ローマの創作した記念日と 神が創作したオリジナルの記念日は異なる シャバット | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

コロサイ2:16に、食べ物、飲み物、シャバット、新月、祭りと書いてあり、それらはイエシュアの実態そのものを地上で

生きて表すもの=目に見えない本体の実態そのものを表す影

だから、誰にも批判される事なかれと書いてあります。

 

不思議ですよね。食べる事?飲む事?祭りを祝う事?それが何?

と考えるでしょう。アダムとエバも同じ事を考えたでしょう。

”食べて良い木”命の木からだけ。神の言うとおりだけ。

善悪の知識の木から食べてはダメ。同じ内容なのです。

理解出来れば神が語る内容が見えて来るのです。

 

食べる事!神が警告した通り、人は神に造られた性質を無視して

生きる事をすれば、ずれてしまう。

聖別の本当の意味も理解出来ないままになる。

祭壇に捧げる動物が全て”きよい動物”である意味を理解すれば

神の宮=人の中に取り込めるものも、きよい動物だけと

トラーを理解すれば簡単に理解出来る事なのです。

 

それらは実際自分が取り入れる食べ物とも繋がる事なのです。

神が言われた事だけを自分の内側に取り入れる。

神が言われた事か、そうではない事か、神の言葉に照らし合わせて、識別、見分ける。

そして、それらを通して教えていることがあるのです。

 

自分が頭脳に体に取り入れるもの、それらは神が指定したもの

神の性質に属するものですか?日々の食べ物も神が創造した

人間の食べ物を食べ、人間の食べ物と造られていないものは、

人は食さない。これは聖別を教える大きなものです。

神殿の祭壇に捧げられる動物を考えても分かる事です。

神の神殿の祭壇に捧げるのにふさわしくない動物は人が食するに

適さない、相応しくない動物である事が、神の口から

クリアーに教えられているのに、神の永遠の教えである内容を

それらは今は関係無くなりましたと西洋人は教えます。

 

人が神の言葉を否定して勝手に言っているだけで、

神は完全なる神の創造のデザイン教えを変更しません。

レビ記11章も同様に永遠なのです。

それとも進化論信じて、きよくない動物が進化変化したと言う

教えを作り出すのでしょうか?

 

西洋人の教えがそう主張しているだけで、神はそんな事決して

言ってなどいないのです。イエシュアが何を生きて、

何をされたか本当に考えれば理解出来ます。

イエシュアはレビ記11章に書かれた、神が人の食するものでは

ないきよくない汚れた動物を食しましたか?

そんな事あるわけ無い事を聖書の事実に基づき理解しなければ、聖書=神の教えの真意は見えません。

イエシュアは地上で神のトラーを完璧に生きたのです。

その中にはレビ記11章も23章もちゃんと網羅されている。

神の聖別の意味、内容、イエシュアを本当に理解していないから

なのです。

 

食べる事とは、これは日々の訓練でもあります。

エデンの園の忠告にいつも戻らないとならないのです。

神に言われたこと、神が禁じたこと、ぼやけさせて、薄めて

違うものにした声に聞き入るから、だから神の語る真実が見えなくなるのです。神がダメと言われたことは古代も今も同じです。

だから聖書に書かれた事をどの言葉もどの部分さえも曲げてはならないと神が言われたのです。

人の教えを取り入れたら、エデンの園の出来事と同じ、

神の言葉を疑い、薄め、別の教えに変形させても良いと考える

なら聖書に書かれた神の永遠不変の真実が分からなくなって

しまうからです。

人には不具合で、人を汚すものを自分の中に理解しないまま取り入れて気が付かない状態に留まるのです。

物理的、肉体的にも不具合が起こるのです。

 

日々の食べ物を通して、”識別する”と言うことを教えている、

聖別を教えている事に繋がるものです。

よく噛んで、識別し、別物は吐き出す。

神が言われた事、神が警告しているするなかれを敢えてするなら

それはどう説明しようとも実際に自分の中にズレや、不具合を

放り込み、神の教えから隔たりを作り、神が言われている意味を

理解出来なくなります。聖別は食べ物でも表されているのです。

日々神の前で覚えさせられる、日々のリマインダーで教えられて

いるのです。

人は何を取り入れて、何を取り入れてはならないか、

コンスタントに教えられる”日々のリマインダー”を神はいくつも

与えているのです。

初めから同じ。食べ物は一番分かりやすいでしょう。

 

神に贖われた人は、これこれを食べて、これこれを食べない。

神に聖別された人は、これこれを生きて、これこれを生きない。

神に聖別された人は、神が伝える神が創造した記念日から記念日を生きる様に造られていると神が説明しても、それら神の言葉が聞く耳を持たない場合何の意味ももたらさない、無感覚状態に

なるのは、神の言葉を神が言われた通りには聞いていないから

実際に神の意図通りには生きていないと言う事の証拠でも

あるのです。

 

それは神の言葉ではなく人の教えに塗り替えられた別物を神の

言葉、教えだと信じているから。とてもシンプルな事実です。

 

神が教える神の似姿、性質に造られている人の生き方、

それは、衣食住全てに渡り神が教えている、個人とそして

コミュニテイの中に於いての生き方、国全体の生き方、

神の国の憲法にまで繋がる人の生き方の詳細がトラーには

書かれているのです。

 

それを無視して良いと言う教えが、神から出たものなのか、

単に人が勝手に言っているのもか、聖書だけに基づけき、

神の言われる言葉の中だけで考え続ければ、

容易に神の言葉の事実の識別をする事が出来ます。

全ての問題の源は、神の言葉、教えを神が意図している通りに

受け取らず、人が神の教えを薄めたり、変えたり、挙句の果てには、神ご自身である神の言葉を人が否定し無用だとする

その様な罪=ズレから生じるものなのです。

 

神の教えを無視すると言う事は、個人を互いを破壊に向かう

綻びを創作することでもあるのです。

今の世界、神のデザインに反した成れの果ての姿を嘆き悲しむ

なら、一体それはどこから来たのか?神の言葉、教えから離れる、薄める、変える、捨てる事から来た事は理解していないと

ならない事実なのです。

 

詩篇1:4 悪しき者はそうでない、

風の吹き去るもみがらのようだ。

1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。

罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

1:6 主は正しい者のを知られる。

しかし、悪しき者の道は滅びる。

 

道=イエシュア=トラーの生き方に根付いた人達の道=

正しい者=ツアデキム=とされた人の生き方なのです。

 

これは、神の記念日や神の教えを終わり!とする教えを信じるならば、神の伝えている内容、真意が理解出来ないまま、宗教が

教える、宗教の教えが定義する義、聖別、栄光を考えて

生きることになってしまうのです。

 

人が教える内容、伝統で語られるクリスチャンの世界の教えと、神が永遠に伝えている教えの内容は別物です。

 

今日が神の創造された週一度の記念日。ローマが変えてもそれは

人間が作った神の記念日とは異なる日、異なる性質の記念日と

いう単純な真実があるのです。

誰の教えを生きているのか?と神から日々問われているのです。

 

Shabbat Shalom