パウロがトラー=イエシュアが教えていた父の教え=婚姻契約
モーセの五書を否定していると言うキリスト教の主張する教えが
聖書では無い事は、聖書自身が証明しているものです。
パウロがモーセの五書を否定して新しい教えをしたと言う事とは
逆の事がはっきりと聖書には記されています。
誤解の解釈の読み込みの解説を全部削除して、聖書に書かれている事実だけを繋げればパウロが何を信じて生きていたのか
明らかに分かります。
書いてある言葉の意味を知るだけで理解出来ます。
使徒の中に書かれているパウロの様々な言動や行動の記述を見て
みます。
使徒 5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者
ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、
使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
”パリサイ派”イコール偽善者の代名詞のごとく、クリスチャンの
世界で語られていますが、一旦その誤解を解いて聖書に書いて
ある意味通りに事実を読む必要があります。
パウロは死ぬ迄パリサイ派であった事を名乗っています。
以前の私の考えの中でもそうでしたが、1世紀のイエシュアを
救い主と信じていない人達全員イコール偽善者の、行いで義を
獲得する律法主義的生き方、考え方をしていた人であると一括りに誤解していると思います。
それはどんな世界でも、クリスチャンの間でもあり得る事であり
十把一絡げに偏見と先入観で聖書を読んでは見えない世界が
あります。
今の時代でもユダヤ人イコール律法主義者=神の教えを生きて
義を獲得しようとしている人達だなどと誤解すれば、
何も見えてきませんし、人を偏見の目、誤解して偏り見る事を
してしまうことになります。
そして、デイスペンセーション神学の様な教えで、救いは
2000年前に初めて現れて救い初めて得た、聖霊が人の内側に初めて宿ったのは使徒2章のシャブオートの祭りの時からなどと考えているから神の業の真実が見えないのです。
エデンの最初から、この世の土台が置かれる前から、
すでに救い=イエシュアは存在しているのです。永遠の中から。
アダムとエバの時から現代に至るまで、イエシュアの実態を
知って、聖霊を内側に得る事実を生きている残りの民は
どの時代にもいるのです。
その事実が見えない限り、1世紀当時のユダヤ人、いや古代の人は、イエシュアの実態=聖霊が内側に住まい神と共に生きていた
のではないと考えてしまうのです。同じ!どの時代も同じ!
個人個人により、神の真実、実態に対する理解と、体験の深さが
違うだけなのです。
しかも現代の教えの様にトラーは終わり!などと言う考えをする人がいない世界が聖書には書かれているのに、どうして聖書にはない、神の言葉を否定した教えが、恵の時代到来後の生き方だ
などと人の作った教えを本気で信じるのか、その教えの方が神の教え、言葉とずれた状態にあることなのです。
イエシュアが語る事、生きること、聖書が語ることが
100%トラーだと見えない盲点がキリスト教の教えの中には
あるのです。
1世紀当時様々なセクト=グループがあって、聖書に書かれて
いる代表が、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などが
ありました。
そしてイエシュア信者達は、トラーを生きていた人達の間の
1つのグループ=ナザレ派と呼ばれていたのです。
どのグループの中でも、偽善者はいるだろうし、
神の教えから逸脱した生き方をしている人はいるのです。
あるグループだから、クリスチャンだから、イコール全員が同じ
生き方、態度、同じ基準を生きているのでは無いと考えたら
理解しやすいと思います。
34節に書かれている通り、”国民全体に尊敬されていた
トラー学者ガマリエルというパリサイ人”と書いてあります。
ガマリエルとは、大ラビと呼ばれる”パウロ”の恩師でもある
方です。国民全体に尊敬されていたパリサイ派のトラー大学者
であると書かれている意味を考えたら分かります。
偽善者で国民全体に尊敬されているなんてあり得ないでしょう。
ガマリエルは当時の最高峰のトラー学者であり、
パウロの教師であり、国会に携わるサンヒドリンの議員であり、
国民全体に尊敬されている人。
この方の発言を見ても分かる事があります。
35節以下はラビ ガマリエルの発言です。
このラビ ガマリエルはいずれトラー、預言書に書かれた
救い主があのイエシュアである事に、真実に根付いて
考え続ける態度があるので、やがて気が付いたであろうことは
想像に難くない事でもあります。ガマリエルの様に、
真実を追求することに対して真摯で柔軟な態度は大事な事です。
5:35 一同にむかって言った、「イスラエルの諸君、
あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
5:36 先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、
結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、
全く跡方もなくなっている。
5:37 そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を
率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者も
みな散らされてしまった。
5:38 そこで、この際、諸君に申し上げる。
あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。
その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
5:39 しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼす
ことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。そこで彼らはその勧告にしたがい、
5:40 使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたして、ゆるしてやった。
立ち止まり事実だけを元に考える事をし、真実だけを繋げて
考え続けて行けば、必ず神は真実を人に表してくださるのです。
事実だけに留まり考えれば、人間の側で神の真実に目が開かれるのです。
固定概念、先入観にとらわれて、神の言葉を否定する教えを
一旦全部捨てる必要があるのです。ラビ ガマリエルの通り、
自分が善であると信じている内容で神を冒涜し、神の名を汚し、
恥をもたらす行動や発言をしているかもしれない、
まかり間違えば、神に敵対する事をしているかもしれないと考える事が常に必要なのです。
パウロに嫌疑がかけられていた点は1つです!
パウロが、神の教え=トラー=モーセの五書に反する教え
モーセの五書を否定する教えをしているのではないか、
神に対する冒涜を人に教えているのではないのか?と
疑われていた事なのです。
この点を注意して考えてみてください。
モーセの五書、イエシュアも同じように人の教えを正されて
いた通り、1世紀当時、モーセの五書以外に、ラビ達の編み出した、モーセの五書をどう生きるかの教え、解説があり、
それを”ユダヤ人の習わし”と言う言葉でも表されているものです。口頭トラーと言うものです。
これは何度も話していますが、ユダヤ人の世界で議論になるのは
モーセの五書に書かれた教えを日常生活の中でどう生きるのか?
が論点の中心です。キリスト教の世界の様に思想哲学、神の言葉の解釈、神の言葉終わりなどと言う神学に関しての議論ではないのです。なぜなら、神の言葉は書かれた通りの意味であり、
人が変更出来るものではない事をユダヤ人は知っているからです。
人が自分の編み出した思想や意見で、神の言葉を否定したり変形したり出来るものではないのです。聖書に書かれている内容を
どう生きるか?の解釈が違うものになると言う事があると言う事なのです。
手洗いの儀式の議論の様に、モーセの五書には手洗いの儀式の
教えなど書いてはないのです。ラビ達が作った伝統の教え、
習わし、それに従わない=口頭トラー=ユダヤ人の習慣に
イエシュアの弟子たちは従っていないと言う事を咎めて
ラビ達は、イエシュアに議論を吹っかけ挑戦していたのです。
伝統を守らない人=型破りな生き方をして迷惑と言う
感じなのです。自分たちの習わしを生きない事に違和感感じる。
使徒以降に書かれている、”割礼”とは、アヴラハムの割礼では
なくて、1世紀当時のラビ達が編み出した改宗儀式の事を
”割礼”と言うタイトルで呼んでいるので、アヴラハムの割礼と
ラビが編み出した宗教儀式が同じものであるとただ読んだだけでは同じ”割礼”と言う言葉なので、意味が違うと言う事が見えずに2つの別のものを混同して考えてしまうのです。
義を得るために”改宗儀式”をしなければと考えているなら、
そんな目的のために”改宗儀式”=”割礼”をする必要がないと
言っているのです。しかも女性が改宗儀式=割礼をしても
肉に割礼など付けられないけれど、”割礼”と言うタイトルで呼んでいるのです。現代のユダヤ教の中にある”改宗儀式”は割礼とは呼びませんが、複雑な行程、何年もかかるか訓練を経て、
認証される時間のかかる改宗儀式は現にあるのです。
人が義とされるのは、神の国での場所を得るには、何かをしたからではない信仰のみで神のされた業を受け取るだけしか出来ないから、本末転倒な考えをしている人の意識をパウロが書簡の中で
正しているのです。義とされるため、神の国の住民票を得ると
言う目的のため、改宗儀式をしないとならないなどと考えるなかれ!と話しているだけ。これは別枠で又書きたいと思います。
アヴラハムの割礼は永遠に意味があり、誰も否定できるものでも
帳消しに出来るものではない、なぜなら神が神の子らに
与えた”印”=事実は永遠だからです。
クリスチャンの教えの世界の中では、神が与えた割礼の意味、
意義、永遠の価値を理解していないだけだと思います。
続く