ヘブライ思想のヘブライの書の内容を西洋ヘレニズム思想異教文化の地で培った解釈で読んでも | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロがモーセの五書=トラーを否定した教えをしたり、

ユダヤ人と異邦人に対して基準を変えてカメレオンの様に

コロコロ教えを変化させたりすると考えている解説がありますがそんな事は100%聖書に書いてある事実では無いし、

パウロがもし神の言葉のどの点、どの教えでも否定し、

変える様な事をするなら、その時点でパウロは神の言葉、

神の教えを正しく伝える使徒、預言者では無い証拠となり、

聖書を書き記しパウロの書簡も聖書とは見なされないと言う

事実があるのです。

 

聖書の真実だと思い込まれている数々の教えは、1世紀後半、

異邦人達がすでに神の言葉や神の教えを否定し、記念日を作り

変えてしまう事が始まり、聖書では無い教えが、聖書であると

異邦人の世界で公言され、流通し、教えられたことによるのです。そして印刷技術が登場するまで、個人個人の手元に聖書を

所有していなし中身に何が書かれているのか個人個人で確認する事など決して出来ない。聖書の事実に基づかない誰かの教えでも

それらを聖書だと勘違いし、聞いてしまう危険に満ちていた、

そして今もそれはあるのです。もちろんオリジナルで書かれた

”ヘブライ語聖書”の中身など、ユダヤ人を追放して学ばないなら

西洋教父達には理解出来ないオリジナル聖書の内容であり、

ヘブライ聖書をヘブライ思索で学ぶなどと言う過程が全く無い

まま現代に至るまで、聖書では無い教えが聖書であると流通してしまった事実があるのです。

 

どの時代も神はユダヤ人達を通して正しく神の教え、

生き方を世界へ教える役割を与えている事実があるのです。

それははっきり聖書に書かれています。そして、神の教え通りを継承する同じくルツの様に、アヴラハム、イサク、ヤコブの神を信じて神のトラーを生きる異邦人達も同様にイスラエルの残りの民、同じ神の家族、同じ神の婚姻契約の中に加えている事実が

聖書には書いてあります。

 

問題は、神のオリジナルの教えの中に、神の意図通りでは無い物

が混ぜられている!と言う事実がある事に気が付かない事です。

 

アメリカ、ヨーロッパを通して日本に入って来た聖書解釈は

ヘブライ思索、ヘブライ語で書かれたオリジナルの内容では無い

ものです。その証拠に、元のオリジナル聖書、ヘブライ聖書に

書かれているものを読み取らない、翻訳聖書からだけの解釈が

教えられ、西洋人が作った神学思想を通してだけ解説される

”聖書”の解説、コメンタリーしか聞かれる事がないことからも

分かるのです。

 

翻訳には性質上どうしても難点があります。不十分なのです。

言語本来の語る意味が消えてしまう、書かれている意味、

度合い、その通りが翻訳では伝わらないものがたくさんあるのです。そして翻訳では見えない、ヘブライ語の中だけで見える

繋がりがあり、メッセージがあるのです。

 

例えば、ヨセフが御使いからミリアムから生まれる子の名前を

何と名付けるのか告げられた下りがあります。

 

マタイ1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエス

名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から

救う者となるからである」。

 

והנה היא תלד בן ותקרא את שמו ישוע כי הוא יושיע את עמו מכל חטאתם

 

日本語でイエスと聞いても、救いと言う意味に直接繋げる事は

出来ないのですが、ヘブライ語では諸々の罪=ズレから

”救う者”であるお方だから、”救い”と名付けなさいとヘブライ語では書いてあるので、読んだだけで、名前の意味=救い主が

される事の意味が一目瞭然なのです。

そう言う事がヘブライ語では見て取れるのです。

翻訳では翻訳の中で言葉の意味が失われてしまうのです。

 

パウロが書いた書簡で誤解している箇所の続きを書いていますが、あちこち寄り道をしながら書いて行きます。

色々と質問を頂いているので、的を付いた良い質問なので、

ここでいくつか回答を書かせて頂きたく思います。

 

1 律法と言う翻訳の裏にあるギリシャ語の”ノモス”と言う言葉は誤訳ですか?と言う質問です。

 

誤訳とは言えないですが、不適切な使われ方です。

当時の人達なら”ノモス”が多様な意味に使われている事を知っていて、そしてヘブライ語聖書を知る人なら、同じ言葉で適用されたそれぞれの意味が違う事も内容を読めば理解出来た言葉だから

ノモスと言う一括りの言葉を使ったのです。

詰まり、ヘブライ語聖書、トラーを知るユダヤ人でトラーに

書かれたヘブライ語の内容を理解している人達、そして聖書に

書かれた内容から、”ノモス”と言うギリシャ語を使う場合、

何が神の言葉で、何が罪の法則で、何が法廷での法則で、

何がこの世の教えや法則であると、別々の意味が書いてあるものと、書いてある内容から読み取れたのですが、

トラー=ヘブライ聖書、モーセの五書を知らない異邦人が

いきなり福音書以降、ヘブライ語の翻訳であるギリシャ語の

その又翻訳の英語や日本語や他の言語にされてしまったら、

元の意味は消えて、聖書の理解が無い場合には何もかももが一緒くたになり、ノモスと言う言葉の全ての意味のを、律法と言う

翻訳で一括りにされてしまえば、それは読み手には本当の言語の意味は理解不可能な翻訳になってしまっているのです。

 

しかも、神の教えは終わりというデイスペンセーション神学の様な教えを聞いて信じれば、それが神の伝える新時代の新しい教えだなどと誤解が誤解を招き続け、聖書の真理では無い教えが

雪だるま式に膨れ上がり、現在のクリスチャンの世界の教えではその聖書では無い教えが主流の座を占めてしまっているのです。

 

だからそれらの事実をギリシャ語の言語の意味から、ヘブライ語から学ばないまま、多くの人は、神の言葉を律法であるという

不適切な翻訳から神の言葉を誤解しているのです。

律法と言う言葉は、ヘブライ語では神のトラー=モーセの五書を指して語られるべき言葉ではないのです。罪の法則と、神の教えは同等では無い事は理解出来る事ですが、それら別の意味の言葉を両方ともノモスと訳され、そして翻訳ではノモスと言う言葉を

全部律法などと訳されてしまえば、言葉の意味を理解しない読者にとっては、聖書に書かれている本当の意味は、永久にお蔵入りで聖書に書かれた真相は理解されないことになるのです。

 

ヘブライ語のトラーとは律法などと言う意味は全く無いゼロ、

神の教え、インストラクションと言う意味が正しいヘブライ語の意味なのです。

 

”ウルトラマン”と言うタイトルの本を開けたら、

中身が”ちびまる子ちゃん”であったと言うのと全く同じです。

どちらも漫画、ストーリーだけど内容、意味が違うのです。

だから神の言葉、教えは律法と教えられ、多くの人に聖書の真実では無いことが教えられ、神の言葉を誤解をしているのです。

”する、するなかれのリスト”が書かれていると。

神のトラーは神の教え、インストラクションでその中に書かれているのは、神の性質に造られた義とされた本来のあなたの性質

生き方が書いてあると正しい理解に戻さないとならないのです。

 

だからそう言う意味で言ったら”ノモス”と言うギリシャ語で

別々の意味の言葉を全部一括りにしてしまった事は、

不適切な聖書翻訳の仕方であると言うことになります。

読み手に対して、本来の元の正しい意味通りの内容が伝わらない翻訳では、翻訳としての正しい機能をしていないし、

意味をなさない翻訳であるからです。

 

もう一つの質問は、義化、聖化、栄化というのもヘレニズムの

誤解ですか?救われて信仰生活を歩む者は聖化の過程にあると

思っていましたが?と言うものです。

 

質問の意図が私の側では、はっきり理解出来ていないかもしれませんが、書いてみます。

 

ヘレニズム思想とは、ヘブライ思想とは全く違うものです。

色々な内容があるので、深堀りは出来ませんが、その中の大きな

違いの1つは、デイスペンセーション神学の様に、

全てを歴史線上に考える事が西洋思想です。そして神の性質や

言葉が変化するものと考えるのも西洋哲学から来たものです。

 

ヘブライ思想は、永遠の中から全てを見る事です。

線上ではなく、円です。円はどの場所からも中心と同じ距離で

アクセスできます。どの点でも同じ神の性質に直結出来る。

神は永遠の中に存在し、時空に支配されない領域に存在するお方だからです。

永遠不変の神が語られる、永遠から見る全てです。

救いはこの世界の土台が置かれる以前から、永遠の中に

”存在していた”事がヘブライ聖書にははっきり書かれています。それがどの時代であれ、イエシュアが2000年前に地上に

来られる前も後も100%全く同様、同質の神の業、救いで

あり、時空を超えて、どの人種も神にアクセス出来る、

詰まり神の性質はどの時代も不変で同じであり、神の提供された

”義”とされた新しい人を生きる実態も同様に普遍なのです。

同じ!エデンの園、アダムとエバから現代まで同じ!なのです。

創造主はある時代の人に救いを与えず、助けもせず、えこひいきをし、差別する、途中で法則を変えて、救いを有効にしたなんて、聖書に書かれたイスラエルの神とは全く違う神像です。

同じ父、創造主は子供らにそれぞれに必要な助け、

対応をするのです。

 

人は自分の中にある神像が神であると考えているだけであり、

それが聖書に書かれたイスラエルの神にはマッチしていないと

言う事が多くあるのです。自分の思索、固定概念で考える

”神とはこう言う方”と考えているだけと言うことになるのです。

 

なぜなら、神は不変であり、誰がどう考えようとも、神は神が

紹介している通りに永遠不変で分け隔てなく、永遠から永遠まで同じ、変わらずに恵、許しに富み、哀れみに富、愛であり助けを与える方!と紹介しているからです。人がどう言おうと、どう思おうと、考えようと、神は神である性質を変えないのです。

神の言葉=神と紹介している通り、神の言葉もどの時代にも全く変化などしない事実を神がずっと紹介しているのが聖書なのです。

 

 

 

続く