=イエシュアの実態の中を
歩みなさい=神の性質通りを歩みなさい=神の教え、
インストラクション=トラー=イエシュア=光の中を歩むと
聖書には書いてあるのです。
1世紀当時、それぞれの派、セクト=ユダヤ教のグループの中に異邦人が加わるには、それぞれのグループの派が定義する様々な教えや、改宗儀式をしなければ救われない、神の前に認められ、神の国での場所が得られない!と教えていた、それらを
”律法による行い”=別の福音とパウロが話していてそんな教えは神の前に無意味でありする必要がない!救いを得るために
割礼=改宗儀式をする必要などない!と説明しているのです。
この違いがはっきり分かると、どれほどパウロの書いている
内容、論点を読み違えているのか明らかになって行きます。
パウロは神の教えや、言葉を100%支持している神の使徒であり、神の言葉を破棄、ないがしろにし、自分独自の意見で神の
言葉を仕分けて考えた教えなど一度もしてなどいないのです。
良い知らせ=福音、アヴラハムに与えられたオリジナルの福音=全ての人がアヴラハムを通して祝福が与えられる、その基本は
”信じて”受け取り義とされた!それ以外に無い!とパウロが
説明しているだけなのです。神の教え=トラー=モーセの五書が
終わりなどと聖書のどこにも一度も書かれてもいないことが
聖書の事実なのです。
そして現代のクリスチャン達と、1世紀の時代のユダヤ人又は
異邦人信者達とは大きく異なる事があるのです。
パウロの時代の”キリストに付くもの”と言う言葉は、
2世紀以降の信者達との信じている内容、信仰、生き方とは
異なります。
現代のクリスチャンと言う意味とも異なるものなのです。
どうして違いがあるのか、疑問に思って考えるべき事なのです。
聖書に書かれている1世紀当時のイエシュア信者は、
ユダヤ人、異邦人共に100%トラー=モーセの五書を信じ、
学び、生きていた人達のみです。シャバット、新月、春と秋の祭りを祝い、神の教えたライフスタイルを生きて、食べ物も
レビ記11章に書かれた食べ物、人間が食べるもの、
人が食べるにふさわしく作られていな食べ物をちゃんと
理解して生きていたと言う大きな違いがあるのです。
そしてパウロが居た1世紀の時代には、現代で教えられている様な神の教え=モーセの五書が呪いで廃れた破棄されたなどと言う
教えや、ユダヤ人はトラーで滅び、異邦人はトラー=神の教えを
破棄して勝利したなどと言うスローガンを信じて唱える人など
誰一人として存在などしないのです。もしそんな事を唱えるなら
即座に偽教師、偽預言者、パウロが語る”別の福音”を語るものとしてレッテルを貼られ、即座に信じる者の中から追放されて
しまうのです。神の言葉を否定するとは、神に対する直接の冒涜であり死に値する罪である事を聖書に書かれた時代の人々は
聖書から知っているからです。
現代は、神の古い教えは終わり!なんでも許される恵の時代、
古い教えは終わり、何でも食べて良い、なんでもやって良い
それが恵の時代と教えます。きよくない動物=人間の食べ物として創造されていない動物が、きよい動物=人間の食べ物にふさわしく創造された動物に性質が進化したなどと、一体聖書のどこにそんな事が書いてあるのでしょう?なんでもやって良いと言う
ならそれは無法地帯に生きましょうと言う大変危険な教えです。
恵の時代は神の教え、インストラクションを無効にして破棄する
生き方をするなどと言うなら、それは全くイエシュアが教えられたこととは真逆の別の教えです。
不法をなす者とは、トラー無し=神の教え無しで生きること、
それは”わたしと何の関係も無い人”とイエシュアが言われた事に
照らし合わせれば、どちらが聖書の教えでは無いか明らかになります。マタイ7:23
続く