続きです。
1コリント16:2週の初めごとに、めいめいが、
前の週の収入の一部を別にしておいて、この献金にあてなさい。
その額は、主の助けによって得た収入に応じて決めなさい。
私がそちらに行ってから、一度に全部集めることなどないようにしてください。
3私が着いたら、使者として信頼できる人たちを、あなたがたに選んでもらい、手紙を持たせてエルサレムに派遣し、
その愛の贈り物を届けさせましょう。
この箇所もローマ・カトリック、西洋キリスト教の伝統の慣わしの中で作られた、礼拝の席上献金を考えるから書いてある意味が見えなくなってしまっている箇所でもあります。
聖書、神の教えではシャバット中には集金はしないのです。
ビジネス、普段の余計な労働、努力、勉学、カネ集めなどは
しない!なぜ?シャバット=神が与えた全てから人が生きて
支えられている事実を、普段の労働を止めて祝う日がシャバットだからです。安息日と訳されている日は、ヘブライ語で
シャバットと言う名が付いていて、それは”止まる”と言う意味の
言葉なのです。記念日の性質を表しているのが記念日に付けられた名前なのです。
出エジプト16:29
見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。
おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」。
20:8安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20:10七日目はあなたの神、主の安息であるから、
なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、
娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる
他国の人もそうである。
20:11主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。
それで主は安息日を祝福して聖とされた。
聖別の意味が最初から書かれています。
WWJDと言うならば、神がされた通り、神が伝える通りを
生きる事=キリストと言う理解が出来るはずです。
WWRD R=ローマが教えることではなく、Y=救い主が伝える
教えは、父の言葉、婚姻契約=モーセの五書なのです。
レビ記23:3六日の間は仕事をしなければならない。
5:14七日目はあなたの神、主の安息=シャバットであるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、
荒野でも、神から2日分のパンが与えられた。
天から第六日目の昼間二日分のマナが降って来て、
第七日目は、パンを集めたり薪を集めたり労働はしないと
実体験を持って教えられた事と同じだからです。
献金集めをする日は普通の日、第一日目から第六日目までの間に
するものなのです。
しかも皆が礼拝で集まった席上で献金集めの人が来て集金すると
考えるかもしれませんが、パウロが話しているのは個人個人が
シャバット=第七日目以外の日に、そのお金を蓄えておいて、
週の最初=シャバットでは無い普段の日に集めておいたものを、
パウロが個人個人をシャバットでは無い日、シャバットが
終わった週の最初に訪問した時に手渡せる様にと言う
意味なのです。
パウロが日曜日礼拝をして、席上献金を集まると言う仮定から
想像して解説されてしまっているだけなのです。
日曜日がシャバットでは無いから、お金集めをすると理解する
と言う聖書の事実に戻るだけで、どれほど、慣れ親しんだ
西洋宗教の教え、慣わしのフィルターを通した考え、空想で
聖書に書かれた内容を誤解した読み込みをしているのかの
様々な実例に気が付きます。
コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月やシャバット=第七日目などについて、
だれにも批評されてはならない。
2:17 これらは、きたるべきものの影であって、
その本体はキリストにある。
この箇所もシャバットや記念日が変わったと言うとてつもなく
ずれた解釈がされてしまっている箇所ですが、
ちゃんと前後関係含め、解説の文脈、内容の意味通りに読めば
理解出来ます。
パウロが神の教えを否定していると言う重大な誤解をしている
から、聖書に書いてある内容を曲げて読んでしまうのです。
影と書かれている箇所は、”過ぎず”と言う原典には無い言葉を
挿入されてしまっている翻訳があるのです。
影とは目に見えない本体を表すと言う意味が聖書に書かれた
意味なのです。
イエシュアが”わたしを見たものは父を見た”と言われた事と
繋がるものです。自分の影は自分が動いた通りに動き、
本体のシルエットを正確に映し出すでしょう。
その絵画的教えからも理解出来る様になっているのです。
影は天にある目に見えない実態を地上でそっくりそのままを
表すものだからです。
食べ物、飲み物、新月、神の創造された記念日を生きるとは
目に見えないイエシュアをイエシュアの性質を生きる事を
通して表すものなのです。
それら=神の教え、神の命の生き方通りを地上で生きる人の中
から、目に見えない本体のキリストの性質が映し出されるからと言う意味で書かれているのです。
しかもこの箇所は、食べ物、飲み物=神が教えた通りの人の
食生活、そしてシャバット=第七日目の神の記念日、新月、
祭りを、誰からも批判されるなかれ!と書いてあります。
どうして同じ神の子らの中から、神の記念日を否定したり、
ないがしろにしたり、いや神のオリジナルの記念日を祝う事を
”恵の無い律法的な生き方に戻るのか?!”などとトンデモなく
ずれた発想、発言が出てくるのか?
これこそショッキングなコメント、発言なのです。
そして、主の日とあるのを日曜日、日曜日礼拝と考えていると
思いますが、聖書にある主の日とは何を指して語っているので
しょうか?2通りあり同時にそれらは真実であるものなのです。
1つは、レビ記23章の神オリジナルの記念日の事です。
シャバット、新月、春と秋の神の祭の一連。
2つめは、神が特別な業をされるある期間を指して
主の日と聖書では意味し話しているのです。
昇天以降神の教えが変わり、神の記念日も変わったとする教え
聖書には無い事を本気で信じる場合には、神の言葉を意味通りに理解する軌道修正、神の語る真実だけに戻る修正作業が必要なのです。
日曜日礼拝と言うものを作ったのは異邦人であり、しかも聖書が閉じられた後であり、1世紀後半ローマ帝国によりされた
エルサレムの神殿崩壊後、ユダヤ人はエルサレムから追放されただけでなく、ローマ帝国からトラーを教えたり、神の記念日
シャバットや祭りを祝う事を死刑を持って禁じられた後、異邦人がユダヤ人無し、ヘブライ語のトラー=聖書教師無しで、
ヘブライ語聖書の中身を学ばず、西洋人思想にのっとった教え、ローマ帝国に反しない妥協した教えを作り、聖書では無い独自の教え=神学を編み出し続けて行ってしまい、今に至るのです。
日曜日礼拝は昇天が日曜日だからと言う事ではなく、
元々ローマ帝国の主の日=ローマ皇帝の日=主を崇める日が
日曜日であり、同時に彼らの地場宗教太陽神=Sun god=を礼拝する日が日曜日=主日であるから、イスラエルの神の記念日、
第七日目のシャバットも同様にサンデー=日曜に変更しようと
言う事にしただけなのです。皇帝を奉る、地場宗教でローマ帝国の人々にも馴染みがある日、日曜日の方が一般に受け入れられ
やすいから。西洋画やその他の宗教やある思想を持つ人達の
マークは全て”太陽”へーロー、輪っか、太陽のマークで表される
事でも気がつくと思います。
何を信じて、何を生きるかは個人個人の選択です。
でも神がシャバット=第七日目の安息日を変更して日曜日礼拝にしたと言う聖書の事実でもなんでも無い事、神が言っても無い、変えても無い事なのに、あたかも神が変更したと言う不正確な
虚偽を言い続けることだけはしてならない事をまず知らないとならないのです。
日曜日は聖書では安息日=シャバットでは無いからです。
神の暦では第一日目は労働日で、イスラエルは日曜日は普通の
労働日であり、学校もあります。諸外国が聖書の暦、教えを
生きていないだけの話なのであり、神の時、暦は永遠不変なのです。日曜日はローマ・カトリック宗教が作った伝統で継承される記念日であり、イスラエルの神のシャバットの日では無いのです。
神は神の創造された第七日目のシャバットを永遠に変更しないし、していないからです。主がいつ、何時、何曜日に昇天しようともシャバットとは全く関係の無い話なのです。
異邦人が神の記念日を変えて、その教えに同調した人達が次世代へその変化させた教えや記念日を継承し、伝統で続いているからそれをやっていると言う事実表明をしないとならないのです。
創造主に対して、神の性質、神の栄光の度合いを曲げる事が
果たしてどう言う意味なのか?立ち止まり考えると見えます。
純粋に信じている事、主のために良かれとやっている
言っている事で、実は神の性質とは違うことをしてはいないだろうか?神に対して別物をもたらす行為をしていないだろうか?
神の言葉を否定し、曲げていないだろうか?といつも神の言葉、教えだけに照らし合わせて考える作業が必要なのです。
こう言う聖書には無い作られた教えや、解説、誤解を1つ1つ
確かめ、事実確認して神が語る真実だけを受け入れ、認めて、
神の言葉では無い間違を訂正、正し、解いて行くなら、
聖書に書かれた本当の永遠で変化の無い神の言葉の事実が書いてある通りに見出せる様になります。
続く