1コリント9章 パウロが語っているグループとは | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

(A) 19節 わたしは、すべての人に対して自由であるが、

できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
(B) 20節a ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。
 (B1)20節bトラーの下にある人には、わたし自身はトラーの下にはないが、トラーの下にある者のようになった。
 (C)  21節トラーのない人には――わたしは神のトラーの外にあるのではなく、キリストのトラーの中にあるのだが――トラーのない人のようになった。トラーのない人を得るためである。
(C1)22節a 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。
(A1)22節b すべての人に対しては、すべての人のようになった。

なんとかして幾人かを救うためである。

 
最初の箇所でA/A1は明らかにパラレルです。
19節わたしは、すべての人に対して自由であるが、
できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の
奴隷になった。
22節b すべての人に対しては、すべての人のようになった。

なんとかして幾人かを救うためである。

パウロは”すべての人の奴隷”と言う立場を書いて、

そしてすべての人に対してすべての人の様になったと

結論付けています。

これはヘブライ語の表現スタイルであり、最初と最後で同じ事を書いているのです。同じ事を2度話している、並行している意味
を通して2度繰り返し活用し表現しているのです。
 
次にこの形態はパウロはパウロと関わる4つ別のグループに対して話しているのではなく、2つのグループに対して、
2つの並行ラインで話しているのです。
ユダヤ人というグループが一つがBのラインです。
そして、B1は”トラーの下に教育されている人達”。
そして、トラーを知らないグループがCであり、
信仰の浅い弱い人とさらに書かれているグループがC1です。
どのケースも最初に指示されているのは2番目に説明されている
ものです。
これはもっと一般的な言葉を使うと、説明が無ければはっきりと
意味が見えないからです。
 
ユダヤ人に対してユダヤ人の様になったと言うのは、意味不明感
を残します。なぜならパウロ自身は明らかにユダヤ人であり、
パウロは彼自身ユダヤ人であるアイデンテイテイを消した
形跡は無いからです。
使徒19:34、21:39、22:3 ピリピ3:4−6
 
もしパウロが”ユダヤ人になった”と書いているなら、
どんなユダヤ人に対してユダヤ人になったと言う説明が
無いと意味不明です。
パウロは、追加で”トラーの下にある”と説明しています。
これらのグループはシナゴグに集うイエシュア信者では無い
ユダヤ人達の事です。
 
同じ様に、”トラーの外にいる人達”とは、異教徒かもしくは

トラーに違反する人達となりますが、ギリシャ語でトラー無し

とは、”アノモス”と言う言葉です。

しかし、パウロは受け入れられるために、その様な人々、

違法をする人達、トラーをないがしろにする人達と関わりを

持っていたとはパウロは書いていません。

と言うよりか、パウロはトラー無しと言う意味は、

異邦人グループ、トラーを知らない人々の事を語っています。

イエシュアを知らないユダヤ人シナゴグに集うグループからは

異邦人はイコール”トラー”=イスラエルの神の契約の中に居ない人達と定義されるその人々の事です。

 

そしてユダヤ人達からは、異邦人を信仰の弱者とか神の前に

神の契約に加えられて居ない人々とみなされていた人と

考えられていたからです。

イエシュアを信じないユダヤ人グループの人達に異邦人は

”トラー無し”=契約の中に無い人種と考えられていて、

その異邦人を”弱い人”と呼んでいたのです。

その様にパウロは2つのグループの中でのパウロの立場をこの
9章の中で書いています。
1 神の教えの境界線の中にいる人達、ユダヤ人と言う
広い範囲のグループで、特にイエシュアをメシアと信じては
いないユダヤ人のグループ
2”その道”の者と呼ばれた当時のユダヤ教の一派であった
異邦人が重に占めるグループ、ユダヤ人もその中に居た
グループ。
これらの異邦人達は伝統的なユダヤ人グループ、シナゴグに集うユダヤ人達とは異なる”その他”のグループ、ローマ帝国社会の中では、ユダヤ教の一派と見られていたグループです。
 
それを理解した上で、2つのグループがこの1コリント9章の中に書かれていると言う意味で読んでみると見えます。
イエシュアを救い主と信じていないユダヤ人と、
イエシュアを信じる異邦人達この2種類です。
これは10:23にぴったり沿う事実です。
 
1コリント10:23 すべてのことは許されている。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが
人の徳を高めるのではない。
 
ユダヤ人にもギリシャ人にもそして異邦人の信者グループに対してもパウロは、彼らの感情を害する行為をしないと言う意味と
ぴったり合います。
これらの2つのグループに対してパウロが話している事を理解
すれば、パウロの書いている内容を誤解する事を避けられます。
 

1コリント 9:19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の

奴隷になった。

 
パウロはどう言う意味ですべての人に対して自由になったと
言っているのでしょう。
その前の箇所に答えが書いてあります。
パウロは報酬を得る権利があるけれど、それをしない自由も
ある。
当時の使徒達は、報酬を他者から受ける事は当たり前に
要求する事が出来たからです。そして日々の糧を得るための
一般の職につかない事が普通でした。
しかしパウロははっきりとそれらの報酬を得る権利を放棄したと
書いています。そして日々の職に就いて糧を得る事を選んだ。
労働者として働いたと言う事です。
ブルーカラー、賃金労働者として働いたのです。
その様に一人一人に”奴隷となって”仕えたと言う事、
一人一人の要求に応えるために奮闘した事、
パウロは人生をかけてそれをしたと言う事を言っています。
パウロがイエシュアの使徒として、福音を売る商売人と
見なされて批判されないためにそうしたと言う事です。
当時、異教の神々に仕える予言書達も同じように、あちらこちらに出向いて教えや口寄せアドバイスをして報酬を得ていた
のです。だから、パウロがしている教え、行為が彼ら異教徒の
予言や口寄せと同じであると誤解されないためと言う理由も
あると思います。
獲得、得るため、勝利=”ケルダイノ”と言う言葉が使われています。
この動詞は5回使われていますが、パウロのそれらの権利を
放棄する自由意志の目的に対して使われています。
 
パウロは福音のメッセージを伝え、彼らを獲得する目的、
ユダヤ人とユダヤ人でない人達に対して奴隷となったと
言っています。
殆どの場合、”獲得” ”勝利”と言うこの言葉の意味を現代の宗教
における伝道活動と言う感覚で捉えていると思います。
メシアに対して魂を獲得すると言った意味の様な。
この言葉は17回使徒の書に使われていて、
伝道が成功すると言う意味では決して使われていない言葉
なのです。
所有物を得るとか、金銭を得ると言う意味で使われている言葉で
詰まり、ある人々を個人的な関係、ある人を神の教えの中に
導く、神の意図通りの正しい状態に持って行く事なのです。
 
マタイ18:15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、
彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、
あなたの兄弟を得たことになる。
 
この場合”兄弟を獲得する”と言う意味は、兄弟を誤りから救い出し正しい事に立つ場所に戻す事であるのです。
それ故にパウロの目的は"獲得する”と言う言葉、福音、神の教え
トラー=モーセ五書とぴったり同意する事そして、生き方を変えるメッセージでもあり、信仰に根付き福音の全貌を理解する人達がもっとフルに神のされた業、神の教えに深く根付き生きる事に
導く事でもあるのです。
 
簡単に言うと、パウロの”獲得”すると言う言葉の使い方は、
神の教え、神の言葉=トラーをより深くフルに理解する事に
導く事であり、異邦人で言えばユダヤ人と言う立場でなくても、同じくイエシュアにあり神の家族の一員とされた事実に基づき、神の教えを生きる事に根付く事に導くものである事を
パウロが獲得と解説しているのです。
 

 

続く