1コリント9章 パウロは偽預言者 カメレオン? その2 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ユダヤ人の世界では西洋宗教の様な”思想”に関しての議論はありません。なぜならヘブライ聖書に書いてある神の言葉は書いてある通りであり曲げられない、書いてある通りを理解すれば

良いからです。

ユダヤ人の間での議論は、”神の言葉を実際の生活の中で

適用する上での数々の解釈”に関しての議論なのです。

 

イエシュアも1世紀当時のラビ達と行っていた議論も、

神の言葉を実際の生活でいかに適用して生きるか?の内容に

付いてでした。

1世紀当時のラビ達の中には、神の教えの意図を逸脱して作り出した自分達の教え=ハラハー=口頭トラー=ラビ達の解釈が

神の教えの意図とズレていたものをイエシュアが正している下りでも分かると思います。

代表的な例は、ラビ達はシャバットで人を助けたり、

弟子達が安息日に畑から穂を摘んで食べてはいけないなど。

食事の前に”手洗いの儀式”を弟子達はしないで食事をしている

事をラビ達が咎めている下りなどで分かると思います。

 

イエシュアはどの時にも神の”シャバット”を汚すことをしたり

教えたりしていないのです。

その様な箇所を読んでイエシュアが”シャバット”を汚したと

勘違いして誤解して読んでると思います。

”シャバット”を汚す=当時のラビ達の教えを汚している!と

言う事実に読み替えて理解すれば、ラビ達の言うイエシュアが

ラビ定義のシャバットにやってはならない事をして汚している、違反していると言う意味が理解出来ると思います。

 

ラビ達がイエシュアを咎めていたのは、”人の作った教え”=

ラビ達が作った彼ら定義の教えをイエシュアはやらなかったと

言う事に対してラビ達が”シャバット”を汚していると

シャバットの創作者であるイエシュアに対して威嚇しているのです。又は彼らラビ達独自の解釈の教えを生きていない、

イコールイエシュアはトラーに違反していると言っているのです。イエシュアがトラーを違反したり、否定したり、汚す教えを

したり生きたりする訳が無いのです。

 

彼らラビ達が作ったシャバットのするすべからずリストを

イエシュアが破ったとラビ達が言っているだけなのです。

この違いに気が付けば、イエシュアがシャバットを汚して良い

などと教える訳がない事が分かると思います。

人間の作った神のシャバットの意味、意図、趣旨、本質を理解しない本末転倒の教えです。

 

日本にもあると思います。例えば喪中に年賀状を出さないとか

喪中に祝い事をしないなどの暗黙のルールなどありますね。

道徳的な違反ではないけれど、習わし的にはある行動は

ご法度ですと言うものがあります。

決まりではないけれど、やらない方が無難ですと言うもの。

時と場合で考えれば良いものなのです。

 

ユダヤ人の世界でも例えば神の教えでは無いけれど、人が亡くなった時に喪に服しているのでその時には入浴はしないと言う教えがありました。
でもヒレールと言うラビはこう言いました。
”私は老人なので、老体を労わるために私は入浴します。”と。
こう言う判断、考え方の違いに相違があるのですが、
教師により考える生き方、やり方が違う事があるでしょう。
そうするとある教師に師事する人は、自分の教師が考える通りを生きる。そうすると違う考えをする教師に師事する人の間では
違いがあり、そんな事が争いの元になってしまう、そう言う事が
コリントのグループで起きていたのです。
 
そして、明らかにコリントのグループの中で不品行な生き方を
平気でしていた人達がいても正されていなかった事が書かれて
います。
もし悔い改めてズレを修正しないなら、グループの中に仲間として留まる事は出来ませんよとトラーに沿ってパウロは教えています。5:1、6
又仲間内の法的措置についても諭しています。
1コリント6:1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
 
相当仲間の中でギクシャク、分裂、知恵の無い対応の仕方を
していたことが伺い知れます。
しかも、裁判は異教徒の神殿で行われるのです。
パウロは、異教の神殿での問題をいくつか短く紹介しています。
偶像に捧げられた食べ物、異教の神殿の神殿娼婦と交わる事。
異教の神々に捧げられた肉について。8−10章。
パウロは特に神殿娼婦と関わることに付いて、贖われた人は
キリストの復活の命に繋がり聖でなければならない事を
教えています。6:14−15
結婚に付いて、創世記2:24を引用して解説。
6:16−18
信者は神の宮であり、聖霊の住まう宮であるから
聖なるものでなければならない。6:19−20
だから、どんな点でも”汚れ”と交わることは出来ない事を
教えています。
8ー10章では、異教の偶像に捧げられた肉について。
この章を読んで行くと、信仰の弱い人に対しての気遣い、
対応の仕方の違いをパウロは書いています。
これは神の言葉を曲げる事ではなく、ある人にとってつまずきになりそうなことを敢えてしない、思いやりでしょう。
たとえそれが神の前に認められる事でも、その事で誰かが
つまずくならやめようと言う知恵です。
 
9章でパウロが語っている内容も、何も悪いことではない、
自分には権利がある、でもそれをする場合に誰かのつまずきになるのなら、パウロは敢えてその人のためにしないと語っています。
パウロが報酬を得ないと語っている箇所ですが、当時偽預言者など、異教の神々に仕える人達が同じように報酬を得ていました。
これ分かると思いますが、例えば占い師が誰かの占いをすると
します。その人に報酬を払いますね。
パウロがトラーを教え、そして人にアドヴァイスを与えている
その行動が、当時の異教徒達の予言者、霊媒師の行動と同じに
見える事をパウロは問題にしていたのです。
だからその様な偽予言者や霊媒師と同じ様に見られないために
敢えて彼らのする様に報酬を貰いたくない、誰かにつまずきを
与えるのならそれはしたくない、だから自分で他で働いて糧を
得ようとパウロは考えたのです。
これは神からの知恵でその時代のその地域でのパウロの判断
なのです。報酬は当然もらうべきものと説明し、でもそれが
人につまずきや誤解を与えるのなら良いことでもやらないと
パウロが決めていた事が書かれています。
9章の1〜12節に書いてあるのがそれです。
 
そしてパウロがコロコロカメレオンの様に教えを変化させると
勘違いされている箇所が以下だと思います。
 

1コリント 9:19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。

9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。トラーの下にある人には、わたし自身はトラーの下にはないが、トラーの下にある者のようになった。

トラーの下にある人を得るためである。

9:21 トラーのない人には――わたしは神のトラーの外にあるのではなく、キリストのトラーの中にあるのだが――トラーのない人のようになった。トラーのない人を得るためである。

9:22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。

すべての人に対しては、すべての人のようになった。

なんとかして幾人かを救うためである。

9:23 福音のために、わたしはどんな事でもする。

わたしも共に福音にあずかるためである。

 

19節から23節は、平行形式に書かれています。

翻訳では見えませんが、”〜のために”と言う言葉で始められている、その何とは、1〜23節、これら全ての内容の結論が

書いてあります。

パウロはこのコリント人の牧者的存在であり、福音のために

自分の自由を放棄している事が書かれています。

パウロは、なんでもする自由を解説しているのではなくて、

イエシュアの使徒、福音を伝える役割のために敢えて自分の

自由を投げ打った、放棄したと書いてあります。

ここに書いてあるのはヘブライスタイルの形態、前に書いた事を

次の箇所でも同じ意味で別の言葉、解説で書いている形式で

書かれています。典型的なヘブライ語の形式のパターンです。

 
 
 
続く