ユダヤ人の世界では西洋宗教の様な”思想”に関しての議論はありません。なぜならヘブライ聖書に書いてある神の言葉は書いてある通りであり曲げられない、書いてある通りを理解すれば
良いからです。
ユダヤ人の間での議論は、”神の言葉を実際の生活の中で
適用する上での数々の解釈”に関しての議論なのです。
イエシュアも1世紀当時のラビ達と行っていた議論も、
神の言葉を実際の生活でいかに適用して生きるか?の内容に
付いてでした。
1世紀当時のラビ達の中には、神の教えの意図を逸脱して作り出した自分達の教え=ハラハー=口頭トラー=ラビ達の解釈が
神の教えの意図とズレていたものをイエシュアが正している下りでも分かると思います。
代表的な例は、ラビ達はシャバットで人を助けたり、
弟子達が安息日に畑から穂を摘んで食べてはいけないなど。
食事の前に”手洗いの儀式”を弟子達はしないで食事をしている
事をラビ達が咎めている下りなどで分かると思います。
イエシュアはどの時にも神の”シャバット”を汚すことをしたり
教えたりしていないのです。
その様な箇所を読んでイエシュアが”シャバット”を汚したと
勘違いして誤解して読んでると思います。
”シャバット”を汚す=当時のラビ達の教えを汚している!と
言う事実に読み替えて理解すれば、ラビ達の言うイエシュアが
ラビ定義のシャバットにやってはならない事をして汚している、違反していると言う意味が理解出来ると思います。
ラビ達がイエシュアを咎めていたのは、”人の作った教え”=
ラビ達が作った彼ら定義の教えをイエシュアはやらなかったと
言う事に対してラビ達が”シャバット”を汚していると
シャバットの創作者であるイエシュアに対して威嚇しているのです。又は彼らラビ達独自の解釈の教えを生きていない、
イコールイエシュアはトラーに違反していると言っているのです。イエシュアがトラーを違反したり、否定したり、汚す教えを
したり生きたりする訳が無いのです。
彼らラビ達が作ったシャバットのするすべからずリストを
イエシュアが破ったとラビ達が言っているだけなのです。
この違いに気が付けば、イエシュアがシャバットを汚して良い
などと教える訳がない事が分かると思います。
人間の作った神のシャバットの意味、意図、趣旨、本質を理解しない本末転倒の教えです。
日本にもあると思います。例えば喪中に年賀状を出さないとか
喪中に祝い事をしないなどの暗黙のルールなどありますね。
道徳的な違反ではないけれど、習わし的にはある行動は
ご法度ですと言うものがあります。
決まりではないけれど、やらない方が無難ですと言うもの。
時と場合で考えれば良いものなのです。
1コリント 9:19 わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。トラーの下にある人には、わたし自身はトラーの下にはないが、トラーの下にある者のようになった。
トラーの下にある人を得るためである。
9:21 トラーのない人には――わたしは神のトラーの外にあるのではなく、キリストのトラーの中にあるのだが――トラーのない人のようになった。トラーのない人を得るためである。
9:22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。
すべての人に対しては、すべての人のようになった。
なんとかして幾人かを救うためである。
9:23 福音のために、わたしはどんな事でもする。
わたしも共に福音にあずかるためである。
19節から23節は、平行形式に書かれています。
翻訳では見えませんが、”〜のために”と言う言葉で始められている、その何とは、1〜23節、これら全ての内容の結論が
書いてあります。
パウロはこのコリント人の牧者的存在であり、福音のために
自分の自由を放棄している事が書かれています。
パウロは、なんでもする自由を解説しているのではなくて、
イエシュアの使徒、福音を伝える役割のために敢えて自分の
自由を投げ打った、放棄したと書いてあります。
ここに書いてあるのはヘブライスタイルの形態、前に書いた事を
次の箇所でも同じ意味で別の言葉、解説で書いている形式で
書かれています。典型的なヘブライ語の形式のパターンです。