安息日が変更になった根拠とされる聖書箇所を実は誤解した読み込みをしている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

教えられて来た固定概念で、聖書に書いてある通りでは無い意味

に読み込みしているものがたくさんあります。

 

そして、翻訳では元の意味が消えて、失われてしまう難点が

あります。それは別の言語へ置き換える作業が介入するので

仕方のない事ですが、説明補足が必要なのです。

だから聖書に書いてある内容を教える場合は、書いてある元の

意味をきちんと知らないとならない必須条件があるのです。

 

ヘブライ語言語では、言葉の意味や繋がりが見えるのです。

地名や人名やそこで語られているメッセージの内容は、

同じ言葉や関連のある言葉で繋がっていて、ストライキング、

はっと事実に目が開かれて行く要素が満載なのです。

 

クリスチャンの世界で、神の教えが変化したり、神の記念日が

変化したとされてしまっていますが、それは神の言葉、聖書の

真実では無いのです。

人が勝手に変えてしまっただけと言うのが本当の事実なのです。

 

キリスト教のコメンタリー、解説でシャバットが第七日目から

日曜日へ変更されたと根拠であると解説する聖書箇所は

たったの5箇所です。

福音書〜黙示録の中だけの5箇所です。

しかもそれら全て、書いてある内容を誤解して解説しています。

聖書の中には神の記念日は変更などされた事実は記されても

いないし、事実イエシュア、使徒たち、1世紀信者達が祝っていたのは、レビ記23章の神の創造されたオリジナルの記念日を

祝っていた事しか書かれていないのです。

レビ記23章の記念日以外には、マカバイ戦争の勝利を記念する

”宮きよめ”=ハヌカをイエシュアが祝っていた事も書かれて

いますが。

嘘だ!?と思うなら、聖書だけから確かめても分かる事です。

 

使徒 20:5 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを

待っていた。

20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 

この5、6節だけ読んで、トラーを知るユダヤ人ならはっきり理解出来る事があります。

除酵祭と書いてあります。過越の祭の開始から7日間は

種無しパンを食べる週=除酵祭なのです。

祭りを祝うと言うことは、祭り自体が、シャバットととして

曜日関係なく止まる日として開始し、曜日に関係なくシャバット

として止まる日として終了します。

そして祭りの週の中、第七日目のシャバットが来たらシャバットを祝うのです。時々祭りの最初の日や最後の日に重なったり、

祭りの最初のシャバットの次の日が週の第七日目のシャバットで

ダブルシャバットになったりその日程は、毎年毎年様々です。

毎年祭りの始まる曜日は変わります。

ユダヤ暦で定められている祭りは、なになに月の何日と言う定めだからです。

グレゴリオ暦も毎年1月1日が同じ曜日では無いのと同じです。

シャバットだけが、週の第七日目と言う、週の中の同じ日で設定されているのです。

 

これが神のオリジナルの祭りのデザインなのです。

だから種無しパンの週を祝うと言うことは、クリアーに100%

明らかに分かる”シャバット”を第七日目に祝い続けている人達

神のトラーを支持し神の仰せを愛し、レビ記23章の神の記念日を祝う人達の事実がこの”除酵祭”と言う一言だけで

はっきり分かるのです。

そして、トラーを知る人なら、ユダヤ人なら日曜日の昼間や

夕暮れに集まったりしないのです。ユダヤ人は聖書の教えに

のっとって日曜日は労働日、普段の日なのです。

人は第一日目から第六日目の間に全ての業をすると神が言われ

神も第1日目から第六日目の間で創造の業をした通りだからです。日本人で言えば、月曜の昼間や夕方に会社や学校の用事を

休んで集まらないでしょう。

 

集まるとしたらそれは、金曜日の日没か、土曜日の日没です。

シャバットには、ビジネスや自分の仕事の話やお金集めなど

神がトラーでするなかれと教えているのでそれらをしないのです。次の日の旅の話をしている様子から、それは金曜日の日没

ではない、土曜日の日没であろうと思われます。

 

パウロがカメレオンのごとく、異邦人とはシャバットを第一日目

に祝い、ユダヤ人とはシャバットを第七日目に祝うなどと考える

人もいるかもしれませんが、パウロがもし神の教えや、

神のオリジナル記念日を否定し、祝わないように教えたりするならパウロは使徒でもなければ、パウロが書いた書簡は聖書とは

認められないものになってしまうのです。

ちゃんと聖書に書いてある通り、文脈、前後の内容を理解して

読めば、パウロや1世紀の信者達、ユダヤ人、異邦人

共々シャバット、新月、神の春秋の祭りを祝っていた事実が

はっきりと分かるし、安息日と創世記〜黙示録にあるものは

全て第七日目であり第一日目では決してないのです。

 

使徒20:7 週の初めのに、わたしたちがパンをさくために

集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、

しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

ここにある”日”と言う言葉はギリシャ言語には入ってない言葉が

意図的に挿入されています。

ここで分かる事があります。過越祭り=種無しパン、除酵祭りが開けての”最初”=穂を数える7週の最初の週と言う意味です。

そして、オメル=穂を数える週を祝うと言う意味は、

シャヴートまでの特別な時期の7回のシャバットを祝い続けると言う事実があるのです。

この下りを読んだだけでも彼らがシャバットを第一日目に変更

するなどあり得ないことを理解しないとならないのです。

しかもパウロは使徒21:21〜25に書かれている通り、

トラーを支持し、トラーを否定する教え、割礼を禁じたりそんなことは教えてもいない証拠とするために神殿でナジル人の誓いを立てた事実が書いてあるのです。ちゃんと聖書に書いてある事実だけを繋げて考えればパウロは100%トラーを uphold〜支持し続けている人である事がいくつもの箇所で書かれているのです。

西洋宗教の教えで作られた教えは、聖書に書かれている内容を、西洋思想や、自分たちの考え=神の教えは変わったと言う大前提で自由自在に、書いてある内容を曲解して読み込む事をしているので、神の言葉を勘違いしているだけなのです。

 

ここに書かれているのは100%ヘブライ人であり、神のトラー

モーセの五書に書かれた神の記念日を神の指定された日に

祝う人々の事が書かれているのです。

 

土曜日の晩には、ハフダラと言うシャバットと普段の日を分けるシャバットを閉じる儀式があるのです。

グレゴリオ歴で考えているので、日曜日の夜と考えると思いますが、もしグレゴリオ暦の日曜日の晩ならそれは聖書の暦では既に月曜が始まっている第二日目の時の事なのです。

そして日曜日は神の暦では週の労働日の第一日目であり

シャバット=止まる日、神の記念日では無い日なのです。

 

ローマ 14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

 

これも”日”とは、レビ記23章の神の記念日以外のものです。

誕生日とか、結婚記念日とか、国の記念日etd etc etc

自分に取って大事だと思う日の事を話しているのです。

ἡμέραν=へメラン=a day 定冠詞が付いていない
神の記念日では無い事が明らかに言語から分かる、
神の記念日以外の日の話なのです。

神の記念日の時は全て定冠詞が付いています。

定冠詞とは、英語でThe dayとなるTheの事です。

国の記念日や首相や大統領の誕生日、個人個人の様々な記念日

それらはそれぞれが大事に思う通り祝えば良いでしょうと言う

話をしているだけなのです。レビ記23章の神の記念日を

それぞれが自分の考えにより尊重するとか、ないがしろにして

祝わないとか、そんな話をパウロがする訳が無いと言う聖書の

基本知識が無いとならないのです。

 

クリスチャンの世界では昇天以降神の教えが変わったと主張した

西洋人の教えが聖書であると本気で信じ込まれてしまっているので、聖書では無い教えが聖書だと考えているだけなのです。

しかもシャバットの祝いの性質は復活の命だけを記念することではなく、シャバットとは”止まる” 神の創造が完了した記念

神が人と関係に入った事、全てを神から提供されて、神の意図

通りを生きることの全て、そして永遠の中に生きる事実、様々な事が網羅されているのが、シャバットの教えの醍醐味なのです。

 

そしてパウロは神の記念日=イエシュアそのもの、

福音の中核である事を理解して教えている教師、使徒なのです。

その使徒であるパウロが神が命の重さに匹敵すると神が直接教えているシャバットをそれぞれの人の意見で仕分け、判断し、祝う祝わないと考えて良いなどと教えるわけがないのです。

事実パウロはそんな事一度も言ってないし、教えてもいません。

神の記念日はイエシュアそのものであり、イエシュアのされた業

であり、神の子らが生きて世界へ福音の中核を伝えるものでも

あるからなのです。パウロもそう教えている。

 

続く