前回の続きですが、大きなゲンコツ煎餅のかたまりや
大きな丸い飴玉がありますが、それを丸ごと一度に口に入れても噛み砕けない、溶けないものです。容量オーバー。
それと同じで、一度に今まで聞いたこととは違う解説をしても
飲み込めない、何が本当か分からない、いや聖書に書いてある
事実に戻り注意深い考察、読み方をし直さない限り、誤解されて
解説されているパウロの書簡の中身は書いてある通りに見えて
来ないのです。人の教え=神学の教えを通してパウロが話して
いる内容を曲げて解説されているからです。
パウロが書いている書簡の中身を1つ1つ元の意味に戻して、
考える丁寧な学び、再考察が必要なのです。
特にパウロのガラテヤの書簡はギリシャ語のコピー=マニュスクリプトしか存在していません。福音書や他の書簡は、ヘブライ語のマニュスクリプトが存在しているのです。
この件は全く別の話なので、今深掘りはしませんが、
パウロがギリシャ語で例え書いていても、パウロの頭の中にある思索は100%ヘブライ思索、ヘブライ語のトラーに基づき
考えている事実があるのです。パウロ以外の福音書なども
完全にヘブライ語をギリシャ語に訳している様にたどたどしい
ヘブライ色100%のギリシャ語翻訳である事実があるのです。
日本人がアメリカ人が日本語に訳した辿々しい日本語を読んだら
アメリカ色らしい日本語ではない日本語であることはすぐ
見抜けるのと同じ事です。
そしてパウロが何者か?と言う事実がすっかり抜けている!
パウロは、ヘブライのヘブライ、パリサイの中のパリサイと自分から議会の前で公に紹介した様に、100%トラーに忠実に生きている一生涯生きていた、そして人にも同じ様にトラーを教えて導いた証拠が聖書には書かれているのです。使徒21:21、22:3、23:6しかもパウロは神の使徒です。その神から遣わされた使徒や預言者が神の言葉=トラーを否定するなどあり得ない!!!と言う聖書を理解する大前提の基本をなし崩しにするなら、聖書に書かれている本質を見抜けないし、理解出来なくなって別の教えに変身したものが聖書であると信じ込んでしまう
迷路にハマります。
世間一般に解説されている”聖書のオリジナルの言葉”に基づく
解説ではないものばかりが長い年月流通し、その一方的に誤解
された聖書の解釈の教えだけを聞き続けている状態なのです。
しかも、聖書の中に書かれたオリジナルの神の言葉や思索では
なくて、人が作った神学を通して神の言葉を解説し語って
しまっているのです。
オリジナルのパウロの書簡、パウロが説明している1世紀当時に
存在していた、別の福音=律法の行い=周りを掻き乱す教えを放り込むインフルエンサーとは、一体何をさして語っているのか?
ラビ達が編み出した当時のユダヤ教の様々なグループに於ける
口頭トラー=”律法の行い”の事をパウロは話しているのです。
モーセの五書=神の教え、インストラクション=トラーの事を
律法の行いと言っているのではないのです。ギリシャ語のノモスの性質を知り、パウロが書いている内容の読みわけが必要です。
クリスチャンの世界ではそれらは疑いもなく、モーセの五書=
律法に戻るのか!と言うものであると教えられていますが、
それはパウロが話していることとは真逆、全く違う事を語って
いるのです。それは1つ1つ検証すれば分かります。
でも今迄見聞きして来た教えがどれほど真実を見ることを
妨害してしまっているのか知る必要があるのです。
律法という翻訳用語は、神の言葉にも、人の教えにも、法廷での
法則、罪の法則、この世の法則、口頭トラーなど様々なものに
使われてしまう同じ1つのギリシャ語=ノモスと言う言葉なので、それを理解しないと、翻訳の中で混同し神が神の教え=
モーセの五書を否定していると完全に勘違いしてしまうのです。
この箇所を読んでも変だとすぐ気が付かないとならないのです。
特に神を知りたい、神の語る言葉を知りたいと願望する読者なら
書いてある内容の矛盾に気が付くはずなのです。
3:13 キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、
ヒットラーの大衆洗脳プランの様に、何度も何度も情報を繰り返す、嘘は大きければ大きいほど効果がある、共通の敵を設定する
その様に人が洗脳される心理作用を彼は知っていました。
永遠不変の神ご自身、イエシュアご自身である永遠不変の神の
言葉に敵対するその思想は完全に変なのにそれが正義!と考える
思考回路!聖書の事実と矛盾があることに気がついていますか?
特に繰り返しされる情報の刷り込みは大きな効果があります。
だからその情報が正しくない場合、正しくなくてもそれが
聖書の真実だと思い込まされてしまうことは同じ作用なのです。
1世紀当時、パウロが書簡を書いた時代に使われていた言葉は
それ以前のイエシュアが地上に来られる前にはなかったものが
あるのです。
例えば、異邦人がユダヤ人になるための改宗儀式です。
異邦人には神の国での場所が与えられていないと考えるユダヤ人
ラビ達の編み出した思想で、神の国に入るには、救いを受ける
には、ユダヤ人になる改宗儀式が必要という教え=律法の行いと
パウロが話しているのです。これは、創世記〜マラキには
存在しない思想、言葉なのです。その”律法の行い”の内容は
それぞれの派により異なる教えなのです。そしてそれらは神の
言葉=トラーとは異なるものです。
プロセライト=改宗儀式はパウロの時代に存在したものであり、1世紀当時”割礼”と言う言わばニックネームを使っていました。それはアヴラハムに与えられた割礼の意味とは全く異なる、
ラビ達が編み出した改宗儀式の事です。
創世記12:3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからはあなたによって祝福される。
18:18アブラハムは必ず大きな強い国民となって、
地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
イザヤ60:21あなたの民はことごとく正しい者となって、
とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、
わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。
福音とは、アヴラハムに与えられた約束の中にあります。
それは全世界の国民、神に連なる全ての人、異邦人もユダヤ人も
人種に関係なく祝福を受けると言う約束があるのです。
だから異邦人抜きにユダヤ人も神の前に完全に1つでシャロームの姿になることは無いと聖書には書かれています。
でも、当時のあるユダヤ人達は、これを信じない、認めたく無い、イザヤ60:21の翻訳でさえ、あなたの民とある部分は
”全ての民”=異邦人含め全てと書かれているのにそれを無視した訳され方をしています。
その様に聖書とはずれた見解を持ったユダヤ人ラビ達が
編み出したのが”改宗儀式”なのです。
クムランのグループ、サドカイ派のグループ、パリサイ派も
ですが、それぞれのグループの中に異邦人が加わるには、
彼らそれぞれ定義の改宗儀式=”律法の行い”と言うものを
経なければならないと教えていたのです。
パウロが語っているのは、神の教え=モーセの五書の話では
無いのです。ここはよく考えてみれば理解出来る事です。
クリスチャンのグループに例えて言えば、こんな風になると
思います。
神の前に義とされている救われている確証を得るには、神の国の
正式な一員となるには、うちの派の会員にならないとなりません。<これは聖書の教えでしょうか?違います。>それには
これこれ、これこれをしてこれこれをする義務があります。
そして会員手続きを取り、うちの派の信じる所の儀式を通して
洗礼を受けて初めて神の国の一員となります、と言う
そんなのと同じです。
異邦人がユダヤ人になる改宗儀式はもっと複雑で、仲間になった後も様々に複雑な彼らが編み出した教え”律法の行い”を朝起きてから夜寝るまで全てやる様に強要されます。そして異邦人の世界との関係を全く断たなければならないとも教えます。ユダヤ教でもキリスト教でもどこの派の中にも人が編み出した神の教えとは関係のない”律法の行い”と言うものは現在もたくさん存在していますが。
続く