コリント人への手紙 パウロの語っている内容の事実だけを知る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2コリント 11:24 

ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度

 

パウロはなぜムチ打ちの刑を受けたと敢えて書いているので

しょうか?

それはイエシュアが救い主であるとパウロが宣言していた事、

これはイエシュアが約束の救い主である事に気が付かない

ユダヤ人の同胞、兄弟達は、このパウロの宣言は、

神を冒涜している事であると考えていたからなのです。

 

そして、パウロは異邦人を神の契約の中に加えていた事実を

受け入れ、同時に教えていたからです。

これは、当時のユダヤ人から見れば、異教の神々に混じる

偶像礼拝者である人達をメンバーに加えたと考えられていた

からです。

 

でもパウロはユダヤ人兄弟姉妹に対しても、同じ仲間である事実を証明し、彼らとの関係を維持するために、あえて彼らのルールに従ってむち打ちの刑を受けたと言うことが書かれているのが

2コリント11:24なのです。

 

申命記25:3 彼をむち打つには四十を越えてはならない。
もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、
あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることに
なるであろう。

 

申命記28:58 もしあなたが、この書物にしるされている
このトラーのすべての言葉を守り行わず、あなたの神、
主というこの栄えある恐るべき名を恐れないならば、
 
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義を
ゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りを
ことごとくふり起されなかった。
 
パウロは彼らユダヤ人、イエシュアを救い主と信じない人達から
神を冒涜しているとみなされていたので、パウロはその事のために鞭打ちの刑を甘んじて受けたのです。
それはパウロは何があってもユダヤ人同胞から、トラーに対する
反逆者、違反者とみなされないためにしたのです。パウロは神の教えから外れてはいない事を証明するために、そしてユダヤ人
同胞、仲間から切り離されないためにむち打ちの刑を甘んじて
受けた事が記されているのです。
それが、使徒21:21-24にも書かれている”ナジル人の誓い”を
エルサレムの神殿でした事実とつながります。トラーに違反していない、トラーに100%忠実である証明のためにナジル人の請願を果たしたと書いてある事実があるのです。
 
1コリント 9:21 トラーのない人には、わたしは神のトラーの
外にあるのではなく、キリストのトラーの中にあるのだが

トラーのない人のようになった。

トラーのない人を得るためである。

9:22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。

すべての人に対しては、すべての人のようになった。

なんとかして幾人かを救うためである。

 

21節に書かれている”トラーのない人”とは誰の事でしょう?

パウロは"トラーが無い人”と言う意味を、トラーに欠けている人

詰まり”トラーを無視、軽視し、無頓着、考慮しない人達と言う

意味で書いているものではないのです。

”トラーのない人”と言う意味は、メシアに属するトラーの中に

ある人々、しかし肉の生まれがユダヤ人では無い人達、

詰まり”異邦人”の事なのです。

 

これはパウロが”トラーのない人”と名付けているのではなく、

1世紀当時のユダヤ人、メシアを知らないユダヤ人、

シナゴグに集う人達が、メシアを信じる異邦人達を

”トラー無し”アノモスと呼んでいたからです。

 

何故なら、あるユダヤ人達は、異邦人達を”神の契約の中”に

存在しない人達であると考えていたからです。

神の契約、約束、そして助けの外にいる人達=異邦人と考えて

いたユダヤ人達がいるからです。

どのグループも神の言葉をある意味で誤解することは

あり得ると言う良い例だと思います。

 

それらの意識を持つユダヤ人達が、”プロセライト”=ユダヤ人に

改宗する儀式<割礼と言うタイトルで呼ばれる改宗儀式、

聖書には書かれていない改宗儀式>を経なければ、正式な神の国の一員と認められないと彼らの目からは神の契約に加えられた人として映らない神に認証されないと本気で考えていたからです。

 

彼らラビ達が編み出した改宗儀式を経ない異邦人は、

彼らユダヤ人の目にはただの罪人と区分けされていたのです。

 

ユダヤの賢人、ラビ達の言葉である”トラー無し”と言う意味を

覚えておく必要があります。

”トラー無し”とは、モーセの五書、神のトラーの教えだけではなく、その他にユダヤ人ラビ達の解釈の”הֲלָכָה=ハラハ=ラビ達

解釈の教え、様々なルール、おきて=口頭トラーと言われるものがその中に含まれている事を知る必用があります。

手洗いの儀式の様にトラーに書かれているものではない、

ラビ達が編み出した特有の教えやルールに従う事をさせること

神の教えではない教えを生きることが含まれてしまうのです。

 

パウロは異邦人はユダヤ人のグループの伝統の考えからは、

”トラー無し”とレッテルを貼り付けられていることを明確に

伝えたいと言う意図があるのです。

もちろん1世紀当時の異邦人イエシュア 信者は、神の契約に同等に加えられた人達であり、トラー無しではない、

トラー=神の婚姻契約に加えられ、神が提示する、教える

婚姻契約の実態=トラーを生きることをパウロから教えられて

いた異邦人なのです。

 

この点を大きく誤解しているのが西洋神学なのです。

西洋神学は神のオリジナルの言葉、教え、契約=トラーとは

違う教えを異邦人は生きるのだと主張しますが、そんなことは

聖書のどの箇所にも一切書かれてはいないからです。

 

ユダヤ人シナゴグのリーダー達の目からは、異邦人は正式な

神の婚姻契約に加えられる資格がない、なぜなら彼らはラビ達

が編み出した”改宗儀式”=割礼を経ていない事実がある

考えていたからです。

パウロは異邦人イエシュア 信者達がイエシュアの教えられた教え

トラー、そして神の命に根付く実態を生きる=神のトラーであることを受け入れていることをパウロは知っていたからです。

パウロも同様にパウロは神のトラーに根付きそして神のトラー=

イエシュア である事実を受け入れてユダヤ人の同胞から

そう言う立場であると言う事実を知られていたのです。

 
ピリピ3:6 
熱心の点ではエクレシア=カハールの迫害者、
トラーの義については落ち度のない者である。
 
パウロはイエシュア=トラー、預言書に書かれた方が来られた
事実を知り、イエシュアを受け入れる以前は、ユダヤ人だから
当然生まれつき神の契約に加えられており、神の教えを生きて
いたからそれだけで十分と考えていた事がピリピ3:6の証言からも理解出来ます。多くのイエシュア を知らないユダヤ人も同等に考えていると思います。

 

ユダヤ人も異邦人も、地上に来られたイエシュアが本物のメシア

預言された油注がれた方である事を知らない人、知る人、

私達が贖われ、救われた事実は、”信仰”のみ受け取る事実にだけ

由来するものである事をはっきり理解している人がいる、

そして理解していない人もいるのです。

 

人が何かをしたから救い、義を神から獲得するものではない、

贖い、救いの事実がありそれを信仰により受け取るのみ!が

人にできる事なのです。

神だけが100%人を回復する業をする事が出来る。

そして、贖われ救われた人は、元の泥、元のパン種を取り入れる生活をするなら、詰まり神が定義した人間の生き方からずれた

まま生きるなら、救われても贖われてもずっとズレたまま、以前と何も変わらずに罪と一体化した生き方をしてしまうのです。

だから、救われた人は、頭脳に割礼=神の目から見る通りを

学習し、神の教えを生きる事、詰まりそれは、自分の性質、

本来の性質を生きると言う事に軌道修正する事なのです。

 

あなたの本当の性質は〜だからこれこれをしないのです。

あなたの本当の性質は〜だから、これこれをするのです。

と言うシンプルな事実が神の教えなのに、西洋人哲学神学は

神の性質を生きる軌道修正をする事を”律法主義”などと呼んで、

自由になんでも生きる時代が恵みの時代になったのだと

聖書ではない教えを語り続けているのです。

 

自由とは、神の義の姿を生きる自由=罪の性質に妨害されない

自由、肉の包皮が本物の自分を覆いかぶせる事を、ひっぱがして!ロールバック!罪の包皮に常に妨害される事に気がつき、

意識的に神の子として生きよ!光の子らしく、光=神の命=

トラーに書かれた本物の人間の実態を生きよと聖書は最初から

最後までずっと教えているのです。

 

続く