トラー モーセの五書の中に義 聖別 栄光を反映させる生き方の詳細が書かれている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

義、聖別、栄光の詳細、内容はどんな教えを土台に考えて

いるのでしょうか?

 

それらの詳細全てはトラー=モーセの五書に書かれているもの

なのです。それらを字面を読んで理解していると考えている

のですが、実際にそれらは何?と言われた時にはっきりとは

説明出来ないと思います。それぞれの想像するところの考えは

述べられても、神が話しているそれらの内容はトラーに書かれた詳細を知らなければ理解出来ない内容になっているのです。

 

福音書〜黙示録にはほんの少ししか記されていません。

なぜならその箇所は、トラーを知っている前提で全て書かれて

おりだから短いコメンタリーしか書かれていないからなのです。

だから、聖書の引用も聖書のある一部だけなのです。

その一部を引用したらその箇所全体に書いてある事を理解して

いる前提で全て話しているのです。

 

聖書の定義、辞書は、全て100%トラー=モーセの五書に

記されている内容なのです。だから福音書〜黙示録には6000

以上のタナック<トラー、預言書、諸書>の引用が書かれており

聖書は全て100%どの箇所もトラーを土台に話しているのです。イエシュアや、パウロや使徒達の教科書は、トラー、預言書諸書のみである事実に気が付けば見えます。

ダビデの教科書は、モーセの五書のみなのです。どれだけの知恵

同じイエシュアの救い、贖いの実態を得ていた事実を理解している、ダビデは全てを神の教え=トラーからだけ得ていたのか

詩篇を読めば理解出来るのです。神の教えの土台は全て100%トラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約のみなのです!

 

もし、モーセの五書が終わりと考え、そこに書かれている

神の教え、言葉の内容を書いてある意味通りに学ぶ機会がなく

知らないままならば、義、聖別、栄光は自分定義で考えるだけのものになり、西洋宗教の教えの内容に留まり、神が語る内容とは違うものに留まってしまうのです。

 

そして、贖われ救われた人達が生きる成長過程の内容は、

神の定めた時=モアデイムを、神の教えに根付いて生きることから生まれる事実がずっと聖書には書かれているのです。

なぜだと思いますか?それが贖われた人が、本物の自分を

再所有して生きて学習するプロセス、修復のプロセス、成長の

プロセスを神が神のモアデイムを通して創造の初めからデザインしているからなのです。信じたら一瞬で変わると考えると思いますが、奴隷から贖い出された状態、荒野の40年の神の教えを

聞く旅路で表されている通り、人は誰でも奴隷で培った頭脳に

割礼をする、神の目から見ることに切り替えるプロセス、

時間、本物の自分を生きる再学習が必要なのです。

 

義とされた実態を、神の教えを本当に理解し、神が伝える本物の自己像で、神の性質を神の性質の本当の自分の生き方が書かれたトラーを生きて、再所有し続けるプロセス、時が必要なのです。それが義、聖別、栄光に変化する成長のプロセスとして

聖書には書かれているのです。

 

この点を多くは誤解しているのだと思います。救われたら

魔法の杖で瞬時に変わる!インスタントの産物!奇跡や不思議を

する人に祈られれば、一瞬にして全ての問題が吹き飛ぶ!?

神の言葉など今は無用、生きる必要はない律法などと教えられてしまえば、神の言葉に注意も払わず、学ばず、神の教えに本当に根付かないまま、勝手な事を生きてしまうのは避けられない。

 

だから色々なムーブメントや教えに飛びついて、これをやれば

自分は変われる!これが足りないから自分はダメだ!などと考えるのだと思いますが、今までの生き方や思考回路は変えるとは、神の言葉に根付き、生きて、自分の中にある本当の問題の根が

どこから来て、どうしてそうなったのか気が付き、全てを切り

替えるプロセス、癒しのプロセスが必要だと書かれているのです。

それなのに、神の言葉を学ぶ必要も生きる必要もないなどと言う教えは、新しい人として生きる練習のプロセスを無視せよと言う

神の言葉、教えとは違う事を教えているのです。

練習なければ、上達しないことは、この世界に生きてれば

ちゃんと理解出来るはずなのに、信仰の世界だけは、

不思議とか奇跡とかで一瞬に変わるとか、たくさん奉仕したり

捧げたりすれば良いとか、そんなことばかり宗教の教えの中で

教えられてしまうのです。

 

義とされている事実を得た後、ずれた割礼の無い人の頭脳に

割礼を受けて、神の目から見る人生の旅路がずっと聖書の最初

から最後まで書かれている事に気が付けば、

神に何を教えられているのかの理解が始まるのです。

 

アヴラハムの人生、ヤコブ、そしてイスラエルのエジプトでの

400年に渡る奴隷生活と出エジプト、モーセ達が通った

荒野の40年の神の声を聞いて生きる旅路。

 

神の目から見る訓練をしっかり受けていた、ヨシュアとケラブ。

神の目から見ることに頭脳を切り替えて割礼を受けていた。

頭脳に割礼を受けていない、神の目から見る通りを学ばなかった

10人の斥候の例が書かれているのです。

それら斥候のヘブライ語の名前の意味だけを読んでも、

全部メッセージになっているのです。

 

長い年月ですよね。40年のプロセスを要している。

いや40年経っても頭脳に割礼の無い人=神の教える事を

受け取らなかった人の結末が教訓として書かれているのです。

頭脳に割礼を受けていない人達の世代は全て荒野で死に絶えたと

あります。自分の人生を振り返っても、聖書に書かれている

人たちの人生を読んでも、こんな年を取るまでどうして色々な事に気が付けないまま無駄な時間と大事な事を見失って生きてきたのか?と思う事が多いのです。

頭脳に割礼の無いまま、神の教えに根付かないまま、無造作に、ズレた生き方を続けたら、いつまで経っても変わらない、

気がつくのに長い年月がかかってしまうのです。

 

神の時、命のサイクルの中で、神はそれぞれに必要な

レッスンプランを設けて、そしてそれぞれに必要な事を教えると書いてあるのです。

神の人生レッスンプランを無視したら、神に教えられている内容にも気が付かないままになってしまい、成長せず同じ状態に

留まってしまうのです。神のモアデイムを捨てると言うことは、

大きな損失であり、神の教え=言葉を捨てる、不要と言う教えを聞くことは、神の意図やみ旨とは全く逆の、贖われた人の本物の

人生を生きる事を妨害する以外の何ものでもないのです。

神の言葉は真珠、金、宝と例えられている通り、命そのものに

匹敵する宝なのに、それを捨てよ、無用という教えは神の教えでは無い事に気が付いたらこっちのもの!バイバイ セラピム!

 

ダビデなどその内容を詩篇に細かく書いているのです。

詩篇1章、ダビデの詩の最初からそれが書かれています。

 

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

1:2 このような人は主のおきて=トラーをよろこび、

昼も夜もそのおきて=トラーを思う。

<昼も夜も寝ても覚めてもいつも神のおきて=トラーに書かれた詳細を思い巡らしそれを生きることを、願う、受け取る、

喜ぶと書かれています。ダビデはこれをトラーから学んでいたのです。

 

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を

あなたの心に留め、

6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて

語らなければならない。

 

1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると

実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは

皆栄える。

<この箇所理解しているようで見えないものがあるのです。

ダビデは何を話していますか?

川のほとり=生ける水=イエシュア=トラーの実態に根付いて

生きる中に植えられた木。木とは色々なものを表すものです。

イエシュアに繋がれた人、オリーブの木に繋がれたとあります。

木と言えば、救い主をヘブライ人は考えるのです。

木に接ぎ木された人=イエシュアの実態に繋がれ、イエシュアの実態を実際に生きる事=キリストと書いてあるのです。

葉は、酸素を排出します。命、癒しと繋がる印が表されている

もの、その葉は”枯れない”とあります。黙示録で、木の葉と

ある言葉に繋がります。

 

黙示録 22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て

 22:2 都の大通りの中央を流れている。

川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、

その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

 

イエシュア=救い主、神を表すものでもあり、木の性質を

考えても分かります。1年に1度年輪が出来ます。

神の教えに根付きじっくり生きる事=水をよく吸った年の木の

年輪が太くなる事でも、神の教えに根付きしっかり命のサイクルの1年、神がデザインした通りの神の時の中を神の教えに根付き生きる事である事を目に見える形で意味し表しています。

神の暦の時の一年を巡ること。神の記念日、シャバット、

新月、祭りを通してずっと神の教えに根付き生きる事。

 

ここでゆっくりと立ち止まり、じっくり考える、神の教え、

言葉の事実通りを繋げるなら、ダビデが何を話しているのか

気が付く事が出来ます。

 

 

続く