子供を持った人なら体験あると思いますが、我が子が生まれたら生活の細部に本当に自分ベストの注意と知恵を振り絞り
その子の命が健全で安全に成長する様に最大限努めて気を配り
ますね。
体に悪い製品は肌に付けさせない、食べさせない。
規則正しく快適に過ごせる生活習慣をつけさせるetc etc
生活の細部に渡り思い付く限り知恵を駆使します。
そうではない人もいるから100%一概に言えませんが、
母性本能どおり、神のDNAに沿うならそうします。
不思議な体験を子育てでします。子供の寝息や息遣いや
ちょっとした声にも寝ていても敏感に反応して目が覚めます。
母親は寝ても覚めても子供に意識が100%集中しています。
不思議な体験ですよね。
寝ても覚めても子供の事を考えています。私達の創造主である
神も尚更人間の親を遥かに超えて私達の上に意識を集中させて
下さっている事が聖書の細部に渡り教えられています。
私たちの生きる細部に渡り細心の注意を払い、
私達へ神に造られた人間はどう生きるのかの全てを網羅している
詳細、知恵が神の教えなのです。
生活の一部始終に渡る”人の生き方”のインストラクションを教えているのです。どの分野も網羅されているのが神の教えです。
神が私たちを創造されたからです。神の教えは100%
私達の貴重な命が守られるためのものなのです。
子育てで一番はまず”食べる事”。
生まれてすぐの子供に母乳を与える。それをずっと続ける。
食べるイコール命を繋ぐ事だと誰でも知っています。
親であれば、子供が食べるものに本当に気を配ります。
神は尚更もっとそうです。
神は人間に取って、人間が食するのにぴったり適した食べ物を
造りました。
人はなんでもかんでも自由自在に食する様には造られてはいない
事実が聖書には書いてあるのです。
そして食べ物を通して聖別を教えているのです。
最初の聖別は”神の時”に対して=第七日目のシャバットを
聖別した事。
人間=アダムとエバは神に生み出されて最初に体験したのが
聖別された時=シャバット=第七日目の神の記念日なのです。
神に属する人達の印である日。
そして神から直接人間に伝えられた最初の教えは
”食べる事”でした。
食べる=命を繋ぐ基本中の基本、生きる土台です。
あなたは何々を食べて生きる様に造られ、何々を食べては生きない様に造られている。シンプルな事実が神により伝えられています。あなたの性質に属するものだけを環境から取り入れる。
目に見えるものと見えないものはぴったりマッチして
いるのです。
霊的な事イコール物理的な事ともぴったり繋がっています。
神の創造された世界でもそれを表しているのです。
これは奥が深い内容なので、今は食べ物に関してに絞ります。
異邦人は、イスラエルの神、イスラエルの神の教え=トラー
イスラエル、ユダヤ人と言う肉的生まれ、イスラエルの国籍とも全く無縁に生きて来た異教の世界の教えに染まって代々異教の教えが染み付いてる、それが異邦人です。
だから神の教えが理解出来ない事が多くあるのです。
なぜなら聖別などと言う領域は、”道徳的”な事とは全く無縁の
教えだからです。そして聖別こそ命と死を分かつ境界線でも
あるのです。こんな事理解し難いですよね。
人間的にはどうでもいいよと思う内容だからです。
そしてイスラエルの神の教えを、自分の培って来た異教の世界の
基準や先入観で全てを考えてしまうのです。
その事実は、出エジプトしたイスラエルの行動でも教えられて
います。金の子牛を自分達の手の工作、努力で作り、イスラエルの神を自分たちの慣れ親しんだ方法で礼拝する混ぜ物をやった事が書かれているのがそれです。
それを異邦人は普通にしてしまうのです。
神の教えている内容、聖別の意味が、トラーが分からなければ
分からないからです。
異教徒上がりの異邦人は特に混ぜ物の教えに対して無頓着です。
いや区別の付くものに対しては分かりやすいかもしれませんが
混ぜるとは、神のものとそうでないものを混ぜることに無頓着。
これは金の子牛を拝んだイスラエルでも分かると思います。
エジプト=異教の神々の地で馴染んだやり方をする。
それが異邦人にはなおさら染み付いているからです。
道徳的な事とは全く関係のない神が厳重に教えている事=神の前に汚れであるものに関して数々がトラーに書かれているのです。
これは神の教えを知る以外気が付けない事なのです。
それは道徳的悪ではなくても、神の前に最も忌み嫌われる
行動や思索であることがトラーにはたくさん書かれているから
です。トラー=モーセの五書=神の教え、インストラクションを知らなければ、全く気が付けない教えの数々なのです。
人の生きる本質、でも異邦人にはそれが一体何の意味があり、
どうなの?とピンと来ないのです。
理解するにはトラーをまず知る、知って行くうちに神の教える
内容、どうしてそんな事を教えるのかまで理解出来る内容だからです。使徒15に書いてあった通りです。
神の教え=トラー=モーセの五書に書かれた父の教え=神が
人に伝える神の性質に似せられた人間の生き方が何も分からない異邦人イエシュア信者達。
異教の神々の神殿の詣でて汚れた動物を汚れた方法で絞め殺し、動物の生血を飲み、平気で神殿娼婦と交わりながら
イエシュア信者ですと言っていた異邦人イエシュア信者達に、
ユダヤ人パリサイ派がユダヤ人との交わりに入る上でとりあえず4つのルール<トラーに禁じられている最低限りの事、交わりで同じ食卓で食事する上でのルール>だけ守ってくださいと
提案したのが使徒15章。
後は毎週シャバットにトラーを学べば異邦人もだんだんと
神の教えを理解する様になって行くであろうからとりあえず
交わりをし食卓を一緒に囲む上での最低限をまず知って
下さいと書いてある通りです。
異邦人はトラー、モーセの五書と聞くと即座に”律法”と考える
条件反射をしてしまいます。その連鎖は、律法=終わり=古い=廃れた=不完全な教え=と言う非聖書的な教えの刷り込みによるものなのです。神の教えを生きる人は律法主義、恵みを無駄に
した生き方をする人だなどと本当に非聖書的な教えを唱え続けています。では一体救われた人は何の教えを生きていると考えて
いますか?
聖書のどの箇所も100%トラーしか書かれていない事実が
あるのです。
聖書に書かれている事実に盲目であるなら、宗教的思考回路=
人の教えが聖書と勘違いしてしまっているのです。
そして、人の作った教えを取り、神の教えを却下している事実に全く気が付いていないと思います。
神が神の言葉は完全と人に伝えて教えているのに、聖書に書かれた神の言葉を本気には受け取る事、生きる事をしていない信仰。
途中で訂正、変更しなくてはならない不完全な神の言葉があると言うなら、それは神は不完全と信じている事と同じ事です。
本当に人の創作した教えは本物の邪魔なつまずきの岩、
しかもそれが危険!と気がつかない。
人を神の教えから遠ざけている人間の教え=神学。
今の世界と同じ。人には危険なのに安全であると偽情報で騙し、それがまるで正義、人を守る良い事であるのだと本気で信じ
騙されて行く事と同じです。
自分の命、体に取り入れてはならない毒、危険を取り込み
破壊されてしまう。
本物と嘘の情報を識別し、見分ける事。
嘘とまこと、本物と嘘ものが仕分けされて行く時代に
入ったのです。
人間の作った神学の思想を土台にする信仰をすれば、
イエシュアが教えた教えは100%トラーなのに、
その事実に気がつく事さえできないのです。
なぜなら人の教えを信じて神の言葉が途中で変わったと本気で
信じているから、そしてモーセの五書に書かれている意味、
教えを書いてある通りに教えてもらえない、
学ばないから分からないだけなのです。
聖書は最後の箇所から最初を読み込みする事は出来ないのです。
人間の書で最後の部分だけ読んで、最初を考える事はしないです。最初から読んで最後に行って結論が見えるのです。
福音書〜黙示録は、100%トラーが書かれているのです。
エデンから出て、エデンに戻る。
トラーは100%エデン=神の中に造られた人間の生き方が
書かれているのです。
だから最後の箇所、最後の30%だけ読んでも分からないのです。最後の30%は最初の要約、短い解説でしか無いからです。
福音書〜黙示録は100%トラーなのです。この事実に私は全く
気が付かないまま、福音書以降は、最初の部分とは別の新しい
教えが書いてある人間が作った非聖書的な教えを疑いなく信じて長い間信仰生活をし、律法は廃れた〜と本気で信じ人にも
そう伝えていました。
穴があったら入りたいと言う本当にそんな心境になります。
永遠不変の神の言葉の事実に気がつかず新しい教えが出現したと誤解しているのです。本当に人の教えに洗脳されてしまったら
聖書に書かれている意味を完全に誤解してしまうのです。
だから軌道修正が必要なのです。神の言葉の真実だけに戻る!
それをすれば 書かれている神の教えの本当の意味が見えて
来ます。
それでは永遠普遍の神の言葉、聖書には何と書かれているのか
見ていきたいと思います。
続く