パウロはカメレオンでは無い 2つのグループを獲得するためのパウロの対策とは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1コリント 9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。

ユダヤ人を得るためである。トラーの下にある人には、

わたし自身はトラーの下にはないが、トラーの下にある者のようになった。トラーの下にある人を得るためである。

 
パウロは”ユダヤ人のようになった”と言うのはパウロが誰かを
知る人たちにとってとても奇妙な発言です。
何故ならパウロは生まれつきユダヤ人であり、ユダヤ人社会と
密接に繋がりがあり、オープンにユダヤ人の社会の中での立場を生涯パウロは維持していたからです。
 
その続きで書かれている”トラーの下にいる人”と言うのは、
ユダヤ人のグループの事です。
1世紀当時のユダヤ教の中には何種類の”教派”=グループが
あったからです。
パウロ自身も”パリサイ派”の立場を一生涯貫き、維持して
100%トラー=モーセの五書を生きていました。
 
使徒23:6−8

6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。

わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、

裁判を受けているのである」。

7 彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に

争論が生じ、会衆が相分れた。

8 元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、

いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、

みな存在すると主張している。

 

パウロが言っている”トラーの下に居る人達”イコール、

パウロはこのグループの人達とは異なる立場である事を話して

いています。トラーの下にあるグループとは、ユダヤ人であり

イエシュアを救い主として気が付き受け入れていない

人達の事を指して話していると考えると妥当です。

 

ゆっくり一つ一つの誤解を紐解いて考えて行く必要があります。

パウロが書いた内容を大きく誤解している根元の問題は、

パウロがトラーを否定した教えをしていると言う誤解です。

パウロの論点が見えて来ない事、そして不適切な翻訳による

妨害で、真実が全然浮き彫りにならず、逆にパウロがトラーを

否定していると翻訳だけ読んで考えれば誤解する翻訳箇所が

いくつもあるからなのです。

 

使徒23章に記述されている、パウロがパリサイの中のパリサイと議会で証言している意味、真意はパウロ自身決して何があれど

100%トラー=モーセの五書=神の言葉に反する教えなど

信じていない、していない、生きる訳が無いと言う宣言なのです。パウロは人により時と場合によりその場を切り抜けるために

適当な嘘や作り話をしていると考えるなら、パウロの書簡は

聖書でもなんでもなくなります。

パウロは100%神の言葉=トラーを支持し教え生きて、

そして世界へ伝えた使徒だからです。

 

特に書簡の中で、パウロがシャバットを変更したとか、

割礼には意味が無いとしたとか、又食物規定が変わったなどと

考えられてしまっている下りがありますが、完全にそれは

全部誤解した概念で読み込み解釈してそれらの内容を読み込み

しているのです。

特にパウロが割礼と話している意味、内容を正しく理解しないと

ならないのです。

 

1世紀当時のラビ達の教えである”ユダヤ人になる改宗儀式”の

事を”割礼”と言うタイトルで呼んでいたのです。

その様な儀式はトラーの中には無いものです。

アヴラハムの純粋な割礼とは意味が違う事を理解しないと

ならないのです。

割礼と言う改宗儀式をした事実が目に見える証拠が、

”肉”に付ける割礼だから割礼と呼んだのです。

しかも、無割礼の異邦人だったから、改宗儀式をして、

その中の1つである”肉”の割礼もあるので割礼と言うタイトルで

呼んでいるのです。

でも女性には初めから割礼は無いし、改宗儀式をしても

割礼など無いのでしょう。

 

ユダヤ人に改宗儀式を通って初めて神の国の一員と認められるなど聖書のどこにも書いてないものです。

ルツの例が一番良い例です。ルツは異邦人であり、ユダヤ人と

結婚し、そしてユダヤ人の夫が亡くなった後、姑ナオミはルツに自分の故郷に戻る様に伝えました。でもルツはナオミに付いて

行きたいと懇願します。

”あなたの神は私の神です。”とその一言だけです。

何の改宗儀式も無いです。信じる基本とは自分の意識の中に

はっきりと神が伝える事実を認識し、生きる事だけです。

 

信じた時は、自分の意識の中で創造主であるお方が誰かを

認識出来たと言う事実があります。それが瞬時に分かるのか、

それとも徐々に徐々に真実に気が付き、確信を得るに至るのか

又は幼い子なら家庭の中で親に教えられシャバットとや祭りを

する中でユダヤ人なら自然にイエシュアが誰であるか認識出来る体験をします。

これは親が、イエシュアが救い主であり、シャバットや祭りが

イエシュアを表す福音そのものの中身である事を知っている人

子供らに教えられる人達は、その子らは自然と理解出来ると

教えてもらいました。

これは太古も現代も同じなのです。福音の実態、イエシュアの

実態=トラーそのものがイエシュアであり、それを理解する人は

まだ見ぬ救い主に気が付いている事実が聖書にはクリアーに

書かれています。

ダビデの詩篇など読めば、特にヘブライ語で、トラー=

イシュア=神=言葉と言う概念を持つ人ならその事実に

はっきり気が付けます。

 

太古の時代もまだ地上に現れない救い主を知って居たユダヤ人達が居たのです。だから2000年以降と以前と同じです。

そして福音はユダヤ人からまず伝えられた事実があるのです。

その理解の度合い、程度にそれぞれの個人により差があるだけなのです。

 

神の与えて下さった様々な印は、神の子らの印であり、

1つ1つに意味があるものです。

それら全ては、私達へのリマインダー、神の子らであることの

実態、福音の中身の実態を常に思い出すための学習ツールでも

あるのです。

 

ユダヤ人では無い人達は、ユダヤ人の中では”神の国”に属する

べき人達ではないと考える人が居たし、今もそう考える人達が

居るのです。それはあるユダヤ人達も神の教えを、異邦人同様に誤解しているからです。

 

婚姻契約はユダヤ人だけのために与えられているのであると

言う誤解、だから無割礼である異邦人など神の契約に計画されて加えられる人達では無いと考えている人が居たし、

今もいるのです。そしてそう考えていない無いユダヤ人も居ます。聖書を読み、そこに書かれている真意が理解出来れば分かる事実なのです。

 

これは一口にクリアーに区別出来ない内容です。

世界中にいるクリスチャンと言う人達が全員同じ考えをしている

訳ではなく、7万と言う位別の宗派や思想がある事からも

それぞれが何を考えているのには大きな差や幅があるので

一括りには出来ないものだからです。

 

パウロはローマ9:1−3で、パウロの同胞のユダヤ人である

人達がイエシュアを受け入れないことを嘆いている箇所でも

分かります。

 

ローマ 9:1 わたしはキリストにあって真実を語る。

偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、

わたしにこうあかしをしている。

9:2 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。

 9:3 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

 

パウロが”トラーの下”にある同胞のユダヤ人、契約の中に居る

同じ兄弟に対して、パウロは彼らのルールに従ったのです。

パウロはトラーを否定していない事を証明し、

彼ら同胞のユダヤ人と同じである事を証明し続けるためにです。

パウロは、トラーに違反しているとの疑いがかけられ、

仲間から切り離されたいためのムチを5回受けたと書かれている

下りがそれです。

 

 

 
 
 
続く