人間の編み出した神学ではなく聖書に書いてある本来の意味の再考察 ガラテヤ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

キリスト教神学の教えは、神が一体であると説明している

神の言葉=教えを、市民、道徳、儀式の教えと3つのカテゴリーに仕分け分別して考えていますが、それは基本的に神が紹介している神ご自身の言葉の性質を全く無視した教えなのです。

 

なぜなら神の言葉は神の御性質とぴったり同じ様に、

丸ごとで1つ=エハッドであり、永遠に変化無く、全て繋がり

入り組んで分解などする事は出来ない性質が神の紹介している

神の言葉の性質だからです。西洋神学が解説するイスラエルの

神像、神の言葉の性質は神ご自身が紹介している神の性質、

神の言葉の性質とは全く異なる性質を語っています。

キリスト教の教えは神をバラバラにして考えますが、

ヘブライ聖書は神はエハッドであると紹介しています。

神の言葉は変化、終了、分離すると神が言いましたか?

神は何と人に神と神の言葉の性質を紹介していますか?

西洋神学の教えと、神が語る神の言葉とどちらが真実か、

神の言葉から検証し直す必要があるのです。

 

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。

まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。

だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」

イザヤ40:6−8

 

”シャマ イスラエル アドナイ エロヘイニュ

アドナイ エハッド

”イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。”

申命記6:4
 
エハッド=1つ以上で全く一つを表す1つと言うヘブライ語です。人間の体を血管と臓器、皮膚、その他バラバラに出来ない、
1つに繋がり1つの体として機能出来るのと全く同じ事なのです。この性質は神の家族でも同じ。全員で1つとして神のデザイン通りに機能出来る。ユダヤ人も異邦人無しには”エハッド”には
なれないのです。
神の言葉は分解、解体、部分取り扱いは出来ない!と
神が紹介しています。イエシュア も同じ事を言われました。
 

エレミヤ31:31 ルカ22:20  新しい契約〜世界の人たち、

異邦人も共に加えられ続けて再更新される=新しい、

内容はモーセの五書=トラー=同じ婚姻契約を生きる様になると預言されているのが下の箇所です。クリスチャンの世界では来たるべきミレニアムでイエシュアが実際にエルサレムから世界を

統治するとは全く考えていないと思います。来たるべき神の国の憲法はトラーであり、全ての人がトラーを生きてそして神のオリジナルの記念日、レビ記23章を祝う様になると言う預言が

書かれているのです。

 

ここで思い当たる、な〜るほどと言うデイスペンセーション神学を信じる人の教えがあります。

ミレニアムにはユダヤ人だけが地上に残されトラーを生きて、

クリスチャンは天に居て、別の教えを生きる!

でもそれは聖書ではないです。

 

全ての人が神の中に一体で、全ての人が神の性質を生きる世界が

来るからです。しかも、地上で、イスラエルを攻めてきた代表として”エジプト”と言う国が書かれていて、その国の首相、

リーダー始め、世界がエルサレムで神の祭り=レビ記23章を

祝うと預言されているのです。

聖書にはクリアーにその事実が書かれています。だからトラー、

預言書を知る弟子達が、イスラエルの国を復興し、イエシュアがエルサレムから世界を統治するのはいつのことですか?と

イエシュアに質問している下りが書かれているのです。

1世紀のユダヤ人達は、イエシュアが救い主ではないと考えて

いたのは、王の王としてエルサレムから世界を治める存在では

なく、余りにも普通の人として生まれイスラエルに住まわれて、

最後処刑されたことからも、これは救い主なるわけはないと考えた人達がいたからです。

救い主ならローマ帝国の支配から救い出して、エルサレムから

世界を統治する王に君臨するのだ〜と考えていた。

地上での王国を治める時はまだ来ていなかったからです。

それは未来のことであることにトラー、預言書から

気が付かなかったと言うことです。

再び主が地上に来られたら、そこで世界統治が地上で行われる

ミレニアムが来る預言がちゃんと聖書には書かれているのです。

 

ゼカリヤ14:16

エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、

皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、

仮庵の祭を守るようになる。

 

そしてもう一つの誤解は、クリスチャンの世界では、モーセの

五書は律法であり、神の教えは終わりである!と言う考えや

アプローチしかないのです。それは人の編み出した神学でしかないのに、それが聖書だと本気で語られてしまっているのです。

 

神の教え、意図を全く誤解している教えしか聞かれないのです。神の教えは、救いを得るための手段の律法ではなく、私達を保護する防御服、鎧兜、神の守り、人間本来の生き方なのに、

その事実にさえ聖書を読んでいても見えず、神の言葉に敵対する教えを信じて、神の言葉は終わりだと唱えることが正義であると言う意識を頭脳の奥底に刷り込みされ続けて教えられてしまっているのです。

聖書ではない不真実な教え、神の真実の教え=言葉を遠ざける

教えは、確実に神との隔たりの壁を作ります。なぜなら相手を

誤解したら正常な関係、顔と顔を合わせる関係から飛び出てしまうからです。神の言葉、教えている意味が理解出来なくなるのです。神=言葉=霊なのです。

 
マタイ 5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、
と思ってはならない。廃する<間違った解釈をする>ためでは
なく、成就<神の意図通りを理解して生きる事>するために
きたのである。

マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、

トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

<神の造られた天地は滅びないので、神の言葉は永遠に廃らなず

完全に全う=すべての人がトラーを生きる様になる。>

マタイ5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまた

そう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

 

これを聞いた1世紀のユダヤ人はこれを考えているのです。

申命記4:2わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えては

ならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

 
箴言4:2わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。
わたしの教=トラーを捨ててはならない。
 
イスラエルの神ご自身が語る神の性質、神の言葉の性質を無視した教え、イスラエルの神、神の言葉に対する西洋神学が解説するイスラエルの神像はバラバラ、変化する、人種別、時代別の
別種類の教えと言う教えなのです。
 

神の教えを3つのカテゴリーに分離するなら、なぜシャバットを捨てないがしろにする事は死に匹敵すると神が人に教えている

のでしょう?と考えたら理解出来るはずなのです。

何が道徳で、市民、儀式の教えなのか区別は出来ないほど神の

教えは全てが入り組んで1つになっているのです。

ヘブライ思想、神の言葉が1つです。シャローム=丸ごと全て、全部ではなく、神の言葉を部分的に切り分けるのがヘブライ思想

とは別の西洋思想ヘレニズム思想の世界の異邦人思考回路なのです。

今クリスチャンの世界で教えられる教えは、主に道徳的な教えが大事、その以外の神の教えは終わったと言う教えです。

神の言葉は終わった?

その思想、教え自体が全く聖書とはズレた人間の思想哲学です。

 

それなので、神が語る神の言葉の定義に基づく聖別の意味

聖書に書かれた事実から考察して理解する事など全く無いと

思います。自分自身の経験の中には全くありませんでした。

聖別とか、きよいと言う意味は、ぼんやりした誰かの解説でしか

なかった事がオリジナル聖書=ヘブライ語の中に書かれている

神の教えに出会って初めて考えていた事とは全く違う意味で

聖書に書かれている事に気が付きました。

 

聖別の意味は、神の記念日、食べ物、飲み物を通して、衣服を

通して、人が生きる全ての生き方を通して、神の神殿に捧げられる動物、その他諸々、道徳とは全く関係無い様々な教えを通して神は聖別の意味を最初から人に教えているからです。

聖別の中身が聖書の最初に出てきますが、それは”シャバット”を

聖別したと言う内容なのです。聖別の意味は黙示録の終わりまで

ずっと変化がないのです。様々な事柄を通して、神の上に分かたれた人の生き方=聖別そのものがモーセの五書の中で教えられているのです。

 

救い主に出会うまで、トラーに書かれている神の教え=本来の

人間の生き方は自力では分からないものです。道徳心などは、

本来自分の中に神の性質が搭載されているので普通の人なら

ある程度は理解出来ますが、イスラエルの神が語る聖別の意味や、聖別された人の日々の生き方の詳細、内容は決して見えません。なぜなら、聖別とは、神の子らとされた事は、この世の教えや生き方とは区別されているものであり、神の言葉、教えを知る以外に聖別の内容が何か全く理解出来ない、特に異教の神々の

世界、風習で生きている場合は微塵にも思い浮かばないものだからです。

 

 

 

続く